よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/10/01(火) 14:47:59

とんでもないニュースが飛び込んできました。タイトルはほんとうなら「アクアプラスさんの」が正しいのだと思いますが、思い入れその他の事情でこの表記にしております。ご容赦下さい。

ユメノソラホールディングス株式会社との資本業務提携(全株式取得)の合意に関するお知らせ
(APニュースフラッシュ)

アクアプラスニュース

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2013年10月1日
株式会社アクアプラス

ユメノソラホールディングス株式会社(代表取締役CEO 吉田 博高)は、2013年9月20日にゲームソフト開発を営む株式会社アクアプラス(代表取締役社長 下川 直哉 ※引き続き代表取締役社長として留任 以下「アクアプラス社」)の全株式を取得することについて合意し、契約を締結いたしましたことをご報告申し上げます。


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要するに、「株式会社虎の穴」が新たに設立した持株会社(ホールディングカンパニー)が「ユメノソラホールディングス」で、アクアプラスはそこに買収された形なのかな……。実際どのくらいの強さかはわかりかねますが、ホールディングカンパニーによる「支配」を受けるわけです。

 ▼ユメノソラホールディングス株式会社HP

 ▼「株式会社アクアプラスとの資本業務提携(全株式取得)の合意に関するお知らせ



早速ゲーム系のニュースサイトさんなどでも取り上げられています。

 ▼「アクアプラスが「コミックとらのあな」などを抱えるユメノソラホールディングスの傘下に」(4Gamer.net)



各種まとめサイトさんの反応。

 ▼「【速報】 エロゲブランド「leaf(アクアプラス)」をとらのあなが買収」(ゴールデンタイムズ)

 ▼「Leafブランドでお馴染みのアクアプラスをとらのあなが買収!アクアプラスはどうなっちゃうの?」(はちま起稿)


ツイッターでも蜂の巣をつついたような騒ぎになっていました。やはり「買収」という事実、そしてその主体が流通企業であること、更には同人誌を扱っているグループに入るということなどが、多くの人の「心配」を呼び込む要因でしょうか。

つまり、こんな感じ。

比較的順調そうに見えていたのに経営がそこまでうまくいっていなかったのか……。(だから「買収」された)

アクアプラス/leafは独自性の強い作品が多かったけど、今後の活動に影響は出ないのだろうか。また、今後でるゲームの特典とかは、あきらかにショップによる差がつくんじゃないか……。(ゲーム会社が流通に首根っこ抑えられた形になるんじゃないのか)

リーフスタッフって同人誌に制限があった気がするけど、その辺今後どうするんだろう……。(とらのあなって同人誌(インディーズコミック)を扱ってるけど、そのグループに入るってことは形態変わるのか?)

などなど。上記に加え、いろいろと「問題」が指摘されるとらのあなさんが関わっているというのも不安の種なのかもしれません。



個人的な感想を言えば、とにかく寂しい。寂しいです。これに尽きる。


エロゲーというのは今でこそかなりメジャーな産業になってきた感がありますが、昔は、そんなに日の当たる場所にいたジャンルではなかった。それが良いことだとは思わないのですが、それだけに独立性が強いというか、売れるか売れないかよりやりたいかやりたくないか、面白いか面白く無いか、そういうところで勝負をしている雰囲気というのがありました。インディーズな空気というか。

leafは、そういう空気を体現したようなブランドだったと思います。

たとえば、「ビジュアルノベル」シリーズ。『かまいたちの夜』という先人があったとはいえ、当時は「ゲーム性」が当然のように求められていたエロゲーの世界に、読み物としてプレイするという文化を持ちこみ、定着させたのは間違いなくleafさんでした。この辺りは、「コミュニケーションメディア」から「コンテンツメディア」への変化、などと言われたりもしますが、その先駆的存在だった。

