よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/12/08(日) 11:07:14

ネットではよく、人が「怒り」を表明している姿を見かけます。

リアルでも、特に職場などでは少なからずありますが、ネットは顔が見えないぶんリミッターが外れやすいのでしょうか、やたら口汚く罵倒し、しかもその様子が支持を集め、さらなる罵倒を呼ぶ……というシーンが多い。

しかし、こういう形で罵倒をしている人を見ると、私はどうも「うっ」となる。

昨日もとりあげましたが、『ヒンシュクの達人』という本の中で、ビートたけしがこんなコメントをしていて印象的でした。

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 最近、「自分が勝った」と思った瞬間に、相手をトコトン叩きのめしてやろうという感覚の人間が増えたような気がする。自分のほうが有利だとわかった瞬間に居丈高になるんだよな。
 スキャンダルを起こした有名人をネットで批判するヤツラもそうだ。絶対安全圏から、どん底に落とすまで叩きまくる。(中略)
 人間、自分が圧倒的に優位な立場にいるときに、相手にどう振る舞うかで品性みたいなものがわかる。「溺れた犬は叩け」じゃないけど、弱ってる相手、弱い立場の相手をかさにかかっていじめるのは、とにかく下品なんだよ。
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「下品」というのは、言い得て妙というか、そうだなぁと思います。もちろんそれは一つの価値観ですから絶対に正しいとは思わないけれど、私のように気弱な人間からすれば、「あの人にはちょっと近寄らないでおこう……」と思わせるに十分な力がある。

まして、自分には無関係なことで、よく知りもしないのに相手を「断罪」し、周囲と一緒になって罵詈雑言を並べ立てている人というのは、「私が似たような状況になったら、同じようにこちらの事情も考えずに責め立てて来るんだろうな」と思わせるに十分であり、その段階で親密なお付き合いを遠慮したい気持ちになります。

勘違いしないでほしいのは、別に批判することそれ自体を悪いと言っているわけではないということです。攻撃的なことも、口が悪いことも、私としてはそこまで気にしない。私の友人や、ツイッターのタイムライン上の人で口の悪い人なんてたくさんおられるけれど、その大半は「勝負」をしている人です。反論されるかもしれないし、自分も同じように攻撃にさらされるかもしれない危険と覚悟を背負って発言している。「下品」というのはだから、本質的には言葉遣いとかの問題ではありません。

たけしのことばを借りて言えば、「絶対安全圏から」見下すような態度、自分への反論を完全にシャットアウトするような「断絶」の態度をとること。これが、私の考える「下品」さです。なぜ「下品」に感じるかというと、そのような態度はコミュニケーションの放棄であり、他人の存在を無視することに対する開き直りだから。そしてそういう態度の人は、攻撃される心配が無いので、えてして攻撃的で、乱暴なことばを用いやすいだけだろうと思います。

人は誰も、自分の枠の中でしか他人を推し量ることはできません。コミュニケーションには、おのずと限界がある、ということはわかります。しかし、だからこそというべきでしょう、自分の枠には収まらない部分があるということを常に意識し、外側へと回路を開いておくことが大切だと、私はそのように思っています。だから、その回路を自覚的であれ無自覚であれ、閉じている人は敬遠したくなる。その印象を表現すれば、「下品」というのが近い。

具体例になるでしょうか、ちょうど、こんな記事がありました。

 ▼「表面だけの正義の味方になるな」(おやじまんのだめだこりゃ日記)

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2013年11月19日
表面だけの正義の味方になるな

友人が知人から仕入れてきた話。以下、友人からのまた聞き話だ。

詳しくは言えないけれど、俺の知人はいまクレーム対応でてんてこ舞いらしい。その知人が言うには「本人からのクレームならまだいいが、被害を被っていない人からの苦情が多くて、そっちの対応がたいへん」らしい。被害を被った人はその対応も実に紳士的なのだが、そうでない人は世の中の正義を振りかざしてくる。その姿はまるでネットイナゴそのもののようだとさ。

知人は「マスコミのスタンスってのも報道各社によってかなり違うみたい」と言っていた。物事をいろいろな角度から見て、できるだけ全体像を見せようとするところと、新聞社のくせにゴシップ的な書き方しかしないところ、その中間に位置するところと、はっきりと別れるらしい。ついでに言うと、ゴシップ的な書き方しかしないところはニュースバリューが落ちると見向きもしない。真実なんてそっちのけで、世間が騒げばそれでよしにしか見えない。そんなところがニュースを流しているし、そんな偏った報道しか見ていないんだから世の中もおかしくなるよなー、とかなんとか・・・

この話を聞きながら、俺もマスコミに踊らされて表面だけの正義の味方にならないよう気をつけないとなー、と思った次第。
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被害を受けたわけでもないのに、義憤にかられてクレームをつけてくる「表面だけの正義の味方」。これが「下品」の典型です。

彼らによって本当に対応が必要な人へのケアが遅れるとか、そういう実務上の問題もありますが、それよりなにより絶対安全圏から遠距離射程で一方的に攻撃を仕掛け、相手が倒れるのを待つという姿勢がここにある。

もちろん、本当の戦闘ならそのような戦い方にケチをつけるような野暮はしません。しかし、言論の場というのはお互いに噛み合ってナンボというか、意見を戦わせることで生産的な考えを生み出すことが目的でしょう(繰り返しますが、これは1つの信念として)。そういう場で、一方的に攻撃するバリアを張る、あるいはバリアがある状態で好き放題暴れまくるというのは、やってはいけないことではないけれど、そういう人と好んでお近づきになりたくはないですね。

とはいえ、そういう意味で品性を保ち続けるというのは実に難しいことで、私もそれができているとは到底思えない。無自覚に、あるいは自覚しながらやっていまっていることというのは多々あって、後から振り返って「あ〜あ……」と恥ずかしくなること数知れずです。後悔先に立たず、後も絶たず。

だからこそ、せめてもの抵抗というか戒めというか、「まずは形から」的な意味で、なるたけ言説の場では激昂せず、落ち着いた言い方で喋りたいと思っているのですが、先日「慇懃無礼だ」とか「遠回しに回りくどいことばかり言ってバカにしているように聞こえる」みたいに言われてしまい、軽くへこんでいます。

対話って難しい。

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2013/11/18(月) 22:32:31

私は仕事柄どうしてもある程度論理性を持った会話、議論というのを求められることがあります。その時によく使われる方法の一つに、「突き詰めて考える」というのがある。

他の現場ではどういう言い方をしているかは分かりませんが、たとえばこんな感じです。

+++++
生徒「人間は自由であるべきなんだから、校則とかなくして欲しい」
教師「人間一般の自由を盾に取るなら、教師側にも自由を認めるけど良いか?」
で、教師が体罰をガンガンやりはじめる。
+++++

うーん。上手な例かどうか分かんないですね……。言いたかったのは、生徒は自分たちの自由が欲しくて、その根拠として「人間の自由」みたいな話を持ちだしたけれど、「人間の」自由だというのなら、その自由は教師側にも認められねばなりません。結果、「万人の万人に対する闘争」みたいな状態が引き起こされるかもしれない……。

「そんなつもりで言ったんじゃなかった!」と言っても、意図せずその人の主張の中に織り込まれてしまう内容というのがある、ということです。

何かロジックを組むんだけど、そのロジックが自分に都合のいいようにしか解釈されておらず、必然的に導かれるはずの他の観点を見落としているときに、こういう事態が発生します。「突き詰めて考える」というのは、要するに、あるロジックについて考えうるさまざまな論理的な帰結をきちんと検討する、ということです。「枚挙」みたいなイメージといえば分かりやすいのかな。

分かりやすい具体例になるか不明ですが、エロゲーについて私がこのパターンでよく問題にするのは、「リアリティ」がどうこうという話の場合です。

「リアリティがあって良かった」、「リアリティが無いからいまいちだ」という言い方が良くないというのは、過去に何度か記事にしたことがありました(「これ」とか「これ」とか「これ」なんですが、まあ参照する意味はあんまりないです)。

細かい話はざっくり省いて議論を進めると、「リアリティがある恋愛描写が良い」みたいな評価を迂闊にしてしまうと、よりリアルな表現のほうが良い(たとえば、実写のほうがエロゲーより良い)という話にもなりかねないし、また極論、エロゲーで恋愛やるより現実で恋愛やってるほうが良い(エロゲーをさっさとやめるべき)ということにもなりかねない。

もちろん、ことはそんなに単純ではないのですが、「リアリティ」なり「リアル」なりということばの便利さに頼りすぎると、自分では想定していなかったような結論を導いてしまったり、死角から思わぬ反撃を被弾する可能性はある、ということは意識しておいても良いのではないかと思います。