そして、『To Heart』の大ヒットにより、エロゲーをメディアミックスさせて行くという方向性も打ち出した。

その後出た『WHITE ALBUM』は、由綺という「彼女が既にいる」状態から開始されるゲーム。恋愛のプロセスを楽しんで告白成功したら終わり、という既存の青春恋愛ゲームの枠を打ち壊す作品でした。また、他のヒロインを攻略する場合は必ず由綺を振らねばならず、「個別のルートで全ヒロインを攻略すれば誰も傷つかない」というエロゲー的楽園主義に冷水をぶっかける「ロック」な作品でもあった。

その他、「コミケ」を題材にした『こみっくパーティー』や、エロゲー的恋愛に対して挑発的な視点を投げかける『天使のいない12月』など、あたりはずれはともかくとして、とにかく自由で、独立していて、挑戦をしている印象がありました。

それは私の勝手な思い込みかもしれません。「そうであってほしい」という願いを投影しているだけかもしれません。でも、leafの作品をプレイした人の多くは、似たような感想を抱くんじゃないかな……。

そういうブランドが、まあどういう事情、どういうメリットがあったかは分からないにせよ、「子会社」になる。どうやったって親の意向というのはある程度うかがわないわけにはいきませんし、業績がでないと意に沿わないような要求を受け容れざるをえないことも増えるかもしれません。

そうやって、私の好きだったleafらしさみたいなものが喪われるとしたらやはり残念だし、実際に喪われなかったとしても、独立していたleaf/AQUAPLUSが誰かの傘下に入ったということが、自分の敬愛していた殿様が秀吉に頭を下げたのを見ている家臣みたいな気持ちになって寂しいのです。

こんなのはきっと、中年エロゲーマーのしょうもな感傷なのでしょう。勢いのある流通さんと組んだことで、アクアプラスさんのもつコンテンツ力(たとえば甘露・みつみ両氏を代表として多くの魅力的な絵師さんがいるし、音楽も強いです)が存分に発揮され、これまで以上にファンが楽しめるチャンスが増えるのかもしれない。そうなれば喜ばしいことです。

でも、それを思ってもなお、エロゲーで一時代を築いたleafというブランドがどこかのグループ企業の1つになったという事実は私に、強烈な衝撃と同時に、心の中をすきま風が吹き抜けていくような、言い知れない、しかし切実な寂しさを運んでくるのです。

いずれにしても決まってしまったものは仕方ありません。これも業界の新しい動きであると受け容れたいと思う。あとは、今後ともleaf/AQUAPLUSブランドからすぐれた作品が出続けてくれることを祈るばかりです。


ああ、なんか勢いのままに書いてしまった。後で見たらすごい事実誤認があったり、冷静になると恥ずかしかったりするのかもしれませんけど、まあそのくらい驚いてしまったということで、たまには。

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2013/09/25(水) 20:42:56

最近、電車の中でPSPなどの携帯ゲーム機を使ってゲームをしているサラリーマンをよく見かけます。それも、私くらいの年齢から中年に差し掛かるくらいに見える人がかなり多い。いやまあ、ハッキリ年齢聞いたわけじゃないので判りませんけど、「あのくたびれ方は30歳は超えてるだろうな」と。

で、彼らは寸暇を惜しんでゲームをするゲーマーだという見方もできるんですが、電車で携帯ゲームをやっているのには、それとは別の事情もあるのではないか。そんなふうに思ったのです。別の事情というのはすなわち、家でゲームをできないということ。


▼僕の友達はゲームができない
先日、結婚した私の友人が(趣味を隠しているために)なかなかエロゲーをできないという話をしました。その彼と飲みに行った時のこと、彼は私と合う直前まで、待ち合わせ場所の新宿東口交番前でPSPだかVITAだかで遊んでいました。『世界樹』をやってるって言ってたかな。