書き手の側の予防策としては、なるべく誤解がないように自分の使う語の意味を適切に絞るような表現を用いる。これに尽きるでしょう。自分は「リアリティ」という語でこういうことが言いたいのだ、という内容がはっきり伝われば問題ありません。逆に言えば、書き手がいい加減にことばを使うから問題がややこしくなっているのだとも言える。

私も感想とか書いている身として、(とても難しいことではあるのですが)できる限り気をつけたいと、常々思っています。

しかしこの話、書き手の問題ばかりとも言えない部分があるのではないか、そんなことを最近考えておりまして、というのも、読み手なり聞き手なりのほうが、あきらかに「文脈」を無視している場面に何度も直面したからです。

まあ詳細な話は都合もあって挙げづらいのですが、要は単なる揚げ足取りをしているだけなのに、「突き詰めた」思考をしていないからといって相手をけなしたり、ダブルスタンダードだと断じて取り合わなかったりというようなことがあった。いや、私も似たようなことやってるとか言われそうですが。

自分を棚に上げて言えば、確かに論理性を突き詰めるとおかしなことになるものの、文脈を追えば言いたいことは理解できるだろうにという場合もあり、少々教条主義的というか、「不親切」な批判をしているなぁと。たいていの場合、それは表現の問題であって思考そのものの問題ではないので、両者を切り分けて整理し適切な表現を探すほうが、どちらかといえば生産的な気がします。

このあたりの解決は、もう文字通り書き手と読み手、語り手と聞き手の相互作用によるものだとしか言えず、読み手がどれほど気をつけていても、書き手が気にしていなければ内容をきちんと読み取ることは難しいですし、逆に書き手がどんなに気を配っていても、読み手の側が意識していなかったり前提を共有していなければ、伝わることは希です。

そもそも、伝えたい内容が100%伝わるということなどありえない、という話もありますが、たとえそうであったとしても、なるべく誤解を招かないよう、あるいは自分の意志がはっきりと伝わるような表現というのは目指されて損はありません。

「突き詰める」思考というのは、そういう意味でコミュニケーションを正確かつ円滑に行うための手段であり、一種の配慮であるはずです。

ですから、「突き詰める」思考を要求して、かえってコミュニケーションが取りづらくなるというのは本末転倒の気がしないでもないのですが、正確な表現を目指さない相手とはそもそも会話を成り立たせる必要がない、という考えの人もいますから、まぁなかなか難しいところ。

とりあえず私は、他人に無理やり押し付けるタイプのものではないし、実践できていない人を問答無用で切り捨てるような類のものではないと思っています。そもそも、自分が満足にできないから、そうされると困りますしね……。

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2013/11/11(月) 23:43:14

先日ツイッターで回ってきた、三秋縋氏のこのツイート。








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 「ヒロインが主人公に惚れる理由がわからない」「その展開に至る伏線がない」といった不満がよく聞かれることからわかるのは、人々が潔癖なまでに「公正な物語」を望んでいるってことかもな。「よくわかんないけど、そうなった」なんて、現実じゃよくある話なのに、物語においては最悪とされてしまう。
 たとえば、最後の最後まで目も合わせてくれなかった女の子から渡された遺書に、「あなたのことは、ずっと好きでした」と書いてあったとします。こういうとき、僕は筆者に一から十まで説明をしてほしくはないんです。精々四くらいの説明でいい。残りの六を自分で埋める楽しみを、奪わないでほしい。
 ちなみに、僕は決して「潔癖なまでの公正さ」を否定して「理屈の排除されたご都合主義」を肯定しているわけではなくて、そういった批判の陰に見え隠れする「ロジカル=価値」といった態度に疑問を感じているだけです。そいつを裏返したところには、曖昧さに対する耐性の低さがあるんじゃないか、と。
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賛成か反対か、と言われると難しい(部分的に賛成できるところもあり、反対したくなるところもあるため)のですが、考えるところがあったので、少し書いておこうかと思います。

◆三秋氏の発言そのものについて
素朴に読めるようでいて、実は三秋氏の発言そのものが比較的わかりにくい部分があるので、まずそちらをしっかりと考えてみることにしましょう。

最初のツイートを読むと、三秋氏はまるで、物語の中で描かれる感情に理由はいらない、というようなラディカルな発言をしているかのようにとれます。実際、多くの方はそう受け取って、それに対するようなコメントをしている。

しかしそうなると、二番目のツイートは素直にとれない。というのも、ここで三秋氏は「精々四くらいの説明でいい」という言い方をしているからです。二番目のツイートを読む限り、三秋氏は物語を読んで《想像》をしたい。そして、その《想像》のための手がかりが全く無くて良いとは言っていません。むしろ、「(十のうち)四くらい」は説明なり手がかりなりが、あったほうが良いわけです。

そして、三秋氏が最終的に批判しているのは、「「ロジカル=価値」といった態度」です。最初のツイートとあわせて考えると、「ヒロインが主人公に惚れる理由がわからない」「その展開に至る伏線がない」のような言説を、三秋氏は《物語の論理性》を重視するものだと考え、物語は論理的であるべし、というドクサを批判しているものと思われます。

これらから推測されるのは、三秋氏の想定している「敵」(ご本人は否定するわけではないとおっしゃっていますが、一応議論のうえの仮想敵なので)というのは、物語において過剰なまでに行動や心情に理由を求める人びとでしょう。あるいは言い方をかえれば、四割くらいのある程度漠然とした説明から想像力を広げて物語を読むことをせず、一から十まで説明されなければ満足しない人びとです。

これは、最終ツイートの「曖昧さに対する耐性の低さ」という発言とも一致するので、それほどハズレてはいないのではないでしょうか。

◆三秋氏の発言の妥当性への疑問
ところで、三秋氏が言うような「潔癖」な人びとというのは――つまり、物語の心理描写を一から十まで説明してもらわなければ満足しないような人は――本当にそれほど沢山いるのでしょうか?

三秋氏は、「「ヒロインが主人公に惚れる理由がわからない」「その展開に至る伏線がない」といった不満がよく聞かれる」ことから演繹したとおっしゃっておられますが、ここには1つ、大きな詐術が潜んでいるようにも思われます。

というのは、「ヒロインが主人公に惚れる理由がわからない」「その展開に至る伏線がない」という発言は、本当に三秋氏が言うような「潔癖」さの表明であると断言できる保障が無いからです。

「理由がわからない」や「伏線がない」という感想を「潔癖」さだと解釈をされたということは、、三秋氏はそういう発言を擦る人が「一から十」の「十」のほうのある/ないを問題にしている、というふうに考えておられるわけです。しかし、私の感覚ではほとんどの場合、「一」を(あるいは必要な「四」程度を)問題にしているように思われます。

たとえば、komaichiさんの『いたずら極悪』の感想を見てみましょう。

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単に性癖としてハマりましたとはではなく、もう少し突っ込んでヒロインの持つ
コンプレックスや劣等感、閉塞感などを取り去ってくれる相手として、
主人公自身を受け入れるといったプロセスが描かれる。

痴漢終了後のシナリオ進行にあたる会話部分では、主にこうしたヒロインの
心情の変化が描かれています。

割とぶっとんだ思考するのでヒロインに共感できたりするわけでもないし、
キャラによっては首をかしげることもあるのですが、
相手を好きになるという精神面での手続きを踏まえてくれていると
やはりこちらの納得の度合いとかヒロインへの愛着などが大きいようで
みなとても魅力的に映ります。
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ここで「プロセスが描かれている」というのは、その後で「割とぶっとんだ思考するのでヒロインに共感できたりするわけでもないし」という留保がついていることからも分かる通り、ヒロインの心情なり行動なりの「十」がわかるという意味ではありません。

たしかに、三秋氏がおっしゃるように、「ヒロインが主人公に惚れる理由がわからない」「その展開に至る伏線がない」といった批判はよく目にするのですが、そこから「潔癖なまでの公正さ」へと繋ぐのは、いささか無理があると思われます。

これは想像ですが、たとえば三秋氏が物語を読んだとき、あまりにも情報が少なすぎたり、あるいは曖昧すぎたりしたせいで「残りの六を自分で埋める」ことができないような内容だったら、「理由がわからない」とか「伏線が十分ではない」というような言い方をなさるのではないでしょうか。

そして、多くの人もまた実際その程度の意味で、つまり《必要最低限》の説明が無いというくらいの意味で、「理由がわからない」とか「伏線がない」とか言っているのではないか、というのが私の考えです。

もちろん、そのハードルが下がりすぎという可能性はあります。たとえばの話、「彼女は頷いた」と書くだけで含みを読み取れるのに、「彼女は頬を染めて頷いた」とか、あるいはもっと直接的に、「彼女は頬を染め、嬉しそうに頷いた」のように書かなくては通じないのはおかしい、というように。

しかし、そのレベルの話になると、どこからが曖昧でどこからが言い過ぎなのかという個人の判断基準の話になります。そしてそういう議論がしたいのならば、具体的な対象を挙げる必要がある。許容出来る曖昧さの基準をどこにおくかという別の議題とすべきですし、少なくとも、「不満がよく聞かれること」からは、そのことはわかりません。

したがって三秋氏の一連のツイートには、最初と最後が完全には繋がっておらず、実は二つの別な内容が含まれていたことになります。

一つは、「理由がわからない」「伏線がない」といった不満が多く聞かれるということ。(現状分析)

もう一つは、物語で「一から十まで」、「ロジカル」な説明がないと満足しないという態度には否定的であるということ。(主張)

三秋氏はこの両者の間を、三秋氏が考える「精々四くらい」のレベルの説明では満足しない人が増えてきた、という実感なり経験なりで繋ごうとしておられるのだと思いますが、その部分が抜け落ちているために適切な例とはいえないように思われます。

※一応自己弁護しておくと、その両者が簡単にはつながらない反証としてkomaichi氏のレビューを提出しました。もちろん三秋氏が普段目にされている感想なり意見なりが、圧倒的に「潔癖」なものである可能性はありますが、それを端的に提示するのに相応しい例ではないと思うし、そういう表現で言わんとしている内容を蔑ろにしているという意味で、少々不適切な例ですらあると思っています。

◆私の立場
問いそのものに困難があるので立場の表明が難しいのですが、三秋氏の結論のほうについては、私自身はかなり近い立場だと自分では思っています。

つまり、物語には語られない余白があるものだし、そこを想像するのが楽しい、という立場ですね。私自身このブログでも、何度か《想像》という話をしておりまして、そのあたりはかなり重なる。

ただ、「ヒロインが主人公に惚れる理由がわからない」「その展開に至る伏線がない」という発言が、想像力を排除して一から十まで説明してもらいたいという希望の表明だとは全く思いませんし、そういうことを求める人がやたら多いとも思いません。

もちろん全くいないわけではありませんし、とりわけそういうタイプの人が多く見られるジャンルや作品があるということも否定はしませんが。

ついでに、私がちょっとどうかなと思うのは一つ目のツイートの、「「よくわかんないけど、そうなった」なんて、現実じゃよくある話なのに、物語においては最悪とされてしまう」という部分。たしかにそれはその通りなのですが、じゃあ現実と同じことを物語に書けば良いのかというと、そればかりではないですよね。

これも何度か繰り返して書いてきたことなので「またか」と思われる方がおられるかもしれませんが、物語のような表現というのは、現実と同じであることが価値だとは限りません。

絵画なんかをイメージすればわかりやすいでしょうか。現実をそのまま写したのではなくて、そこから何か拾いたいものをピックアップして描くから面白い、という作品もあります。

現実の恋愛で「なぜか好きになった」とか、現実の行動で「よくわからないけどやっちゃった」というのは確かにある。あるけれど、それをそのまま描くことが自明に価値あることだとは限りません。むしろ物語だからこそ、ある種の理想の表現として、あるいは不条理な現実を吹き飛ばし自分の心のモヤモヤをすっきりさせてくれるものとして、「なぜかを説明できる」話を読みたい、ということもあるでしょう。

三秋氏はこの部分を、「一から十まで説明をしてほし」いと言う人を念頭において語られているのでしょうから、上のようなことを言うと話がズレてしまうかもしれませんが、だとすれば、「現実だとよくあることなのに物語だと扱いが悪いのはおかしい」というような主旨の発言はあんまりかみあっていないように思われるし、やはり別途、別の議論として立てたほうがすっきりしたのではないでしょうか。


というわけで、ロジカルのまねごとをして問題を切り分けてみました。私はこうやっていちいち分けてみないと整理がおいつかなくて、きちんとしたことが言えないのですが、分けてみた感触としては、非常にさまざまな問題が(「理由がわからない」のような発言はどういう意図なのか?/「現実じゃよくある話」を物語で軽く見るのは悪いのか?/ロジカルな物語の価値は?/「一から十まで説明」する物語の価値は? etc)ごちゃまぜになっているので、どれに答えようとするかで反応の質が変わってくるかなと。

なので、三秋氏のツイートに対する反応が泥沼の水掛け論を呼ばないよう、ちょっと気をつけたほうが良いのかもしれないと思いました。

結局、この手の議論の時には毎回思うんですが、私のように理解の遅い人間にとっては、自分の意見がどうだっていうのを表明する以前に、相手が言ってることがなんであるかをそれなりにきちんと読み取るのが大変なんですよね……。

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2013/10/28(月) 23:32:17

お昼休み、定食屋でご飯を食べていると、隣のテーブルについた、大学生らしき(会話の内容から)集団がこんなことを言っていました。

 A君「あの先生の授業マジ分かんねぇわ〜」
 B君「話が飛ぶし、知らないことを知ってる前提でいうからたまんないわな」
 C嬢「そうそう、もうちょっと分かりやすく説明してほしいよネ」

忠実な再現ではなくて「だいたい」の内容ですが、まあニュアンスは伝わるかと思います。んで、こういうのってちょっとかっこ悪いよなぁと思いながら聞いていました。

中学生・高校生なら「わからないから教えて欲しい」というのはまあ、アリという気がします。しかし、大学生にもなって――これは単純に年齢の問題というだけではなくて、日本では特に大学というのは自主的に学問をしたいという人が進学する高等教育の場であるということを踏まえて言っています――、「知らないことが出てきているから教えて欲しい」というだけならまだしも、「説明しない先生が悪い」と相手の責任にしてしまうというのは、どうなんだろうと。

こういう、「自分にわからない話が出てきたら、わかるように説明しない相手が悪い」式の論法というのは比較的よく見かけますが、下手をすると「自分は余程の大物です」と言っているか、「自分は力不足だけど直す気ありません」と言っているかのどちらかに聞こえてしまう、ということに気づいていない人が案外多いようにも思います。

たとえば、誰が見ても知識や経験が豊富な人が「君の言っていることは僕のように無知な人間にはよくわからないから説明してほしい」と言う時は、ある程度教養のある自分にも分からない言い方になっているから、普通の人が聞いたらもっと分からない。もう少し考えて喋れと言っているのだととれます。

一方、たとえば私みたいなぺーぺーの人間が「ごめん、意味わかんないんだけど、もう少しわかるように喋ってくれない?」とか言うと、「お前何様だよ」という話になります。相手の言うことがわからないのは、自分の知識が足りないからではなくて相手が悪いのが前提になっているんですね。相手の言っていることをきちんと考えたり調べたりする気はありませんと宣言しているようなもの。私が実績のある大家ででもない限り、偉そうな態度であるのは間違いないでしょう。

そして、「偉そうな態度」が中身の伴っていない見せかけだけなら、そういう姿勢は「私は知識が足りていないけれど積極的に自分で調べるつもりはありません」と言っているようなものですから、「力不足だけど直す気ない」態度ととられても仕方がないんじゃないかと思います。

今回目撃したような、「自分にわからない話が出てきたら、わかるように説明しない相手が悪い」式の論法が臆面もなくはびこる理由には、「伝わるように言いましょう」式の教育であるとか、書き方のハウツーが流行った影響というのが、少なからずあるだろうと私は考えています。

教育現場に携わっている人と話をすると、「最近の子どもは理解力が低いから、教えられる内容のレベルがだいぶ落ちた」みたいなことを言っている。それは実際にそうなのかもしれませんが、じゃあ昔の学生は「難しいこと」を言っても一発で理解していたかというとそんなわけでもないでしょう。

自分自身の経験と照らしてみても、全然わからないことを、わからないなりに考えて考えて、半年とか1年とか経ったころにふと、「ああ、あれはそういう意味だったのか……」と、他のこととの関連で自分なりに飲み込めたりすることが多かった。

結局、「いまの子は飲み込みが悪い」とかいってレベルを落とし、「分かりやすくて丁寧な」話ばかりするようになったということが、いっそう「わかりにくい内容」から生徒たちを遠ざけている。そういう側面は間違いなくあると思います。

文章の書き方なんかでも似たようなもので、「多くの人に伝わるように、分かりやすい内容を心がけましょう」というハウツーが浸透したわけです。昔は、何か勿体ぶった・小難しい書き方をして重みがあるように見せるなんていうのも流行っていましたが、その逆ですね。

まあ何でも難しそうに書けってのは馬鹿げた話ですけど、だからって分かりやすいのが良いってのも、何か妙な話です。たとえば文章って、「正確」なのが良い――そんな考えがあっても良いのではない? そういうツッコミを入れたくなる。