「相変わらずのゲーマーっぷりに安心したわ」と言う私に、「いやそうじゃないんだ」と悲しそうに彼。どういうことかと訊ねると、こんな答えが返ってきました。「家じゃ嫁が文句言うからなかなかできなくて……下手すると義母さんに告げ口されるし。外でやるしかないんだよね」。Oh……。

何たるちやかんたるちや、待ち合わせの時間を利用してまでゲームをしていた彼は、廃プレイをしているどころか、最低限のプレイ時間を確保するため必死に努力していたというのです。

嗚呼、悲しい哉人生。結婚生活は到底枯燥したるものにあらず、嫁は無慈悲の者にあらずといえども、かかる話を耳にすれば、心千々に乱れ悲しみの涙滂沱たるを禁じえません。


▼中年の危機
しかし、これはひとり我が友人の問題では無いでしょう。ゲームを日常的にプレイしていた人が、結婚してプレイ時間激減というのはほうぼうで耳にする話です。

厚生労働省調査(こちら)によれば、平成23年度の平均初婚年齢は男性が約31歳、女性29歳。いま30歳から40歳を迎え、経済的にも安定し、結婚して家庭を持ってもおかしくない頃合いの世代は、1970年代後半から80年代前半に生まれ。なんか私にドンピシャですねぇ……(遠い目)。

そして、この世代の生い立ちはファミコンの隆盛と重なる。任天堂からファミリーコンピューターが発売されたのが1983年。大ヒットしたRPG『ドラゴンクエスト』が86年。まさしくゲームとともに成長してきた「ゲーム世代」が、いま結婚シーズンを迎えているわけです。

そんな私たち(「彼ら」という他人行儀な言い方はやめましょう)の中には、青春とゲームが切っても切れない縁で結ばれた人というのが少なからずいる。テンプレイメージで恐縮ですが、全共闘世代にとってのゲバ棒(冗談ですよ)、団塊の世代にとってのギターが(これはちょっとありそう)、私たちにとってのゲームです。しかも晩婚化が進んだ昨今のゲーム世代は、社会人になってからも10年弱、ゲームとともに歩むことが少なくない。おそらく、身体にゲームが染み付いています。

しかしながら、結婚をすればゲームに熱中というのはなかなか難しい。たとえ配偶者がゲームに理解があっても、です。理由は簡単で、プライベートな時間がとりにくいから。特に、1人でやるタイプのゲームを長時間続けるのは相当キツいでしょう。

2人で仲良くゲームをするというのはありそうですが、家にいるのにお互いが黙々と別々のゲームをやっているという話はあんまり聞きません。というか聞いたとしたら多分、夫婦仲を心配して微妙に悲しい気持ちになります……。


▼携帯ゲーム機という救世主
では、結婚生活の中でうまくゲームをするにはどうするか。相手のいない時間を利用するのが最も基本的な選択肢でしょう。専業主婦(または主夫)なら、何とか時間を捻出することは可能かもしれません。しかし勤め人の場合、配偶者がいない時間は会社で仕事をしているので、それも困難。

そこで、バスや電車、ちょっとした待合時間に使ええる携帯ゲーム機が活きてきます。

移動時間はビジネスマンにとって数少ないプライベートタイム。その時間を使って大好きなゲームプレイを可能にする携帯ゲーム機というのは、あたかも地上に舞い降りた天使の如し。子どもの頃の、熱い想い秘めた瞳をなくさずに済むこと請け合いです。

まだ据え置きゲーム機全盛の時代、NintendoDSやPSPが大ヒットを飛ばしてPS2やXBOXを凌ぐほどの普及をみせたとき、あるゲーム雑誌にこんなことが書いてありました。曰く、据え置きゲーム機は家庭のテレビを占領してしまうから子どもは自由に遊べないけれど、携帯ゲーム機はパーソナルなものだからゲームをプレイしやすい。それで人気があるのだ、と。なるほどなぁと思う。