ちょっと前に読んだ、仲正昌樹『なぜ「話」は通じないのか』(晶文社)という本の中に、こんなことが書かれていました。

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少し前の左翼であれば、運動を広げると同時に自分たちの批判能力を磨くべく、より説得力があり、論理的整合性がある言葉で語ることを心がけていたような気がするが、最近は、「大衆に届く言葉がいい」ということで、どんどん話を単純化して、バカになっている――いつから左翼にとって大衆はバカになったのか。無論、右に関しても同じことである。(p.254)

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右翼・左翼といった自分たちの立場を単純化する「物語」を安易に受け容れ、そこに安住してしまうという議論の中で出てきた話ですが、今回の私の記事のテーマからすると、結構クリティカルなところがあるなぁと。

「バカ」というのは少々過激な言い方であるとしても、「相手のことを考えて簡単なことばにしたんですよ〜」というのは、ある種読者を低く見ていることになる。それは、紛れも無い事実だと思います。「大衆に届く言葉がいい」と言って、単純な話と分かりやすい言葉でお茶を濁すのなら、それは「大衆というのはきちんとした話ができないバカだ」と言っているのと同義でしょう。

逆に、難しことばやきちんとした理論を書くというのは、それだけ読み手を信頼しているということでもある。これなら分かってくれるはずだという期待のあらわれというわけです。

もちろん、ことはそう単純ではなくて、実際には「難しい話を噛み砕いて正確に表現する」ことは可能であるはずだし、専門の身内にしか通じないようなジャーゴンばりばりで書いたり語ったりすれば良いかというとそういう話ではありません。けれど、「わかりやすい話」が、「レベルを落とした話」と同義か、近似的に扱われているというのはやはり、問題であろうと思います。

で、その結果、「自分に分からない文章は書き手が悪い」みたいな変な風潮も生まれるようになったのではないか。

結論としては心構えの問題しか言えない(具体的にどうこうしろという話にはできない)のですが、教える・書く・語る側は、わかりやすい話とレベルを落とした話を混同しないようにしつつ、読み手・聞き手の能力を信頼して自分のMAXを込めるようにする。教わる・読む・聞く側は、内容がわからないことを相手のせいにせず、かつ自分がどのようにわからないかを明確化し、そうして出てきた疑問を自分で調べたり、時には相手に投げかける。

そういう、相互の積極的な努力の中で、より良い理解は生まれてくるものだし、ことばをめぐるスキルも成長するのではないかなと思ったりします。「わかりやすい」単純なものよりも、「ちょっとわかりにくい」くらいのものにつっかえつっかえしながら挑んでいくほうが、良い結果をもたらすことも少なくないのではないでしょうか。

……めんどくさいですけどね。

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2013/09/19(木) 23:40:53

なんか「あまちゃん」のコメント欄を巡る騒動で盛り上がってたので、本日は「ステマ」の話。

ステマということば、いっときは猫も杓子もステマステマと連呼して流行語大賞でもとりそうな勢いもありましたが、最近では随分落ち着いてきた感があります。ただ、やはりことあるごとに「これはステマだ」といわれるのを見かける。

でも、それじゃあステマの一体何が問題なのか、ということは案外きちんと問われていないようにも思います。たとえば、ステマに遭って学習参考書を買った結果、ものすごく学力が伸びて志望大学に合格できたとしたら……果たして、そのときステマは悪だと言えるのでしょうか?

そんなことを考えながら、ステマについての入り口というか基本的な話を、自分なりに整理してみました。

◆語義
半ばバズワードのように使われているステマということばですが、一応ある程度一般的な共通理解は存在します。分かりやすく詳しいものをネットから2つほど引用してみましょう。

 ▼Wikipedia「ステルスマーケティング
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ステルスマーケティング(英: stealth marketing)とは、消費者に宣伝と気づかれないように宣伝行為をすること。
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 ▼同人用語の基礎知識「ステマ/ ステルス・マーケティング
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「ステルス・マーケティング」(Stealth Marketing) とは、英語の 「Stealth」(隠れる、こっそりする、隠密)、すなわち自らの正体を隠し、宣伝広告ではないフリをしてこっそりと宣伝広告をすることです。
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上記の記事は共に、説明も詳細なので気になる方はご覧ください。ポイントはおそらく2つです。

 (1) 実態は金銭を受け取って行われた広告業務=宣伝行為である。
 (2) 消費者には宣伝であることを隠している。


宣伝主体は商品に直接利害関係のない第三者を装う、のような細かい条件は(2)からの派生と考えていいでしょう。

この定義からすれば、たとえばあるバンドのファンが自発的にアマゾンレビューでベタ褒めコメントを投稿しまくるというのは、厳密な意味ではステマではありません。(1)の金銭授受が行われていませんから。ただ、実際にはかなり緩く使われているので、どんな意味でステマと言っているかは文脈次第かと思われます。この記事では、上の定義にそって厳密な意味でのステマを問題にすることとします。

なお上記サイトでは、「サクラ」や「ヤラセ」として同じような手法が昔からあったと紹介されています。「自作自演」なんかもそれに入るかもしれません。ただ思うに、「ヤラセ」とステマは少し違う。ヤラセには金銭の授受が必ずしも付きまとわないし、ネガキャンや叩きはヤラセに含まれても(厳密ないみでの)ステマにはあたらないからです。

このように、とりあえず語義を無理やりにでも確定させてある程度話をしやすくしておきます。

◆実際の事件
日本でステマが問題視されたのには、きっかけとなったいくつかの事件があります。ステマが問題視されてくる流れを抑える上で重要だと思われるものを、独断と偏見で幾つかピックアップ。

1.ニコニコ「歌ってみた」自演騒動。 (参考:ニコニコ大百科(仮) 「自演発覚祭り」
2007年頃、「歌ってみた」系動画の歌い手本人が、匿名コメントでの自画自賛を行っていることが、ニコニコのコメントIDで発覚した事件。大規模な祭りになり一時期は「歌ってみた」動画の絶滅も囁かれた。荒れ方としてはものすごい最大瞬間風速を記録し、ユーザーID暗号化をはじめ、ニコニコのシステムに少なくない影響を与えたとも言われている。ポイントは当時は「ステマ」という語は殆ど使われていなかったというところ。実際、これは「金をもらって行う宣伝行為」ではないので、厳密な意味のステマではない。だが現在ならおそらく、ステマ呼ばわりだろう。ステマということばの意味の拡大を見るうえで、興味深い事件である。

2.食べログ事件 (参考:東洋経済「食べログ事件で明るみ、巧妙な“ステマ”の実態」
2012年、利用者による飲食店のレビューサイト「食べログ」で、やらせ業者が順位操作を行っていたことが明らかになった事件。食べログが悪いというよりは業者が悪いはずなのだが、まるで食べログが悪いことを行っていたかのように言われていていい迷惑だろう。消費者庁も景品表示法の観点から調査を始めるなど、大きな騒動となった。

3.はちま起稿ステマ事件 (参考:ニコニコ大百科(仮) 「ステマ祭り」
2011年から2012年にかけて、ゲーム関連のまとめブログ「はちま起稿」の記事を巡って発生した事件。以前からSONY製品を高く評価し、特定企業(MS、任天堂など)をおとしめる傾向のあった同ブログが、意図的にそういった行為を行っていたことを認め、管理人が引退した(現在は復帰)。ステルスをしながら「マーケティング」と「ネガキャン」の両方をあわせて行ったので、はちま起稿をステマと非難した人は、ステマということばに両方の意味を読み込みやすくなったと言えるだろう。これもまた、ことばの幅が広がるきっかけになった可能性がある。

4.ペニオク詐欺事件  (参考:Wikipedia
2012年末、落札できない高額商品をエサに、オークション参加費用をだまし取る詐欺サイト「ワールドオークション」で、多くの芸能人が実際には落札していない商品を「落札した」とブログなどに書いて宣伝していた問題。詐欺サイト運営者は当然刑事罰を受けたが、関与していた芸能人の責任の有無が議論の的となった。ちなみに「ペニオク」(ペニーオークション)とは入札に手数料がかかる形式のオークションのことであり、ペニオクが詐欺なわけではない。これも食べログと同じで名前の下に「詐欺」とつけられたせいでイメージが悪くなった。これまたいい迷惑だ。

他にもシャフトステマ騒動とかサムソンが海外のアーティストを使ってGalaxyの宣伝をした事件、マスコミの韓国推しとかもありましたが、とりあえず国内の事件かつ関連がハッキリ判明したものに限定しました。

◆ステマへの怒り
明確な線引きは難しいのですが、ステマに対する否定的な反応を大きく4つくらいに分けてみました。

1.ステマによって被害をうけた。

実害がでたパターン。分かりやすいですね。
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私25万円投入して何一つ落札してません。そればかりか、先週金曜日突然インタネットから消えてアクセスできません。メールも発信できない、まったく連絡するところがありません!解決する方法は皆が警察に行って控訴しこの悪質ものを摘発し,騙された金を取り戻すことです。私はもう行ってます。みなで行動すれば、大きな力になります!必ず勝ちます!! 

(「口コミで詐欺ペニオクを激辛評価しよう」)
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2.ステマをしている相手が嫌い。

ステマそのものより、ステマしてる相手が嫌いというのが透けて見えるパターン。マスコミ、アフィブログ、業者など「不正」なイメージがつきまとう相手に発揮されることが多いように思います。
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シャフト=ステルスマーケティング常習
やらおん=企業ブログ ステマ会場

見ている人も同罪です。
(中略)
手垢がつき、都合の良いように編集されたものは情報でもなんでもなく
ただの企業の宣伝を見ているのと同じですよ。


(「シャフトが人気ブログやらおんをステマに使用 まとめ」)
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※一応コメントすると、「ただの企業の宣伝を見ているのと同じ」なら別に罪でもなんでもないハズ。ステマを汚いものとは言いつつ、一応宣伝と等価なものとみているのにこのように怒るのは、先に対象を攻撃するという意図があるからだろう、という感じです。


3.違法である。

「人を欺き、又は誤解させるような事実を挙げて広告をした」場合、軽犯罪法に問われます。また、景品表示法のガイドライン「インターネット消費者取引に係る広告表示に関する景品表示法上の問題点及び留意事項」にも抵触すると言われます。
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Q.ステマを行った場合,法律上のリスクとしては,どのようなものが考えられますか?

A.景表法上の不当表示に該当する可能性があります。

景表法というのは,ごく簡単に言うと,消費者が正しい判断と選択が出来るように,景品や広告の内容,方法を規制した法律です。

不当景品類及び不当表示防止法1条
この法律は、商品及び役務の取引に関連する不当な景品類及び表示による顧客の誘引を防止するため、一般消費者による自主的かつ合理的な選択を阻害するおそれのある行為の制限及び禁止について定めることにより、一般消費者の利益を保護することを目的とする。
この法律は,「景品」と「表示」について一定の制限を設けています。

ステマの場合は,「表示」が問題になります。景表法に違反する表示は不当表示と呼ばれています。


IT法務.jp
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4.反道徳的・アンフェアな手段である。

明確に犯罪というわけではないけれど、道徳に反するというか仁義に悖るというか、とにかく「卑怯」というイメージで語るパターン。これが一番多いのではないでしょうか。
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1:風吹けば名無し:2012/08/11(土) 11:06:58.67 ID:1pwo6YCn

漫画でステマするのは卑怯だろ


(「コロコロコミックってステマ以外の何物でも無かったよな」)
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◆結局ステマは何が悪いの?
で、怒りの種類を参考にしながら「ステマの悪さ」について考えていきましょう。

まず「1.ステマによって被害をうけた」というパターン。これ、オープンな広告だったとしても、詐欺被害を出したら当然罪に問われますよね。つまり、ステマが悪いわけじゃなくて嘘の内容が悪いっていう話です。ステマのほうが警戒しにくい、ということはあるかもしれませんけど。

上で紹介した「IT法務.jp」さんにも書かれている通り、ステマというのは「単に広告であることを黙っているだけ」の行為です。つまりは宣伝の形式の問題です(金を受け取っているか、CMであると宣言しているか)。たとえば癌の特効薬を「ステマ」によって宣伝し、効果を挙げる可能性もあるわけです。被害がでたかどうかというのはステマの問題ではありません。

次に「2.ステマをしている相手が嫌い」のパターン。これはステマ関係ないです。ステマしてなくても叩くでしょう。

「3.違法である」について。これはまあ、言えたら強力です。ただ実際のところ「ステマだから犯罪」と認定される可能性は低いとも言われています。

既に述べた通り、ステマというのはコマーシャルの「形式」の問題。しかし法的に問題となるのは、宣伝の「内容」がほとんどです。優良誤認(ダメなものを良いように見せかけること)などがその典型ですね。

そして、たとえば優良誤認の不当表示でステマが罪に問われたとしても、これはステマ自体が違法になっているわけではない。TVCMのようなオープンマーケティングであっても、必要以上に商品を良い物に見せて消費者に誤解を与えたらアウトです。

「ステルスしているから悪い」という法的根拠はかなり薄いのですね。

最後、「4.反道徳的・アンフェアな手段」という話について。これは非常に多用な解釈ができるとは思うのですが、何がアンフェアかというと、「宣伝であることを隠している」という部分だ、ということは間違いありません。「3」が法的な責任追及だとすれば、こちらは道徳的な責任追及です。

では道徳的問題とは何か。おそらくそれは、「消費者の自己判断を妨げる」ということです。

宣伝であることが明らかな宣伝なら、消費者はそのことを折り込んで判断することができます。宣伝であることを差し引いて考えることができるんですね。ところがステマの場合、消費者は自分が見ているものが宣伝であると知らずに判断を強いられるわけです。意図的に消費者の判断を鈍らせるような工夫をしているのですから、消費者の自己判断への侵害であると言える。

ステマで被害にあったひとがステマという方法を毛嫌いする理由もおそらくここにあって、ちゃんと情報が開示されていれば騙されなかった、という思いが出てくるからでしょう。実際、作った人が「美味しいですよ」と言っている料理より、実際お客として行った人が「美味しかった」と言っているほうが、本当っぽさがあります。

ステマというのはそういう心理を利用することで、判断を誘導――少なくとも抑制しているわけです。

少しまとめてみます。

問題は、ステマはそもそも悪い行為なのか、悪いとすれば何が悪いのか、ということでした。

ステマというのはコマーシャルの形式の問題なので、ステマが悪いとすれば内容ではなく形式が悪いと言わねばなりません。「ステマをしている主体がそもそも気に入らない」というのは論外としても、ステマの方法自体は違法性を問いづらいものですし、また実際に被害が出たとしてもそれはステマが悪いのではなくてステマという手法を使って行われた詐欺が悪いはずです。

いわば「ステマ」というのはナイフとか包丁みたいなものであって、それを使って犯罪が行われるかもしれないけれど、だからといってナイフや包丁が「悪」かというと一概にそうとは言えない。そういう側面を持っている。

もうひとつ強調しておきたいのは、ステマが行われていることとその作品の実質は何の関係も無いということ。食べログでステマされていた店が実際にメチャクチャ美味しいことだってありえますよね。「ステマしていたから内容がダメ」というのは形式と内容を混同した、誤った判断であると言えます。

じゃあ、ステマは何の問題もないCM方法なのかというと、そういうわけでもない。

普通のコマーシャルとの比較をすれば、ステマは人が判断するのに必要な情報を必要以上にに制限し、十分な吟味を妨げるという特性があることも明らかです。「悪」だと言うならばこの点でしょう。そしてこれは、「卑怯」という感情を多くの人が抱く原因でもあると思われます。

最初に私は、「ステマの結果大学合格できてもステマは悪か?」と問いました。ステマであることと商品の内容とは原則無関係なので、ステマされたものがクソでも素晴らしいものでも関係ないのでした。だから、悪ではない(善でもない)。けれど、理念的に考えるのであれば悪である(十分な自己判断を妨げられた)。そんな風に結論づけてみることにいたします。


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2013/09/12(木) 23:46:56

先日話題になっていた、この話。

  ▼「恐怖の無断転載成りすまし入れ子構造」(Togetter)

「私のイラストを自作発言されました!!><」と他人の「なりすまし」にキレる素振りを見せていた人が、更になりすましだったという今回の事件。少々思うところがあったので、これについてコメントしてみます。

Togetterのほうにも書かれていますが、見るの面倒だという方がおられるかもしれませんので、登場人物と事件の経緯を簡単にまとめます。

(1) @shilomi_to463 氏 あるイラストを、自分が描いたものとしてツイート。
(2) @_Hana1224_  氏 (1)氏に対し、その絵は自分が描いたものだとツイート。
(3) @ume_yama5 氏 別のイラストを、自分が描いたものとしてツイート。
(4) @hanahana_1224_ 氏 (3)氏の絵は自分が描いたものだと指摘。(2)と同じ人。
(5) @hanakaTWT 氏 (2)、(4)が「なりすまし」であるとツイート。

笑うのを通り越して意味不明すぎて気味悪いくらいです。正直、「あまりにも綺麗にオチすぎ」ていてヤラセを疑いたくなるレベル。はなか氏がというのではなくて、「なりすまし」3名が共謀してネタを作った可能性はわずかに残るかな、と。

いやまあ、それなら「釣りでしたー」って言いそうだし、そもそも何の得があるかわかんないから、無いとは思いますけど。

というわけで、現実にあった事件と考えて話を進めますと、まず気になるのは「なぜこんななりすましをしたのか」っていう部分。ただ、そこはつついても出てくるものが少なそうな感じがする。

なにせ、データ不足が甚だしいわけでして。なりすました人の1人は鍵かけちゃったし、他の人もツイートが消されてるのか何なのかほとんど無く(@_Hana1224_ は111ツイート、@ume_yama5 氏は30ツイート)、しかも大半がリプライとか挨拶。行為に及んだ動機が「すごいですね」って言われたかったのか、お絵かきサークルにでも入りたかったのか、そういうのすら不明。

一応「それっぽいこと」を言おうと思えば言えそうですけどね。たとえば、彼らは想定しているコミュニティが狭い。おそらく、本来自分の「身内」の中でだけ賞賛を浴びられれば良かった。そこでは「なりすまし」が露見するとは想定していなかったのだろうとか。あるいは、想像力の欠如。「完成品」を見せたら、「メイキングを見せて」と言われることも想定して当然なのに、そこまで頭が回ってなかったのだろう、などなど。

ことほど左様に、動機とは違う部分での「なぜ」ならば答えらしきものを並べることはできる。でも、そんなのは想像にすぎません。もしかすると私たちが思いもしないようなロジックが働いているのかもしれず、それについて考える手がかりは余りに少ない。私たちはついつい、理解できない行動に「納得できる理由」をつけたがるけれど、それが時として無自覚な暴力となりうることは意識しておかねばならないと思う次第です。

と、少し話が脱線しました。じゃあ今回私が何言いたいかというと、この件に絡んでる「外野」の発言で気になったところがあったので、それについて。まあ、私も外野だろというツッコミはおいときまして。

気になったというのは、@ume_yama5 氏とフォロー関係にある、おそらくはリアルで面識があると思われる方に、今回の件を見ていた「外野」の人たちがリプを飛ばしていること。んでその内容なんですが……。

-----

「近所友達とかいう @shi081tori もスパブロしとこ」

「あなたのお知り合いだという梅原 大和さんという方が無断転載で叩かれていますが注意等何もしないのでしょうか」

「急にリプ飛ばしてすみませんが梅原さんか梅山さん名前はおわかりでしょうがその方に無断転載の事注意していただけないでしょーか」

-----

てな具合。ちなみにリプを飛ばされた人は、(少なくともツイートを見る限りは)当事者ではなさそう。

よくあるパターンといえばそれまでなのですが、「なりすまし」もさることながら、私としてはこちらにも首を傾げたい。「なりすまし」は意味不明な不気味さでしたが、こっちには恐怖を感じる。

こういうリプを飛ばした人たちは善意でやっているのだと思います。そしてもちろん、同じことが繰り返されないように釘を刺すのだとか、一定の効果・役割はあるのでしょう。しかし、手段として本当に妥当なのか疑問が残ります。

絵描きの立場や一般論として、直接にせよ間接にせよ「なりすまし」氏を糾弾するのは別に構わないと思います。第三者の、妥当なクビの突っ込み方として。けれど、周りを巻き込むとなると、その人個人への責任追及では済まないことになる。そうなるともう、糾弾ではなく制裁です。

たとえば今回の件で、彼らの友人関係にヒビを入ったとしたらどうするのか。そんなのは当然の報いなのでしょうか? しかし、よしんば@shi081tori氏が報いを受けるのが当然だったとしても、裁きを与える権利が、どうして「外野」の(私を含む)人にはあると言えるのでしょうか。その権利はもしあったとしても、当事者であるはなか氏のものであるはずです。

率直に言って私には、こういう行為は私刑(リンチ)にしか見えません。本人に直接言えばいいところを、わざわざ@shi081tori氏のリアルの関係者に「罪」を知らせ、追い詰めようとしているのだ、と。実際「親切」にそういうことを教えてあげているわけですから、そう言われても仕方がないでしょう。少なくともこのとき、当事者であるはなか氏のことはほぼ(完全に、ではない)置き去りにされています。

また、「注意等何もしないのでしょうか」などと責めるのは(実態は知らないんでもしかすると共犯関係とかあったのかもしれないけど、少なくとも現状見た限りでは)お門違いも甚だしい。エスカレートすれば、第三者をも吊し上げるようなことになっていたかもしれません。

あと、今回の場合は当てはまりそうにないけど、悪いことをした人が謝りづらい状況が作られるっていうのもありますよね。たとえ直接の被害者が許しても、周りからずっと叩かれるんだから、素直に謝るより意地を張って「俺悪くない」みたいなことを言いたくなるのかもしれない。そうすると、被害者が不快な思いをするわけで、「外野」も間接的に被害者(たとえばなりすまし被害にあった人)を傷つけることになるかもしれない。そういう危険もあるわけです。でも、あつくなっていると見えなくなる。

「外野」にいる人間が罪人に石を投げる。それだけならまあ良いとして、ついでにその罪人に水を呑ませたり、汗を拭った人にも罵声をあびせかけちゃったりもする。そのときに振りかざされるのが正義という名の御旗だというのは、イエスがゴルゴタの丘を登らされた昔から、変わらないことなのでしょう。そして私は、やはりそういう心理を恐ろしく感じるのです。

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2013/08/07(水) 12:05:53

カテゴリをエロゲーにするか一般にするか迷ったんですが、エロゲーじゃなくても通じる話だろうということで一般系に分類。毎度カテゴリにはそんなに気を使ってるわけじゃないんで、悩む意味あるのかというセルフツッコミはおいといて。

自分の意見を、ちゃんと理由もつけて説明するのって難しいよね、という話です。

ことの発端は、あるエロゲーに対する評価として、「エロゲーなんかやらない一般人もやってるから凄い」という褒め方をするのが妥当かどうか、というような話。こういう「褒め方」は、言いたいことは分かるんですけど、確かに微妙な気もしてくる。

たとえば、「この学校は偏差値の高い人だけでなく低い人も入れるから凄い」とか、「この大会は記録の高い人だけでなく低い人も参加できるから凄い」のようには、ふつう言いません。「AだけでなくBも」という場合、重点は「B」の側に置かれるものです。つまり、「一般人もやるから凄い」というのは、一般人のほうが上だと思っているからできる言い方であって、自動的にエロゲーマーを見下していることになるのではないか――。これが、「エロゲーなんかやらない一般人もやってるのが凄い」に反発する人の主張であろうと思われます。

ただ、褒めたい人の気持ちもわかる。これまた譬えを持ち出すと、「プロだけでなくアマチュアにもひらかれている大会だから良い」とか、「専門家だけでなく素人が読んでもよくわかる」というのは、褒め言葉として成立しています。この場合、「AだけでなくB」の「B」を出すことで示されるのは間口の広さ。それが価値として扱われている。

このように解釈がわかれるのは、「エロゲーにとって一般人もやっているというのはどんな風にいいことなの?」ということが分からないからでしょう。少なくとも明示されてはいないし、一般通念として成立しているわけでもない。「凄い」とか「良い」というなら、どんな人にとって、どういう意味で価値があるのかを示さないと、内容のないスカスカの発言になってしまう。こうした具体性の欠如は、論述としては失敗です。

しかし、分かっていてもこの手の「失敗」を避けるのは難しい。私も、とにかく気をつけよう気をつけようと思っているのになかなか実態が伴いません。また、他の人の発言や文章を読んでいても、同じように感じることが多い。原因はおそらく、私たちは、ある価値判断(この場合、「良い」か「悪い」か)に対して、根拠(「一般人もやっている」から)を示せばそれで説明した/説明された気になってしまうからです。


ちょっと具体例として、『天色*アイルノーツ』に対する批判の話をとりあげてみます。単に自分が感想書き終わったので他の方のを読んでいたというだけの理由で恐縮ですが……。

網羅的にレビューを見ているわけではないので、果たして世間的な流行なのかどうなのかはわかりかねるものの、「エロゲー批評空間」さんの投稿記事を見ていると、「世界設定に意味が無い」というツッコミが凄く多い。「空を飛ぶ島にした意味がない」とか、「異世界設定の意味がない」とかです。

これは、「面白くなかった」という価値判断に対して、「世界設定に意味が無いから」という理由が述べられているわけですが、こう問うてみることはできるでしょう。それの、何がダメなんですか? と。いや、喧嘩売ってるわけじゃなくて、純粋な疑問として。

そもそもここで言われている「意味」というのは、どういうことなのか。

作中の機能を言えば、舞台がファンタジーな「空島」であるというのはある程度の役割を担っています。主人公が「全くの新天地」に行くこと、や、「大した技能のない一般人でも特別な存在になれる」ことなどが端的な例ですかね。まあその辺の機能は、確かに他の設定でも代用可能だろうとは思います。しかし、だからといってファンタジー設定にしてはいけない、という理由も無いはずです。異様に複雑でわかりにくい設定でもありませんし。

あと、エルフや獣耳を出す、あるいは「魔石」による意思疎通の話なんかはファンタジーでなければできないことです(現代日本の枠で無理くりやろうとすると、前者はコスプレ、後者は嘘発見器かテレパシーになるんでしょうか)。つまり、必要はある設定なわけです。(その意味で「意味」はある)

じゃあ、「意味が無い」とはどういうことなのか。「意味」ではなく「必然性がない」のように言っている人もいまして、そういうことかも知れません。どうしてもそうでなければならない、強い理由ですね。設定と物語の間に、強固な結びつきが無い、という。

ただそれならそれで、『アイルノーツ』は「世界設定に必然性が無い」から面白くない(評価が低くなる)のはなぜか、きちんと説明してほしい。世界設定に必然性が無いというのは、どのような「悪さ」なのかが気になります。

だって実際問題、「世界設定に必然性が無い」ことは、それほど大きな問題なのでしょうか? たとえば神奈川県在住の主人公がいたとして、「神奈川である必然性」が無いから面白く無い、というツッコミを入れる人は、おそらくそう多くないと思われます。

また、SFのように、 世界の全貌や特殊な能力のメカニズムが整合的に明らかにされるとスッキリする作品、というのはありますが、そうでなければ駄作、というのはまた別の話です。特にファンタジーは、「はじめからそういうモノ」というお約束で始められることが多いので、設定にツッコミ入れるのは無粋、という人もいますよね。

「世界設定に意味が無い」ことが良くないとして、それは誰にとってどんな風に良くないのか――作品にとって良くないのか、《私》にとって良くないのか。《私》にとって良くないのなら、それはどう良くないのか。また、《私》以外の人にも通用するような良くなさなのか、それとも《私》に固有のひっかかりなのか――説明が必要なのはこのあたりでしょう。

私の個人的な見解を言えば、「意味がない」も「必然性がない」も、言いたいことがズレている気がします。たぶん、そういう客観的な物語構造(を想起させる類)の話ではない。「世界設定に意味が無い」という理由付けをしている人のレビューを読むと、その大半は、「世界設定に不自然さを感じる」と言い換えたほうが、ぴったりくるように見える。設定があまりにもご都合主義的で制作側の意図が透けて見えて萎えるとか、そういうことではないか、と。それなら、《私》が物語に没頭できないという意味でマイナス評価になる、というのは理解できるように思われます。

私の「憶測」が妥当なら、「意味」やら「必然性」というのは、理由付けとして失敗している。あるいは私の読みが全くの見当はずれであったとしても、「世界設定に意味(必然性)が無い」から「面白くない」というのは、実はよくわからない(きわめて説明不足な)記述であることは言えるハズ。

いずれにしてもこの件の抱える面倒くささというか不明瞭さは、「一般人もやるエロゲーは凄い」発言同様、何がどう凄いのか、という結論の具体性が欠如していることに由来するものだと言えましょう。


理由付けと内容がずれていてわかりづらいだけならまだ良いのですが、褒めたい/けなしたい内容の具体性を検討せずちぐはぐな理由をつけたがために、全体がコケてしまう、というのもあります。

一番わかりやすいのは、「こういう試みは初めて見たので凄い」みたいなパターン。「いや、これより前に同じことをしてるのあるから……」と言われたら終わりです。歴史モノの漫画なんかにありがちなのは、「史実をきちんと踏まえている」から良い、という評価で、これも「いや、史実と違うこと言ってるよ……」と言われてしまうとアウト。

いやぁ、私がよくやっちゃうんですよ。『キングダム』とか『センゴク』を褒める時に、「史実をよく踏まえてるし……」みたいな言い方。でもよくよく考えると、史実踏まえて無くても面白い歴史モノの作品っていっぱいあるし、『キングダム』や『センゴク』が、史実の裏付けと違うことをやっていたとしても、面白さが損なわれるとは思えない。私が「史実を踏まえている」ということで褒めたかった部分って、たぶん理由付けと合致してないんですよね。

ところが、本当の面白さはそこじゃないと思っていても、手っ取り早く権威付けできたり褒める要素になるからと思ってそれらしい理由をつける。そしてそれがために、言いたかった結論のほうが変質してしまう。突っ込みどころ満載の、「言いたかったことと全然違う評価」の一丁上がりです。気をつけないといけません。


以下、私の経験談になりますが、私は自分の中の「形になっていない想い」を表現しようとしてことばをを使うのだけれど、そのときに、どうしても「テキトー」なことばにしてしまいがちです。「面白かった」とか「興奮した」とか。なんとでもとれる、中身の無いことばに。

不思議なことに、ことばにしてしまうとそれで自分の感情は言いとれたような気持ちになる。ことばに感情が引っ張られるとでも言いましょうか。

でも、どこかでそのことばに不信感も持っている。そこで、その「テキトー」なことばに対して理由付けをする。そうやって曖昧さをごまかそうとするんですが、その時肝心のことばの側がきちんと定まったものではないので、理由のほうもきちんとした対応関係を考えずに喋ってしまう。まあ、とりあえず何かそれらしい理由ついてりゃいいだろみたいなノリで。

そして、理由がそれらしければそれらしいほど、「ちゃんと理由がついたんだから、自分はことばで適切に感情を表現したに違いない」とか考えちゃうんだと思います。自分で納得しちゃうんですね。

自分の意見の表現の失敗を防ぐためにも、考えをなるべく精確に、慎重にことばにするよう心がけたいとは思っているのですが、そんなこんなでなかなか難しい。練習と反省あるのみなのはわかりますよ。ただ、自分ではなかなか気付けないことですからねぇ。まあだからこそ読者の眼というのは貴重であり、その眼を確保できる場があることは、とてもありがたいことだと感じる次第です。

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2013/07/17(水) 07:04:52

文学でも映画でもエロゲーでもいいんですが、ある作品を鑑賞する立場として、「作品内在」ということが時々言われます。まあ「内在」ということばそのものは、やや水ぶくれ気味になっていて明確な定義が難しいことばなのですが、要は、物語の登場人物たちの立場を踏まえた上で鑑賞しよう、というくらいの意味で良いかと思います。歴史的には、作家論の流行や、それに対する「内在批評」の展開といった背景があり、どちらかと言えば既存の鑑賞形式を「外在」として纏めあげて、それらに対抗するために言われ始めた語という感があり、それだけに、敵に応じて「内在」の意味も揺れ動く、そういうタイプの語ですかね。

で、私自身は比較的この「内在」という態度が好き……というか極端な「外在」的態度があまり好きではないせいで、頻繁に「内在」ということを言います。

私の言う「外在」とは、たとえば、女の子を賭けて決闘する物語を読んで「女性をモノのように扱うとはけしからん」と言い出したり、愛していた恋人が死んだことを嘆いて自ら命を断つ登場人物に対して「自殺は不道徳だからけしからん」と言ってみたり……。まあそういう、作品に描かれている内容そっちのけで、自分の立場からしかものごとを見ないような、そういう態度です。

で、「外在」はあんまり面白くないから「内在」を心がけたいよね、みたいな話をしていたら、ある友人が「その割にOYOYOくんは分析とか何とか言って、素直に読まないよね」みたいなことを言われまして。もう一人その場にいた友人にもうなずかれてしまいました。

それを聞いて、「ああ、やっぱりなぁ」と思いました。どうも「内在」というのは、自然で素朴な読み、のように思われているフシがある。たとえば、自分がそのキャラになりきって、心情を代弁するような。でも、そうではありません。

確かに、私は頭でっかちなことを言うし、物語に対してもそうすることがままあるのですが、そのことは基本、「内在」的であることとバッティングしません。

たとえばシェイクスピアの劇を観て、劇に「内在」するためには、16世紀ごろのヨーロッパの文化や常識を、ある程度知らねばならないでしょう。ハリウッド映画でも、中国の古典でも同じことです。ある世界の中に入っていくためには、その世界についての知識や何やらが、当然必要になる。

いや、そんなことはない。そういう物語には、人間の普遍的な感情が描かれていて、だからいま現在の自分が感じた自然で素直な感情のままに読めば良いのだ、という人がいるかもしれません。しかし、私はそういう態度こそが、「外在」的な態度の極致ではないかと思う。なぜなら、ある物語に「普遍的な」感情が描かれていると簡単に言ってしまうということは(その前提で読むということは)、その物語の世界はただの仕掛け(手段)にすぎなくて、他の物語でも代替可能だと――つまりその物語世界は「不要」だと――言っているのに等しいからです。物語の内にはいるなら、そんなことを言えようはずがない。

「外在」的な読みを支えるのはおそらく、知識ではなく共感です。私にとっての常識が、同時代の他の人たちにも、そして当然、場所も時代も異なる物語世界の内部にも、通じるはずだという意識。そういう共感への無批判な信頼に根ざしている。

あるいは全く逆で、そもそも意思疎通など不可能だという諦めに基づいている場合もあります。読み取るなんて不可能だから、それなら勝手に押し付けても良いだろうという開き直り。

このどちらかによって、外在的な読みは成立するのでしょう。行き着く先は、「私はそう思うから」という根拠で、「私はそう読みたいから」という読みを、作品に押し付ける態度です。まあ私はやっぱりあんまり好きじゃないし、面白いとも思いません。

これが、作品でなく人間だったらどうでしょう? たとえばあなたが、目に砂が入って泣いていたとします。それを見た誰かが、「あいつは涙を流している。私は悲しい時に涙を流すから、あいつも悲しいことがあったにちがいない」とか言い出したら、「何じゃそりゃ」と思うでしょう。求められるのは、人間が涙をながすシチュエーションに対する知識と、周囲の状況(風が吹いている、砂が舞っている等)への分析です。

心理にしても同じことで、態度のひとつひとつ、言葉遣いのひとつひとつから、丁寧に拾い上げていくしかない。「内在」というのはだから、誰でもが理解できるような客観性を示し、つきつめていくのと似ている。目の前の対象を、あくまで自分と違うものだと考えて、それにアプローチを仕掛けていくわけです。あの人はこういう態度をとって、こういう発言をして、日頃はこういうことを言っているそうだから……っていう感じで。

その結果、対象本人が気づかなかったような心理が出てくることもあるかもしれません。ほら、あるじゃないですか。他人から言われて自分のクセに気づくとか、自分の気持ちに気づくとか。それは、読み手の解釈を押し付けているのではなくて、対象の側から見えなかったものを引っぱり出しているわけです。

もちろん、「内在」というのは完璧に行うことは不可能です。なぜなら、対象はあくまで対象でしかなく、「自分」になることは無いのですから。しかしだからこそ、そこで安易に自分と対象を重ねたり、「どうせ分からない」と開き直ったりせず、踏みとどまって考えるということは、その相手を本当に大事にしている(認めている)のだとも言える。

自分と違うものがある、ということを認めた上で、そこに何とか近づこうとする試み。それこそが「内在」するということの本質的な意味(あるいは目指すべきところ)であり、そのために必要なのは、決して単純な共感のようなものではないと、私は思っています。

……ま、自分にできるかどうかはこの際おいておきまして、ですけれども。

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2013/07/16(火) 20:58:57

「 二人でいるときの沈黙は、やはり気になった。あまりに沈黙が長いと、なんだか申し訳なくなってしまう。食事が終わって短い会話を交わしたあと、沈黙に耐えられなくなると、わたしは黙って席をはずすか、テレビに集中しているふうに目を凝らすか、横たわって眠いふりなどをする。」

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青山七恵『ひとり日和』、序盤のワンシーンから引用しました。うまいなぁ、と思う。文章が巧いかとかそういうことはわからないけれど、心情描写として、とても丁寧に見える。

ここでの「わたし」の気持ちを説明せよ――そんな問題が「現代文」で出たとしたら、私はお腹を抱えて笑うかもしれません。無粋極まりない。だって、説明できないから、こんなにも丁寧に描いているわけでしょうに。

「申し訳ない」というのは、「わたし」の気持ちではありません。いや、もちろん多少思っていることは思っているのでしょうが、気持ちのすべてではない。また、あくまでこの時の相手(下宿先のおばあさん)に対する感情であって、「わたし」が「わたし」自身に向ける真情としてはふさわしくない。

しかし、「所在ない」だとか「居心地が悪い」のように、何か感情をあらわすことばで言いとってみたところで、引用した上の文章で描かれている感情に、届くとは到底思えません。

以前このブログで、心情描写が直接的すぎる物語の話をしましたが、直接的な感情語というのは、ことばの力が強すぎて、こういう繊細で微妙な心の動きを表現しようとしても難しい。

ここで描かれている「わたし」の感情は、強くてハッキリとしたことばによる規定をすりぬけてしまうようなものだし、そもそも感情というのは本来そういう性質のものでしょう。

ためしにもうひとつ、「わたし」が失恋するシーンを同じく『ひとり日和』から抜いてみます。

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「恋の終わりは予想以上にあっけなかった。わたしが待っていた自然の流れというのは、こういうことなのだろう。言ってはみたが、よく考えてみれば言葉に出すほど最悪でもなかった。悲しくもなければ、憎らしくもない。どちらかといえば、期末試験が終わった帰り道のような気分だ。」

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「悲しい」や「憎らしい」といったできあいを拒否して選ばれたことばには、解放感や倦怠感、諦め、後悔……そんなさまざまなニュアンスが込められている。「期末試験が終わった帰り道のような」ということばには、そんな諸々を想像させる力があります。

感情を、テンプレートで乱暴にきりとってごまかさず、微細なニュアンスを少しでもすくい取る。そういう表現のほうが、読んでいて面白いなぁと私は思います。もちろん、娯楽としてはシンプルなのが良い時もありますけどね。

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2013/07/13(土) 21:36:37

以前にも書きましたが私は狭量で、しかも結構好き嫌いが激しいタチです。たとえばですが、若かりし頃は嫌いな相手、いけすかないヤツがちやほやされてるのを見たりすると、それだけでイライラした。人間だけじゃなくて作品もそう。いまはだいぶ薄れたものの、かつては気に入らない作品が褒めそやされているのを見ると、わけもなくけなしたくなって、まず否定から入ったりしたものでした。お恥ずかしい話です。

嫌いな云々というのは、必ずしも意見が対立する人であるとか直接被害を受けた人というわけではなくて、なんとなくそりがあわない人であるとか、他の人に対して何か酷いことをしているのを見たとか、そういう場合も入ります。作品であれば、正直なところ結構楽しんだにもかかわらず、この作品がもてはやされるのは許せん! みたいなこともあった。

嫉妬ではないですよ。別に自分と比較して……とかじゃないので。もちろん自分と直接の利害関係が発生するとストレスは倍増しますが、そういうのとは無関係に成立つ話だと思って下さい。

ようするに、たいした理由もなく「直観的に」イヤだというのが抑えられないという話。我がことながら漂う小物臭がハンパない。でも、ありませんかそういうの。「あいつ(あれ)が評価されるなんて、世の中間違ってる……!」みたいに思っちゃうこと。

私であれば、「ああ、これはムリ」と思う人がバイト先にいたことがあります。とにかく差別というか好き嫌いが激しくて、気に入る/気に入らないでえこひいきをするし、自分の価値観を絶対だと思って押し付けて他人の言うこと聞かないし、セクショナリズムを発揮して身内囲いを始めるし……。更に上のスタッフに気に入られて重用されていたんですが、「この人が出世すんのか」と思うと、なんかもうやってられなかった。自分の直属の上司ではなかったけど、ぶっちゃけ呪われろ! くらいのことを考えたこともあります。

そして、現実問題こういう考えを持っていまうと、精神衛生上あんまりよくありません。力づくでその相手をねじ伏せることが出来たら(実際に権力を使って潰すとか)話は早いのですが、それがなかなかそうもいかない。

いかないからどうするかというと、「理論武装」をはじめます。かくかくしかじかの理由があるからあの人(作品)はけしからん。自分の批判は正当である……という感じですね。

こうして、嫌いなことに理屈をつけていくにつけ、自分がヤなヤツになってるなぁと思ったりもする。ですが、よくよく考えてみると、これは単に攻撃のためにあとづけの理論を捏造しているというだけのものではないのかもしれません。おそらく、自分が抱いた「いけすかない」という直観が何処から来たモノなのか、それを辿って見つめなおすプロセスでもあります。

嫌いだから理論ができるのか、先に見えない自分の中の理論があって嫌いになるのか。鶏が先か卵が先かみたいな話だけど、そういう機会(大嫌いなもの、許しがたいものに出会う機会)が無いと、自分の内に潜むものは見えてこないのかもしれません。

「その人を知りたければその人が何に対して怒りを感じるかを知れ」とは、以前にもとりあげた『ハンター×ハンター』ミトさんのセリフですが、これは自分についても言えることでしょう。自分が何に怒り、何を嫌悪するかというところから自分が見えてくる。そんなこともある。だから存分に嫌えというのではなくて、そういう「自分」に出くわした時に、それとじっと向き合うことが大事かもしれないなあと、最近はそんなことを思っています。

もうちょっと膨らませる話にしようかと考えていたのですが、ちょっと収拾がつかなくなりそうだったので、本日はこの辺で。好き嫌い、怒りから批評の話にもっていくのは、また今度にいたします。それでは、また明日。

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