確かにファミコンは、居間にあるテレビでやるせいで「こっそり」遊べなかった。私が家庭用ゲーム機よりPCゲームにハマった理由の1つに、PCが家族にではなく私に与えられたものだったからだ、というのは間違いなくあります。

携帯ゲーム機というのはそのように、パーソナル(あるいはプライベート)な領域をつくりだすのに向いています。夫婦間の機微とかはわからずに書いておりますけれども、わからないなりに想像して言えば、プライベートさを求める主体が「TVを使わせてもらえないコドモ」から、「おおっぴらに家庭でゲームをできないオトナ」へと変わったとしても、それほど不自然はないように思われるのです。


▼エロゲーだって続けたい
最初に述べた私の友人は、まさにこのような感じで携帯ゲーム機を懐に忍ばせていたであろうことは想像に難くありません。彼は家庭で、彼の望むような形でパーソナルな領域を確保することができなかったわけです。

ところで、彼はエロゲーマーでもあるという話をしました。これも時代的な話をすると、メディアミックスでエロゲーとコンシューマの垣根が一気に崩れかかった『To Heart』のヒットが1997年。「泣きゲー」ブームを巻き起こしたKeyの『kanon』が1999年、『AIR』が2000年。当時18歳だった少年たちが、いま丁度30をこえた頃。

つまり私たちの世代にとって、エロゲーもまた青春。特に96年〜2000年ごろというのはエロゲー売上の全盛期とも言われ、最近の1.5倍以上もの売上を示していた時期ですから、20代をエロゲーとともに駆け抜けた人は、やはりそれなりに存在してます。

そうなると、エロゲーを続けたい……と思う人もいる。しかし、エロゲーを結婚したあともやるとなると、誰がどう考えたってコンシューマゲームをやるより、ずっとグッとハードルはあがります。正直、家でやるのは難しい。

そこで、携帯ゲーム機の出番です。これでエロゲーができれば、実は非常にメリットがある。

まず、肌身離さず持ち歩けるから、家にいる間に配偶者に物色される心配がありません。次に、ソフトをDLコンテンツで購入できるようにすれば、パッケージやディスクを家に隠す必要もなくなります。初回特典などは諦めざるをえませんが、そこはグッと我慢。さらにDLコンテンツにしたついでで、たとえば1キャラごとにルートを販売するような形にすれば、忙しい勤め人でも無駄な出費をせずに済むかもしれない。多少ディスプレイが小さくなることを考えれば良いことずくめ!

既にAndroidのエロゲーなんかも出ているし、携帯ゲーム機じゃなくてスマホとかでも事足りるのかもしれません。そうするとこれからは携帯エロゲーの時代がくるんじゃないか!? と思ったんですが、よく考えたら致命的な欠点がありました。それは、人前でエロゲーはやれないこと。はい、解散。

まあどう考えたってこれは無理です。自分が恥ずかしい恥ずかしくない以前に、公序良俗に反する。抜きゲーなんか特にヤバいですよね。満員電車で痴漢ゲーとかやってたら完全アウト。

というわけで携帯できるエロゲーは残念ながら、「エロゲーに理解のない配偶者と結婚したけどエロゲーは続けたい!」と考える人たちの救世主にはならなそう……残念です。地道に時間を確保し、見つからないでやる方法を検討するしか無いってことですね。

必死に隠れる技術を磨く、孤高のエロゲーマーたちに祝福を。


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2013/09/22(日) 19:11:07

昨日「WEB拍手」のほうで「リアルでも仲の良い方などに趣味(※エロゲー)のことなど公言されていますか?」という質問を受けました。投稿ありがとうございます。

で、返答としては「エロゲーが友達です!」というのを考えていたんですが、そうすると私は友達でオナニーするというアカン子になってしまうので、ちょっとソレでアレ。ここはちょっと長くなりますが、私のオタク友達的な話をきちんと披露というか暴露することにいたします。

◆相手による使い分け
結論から申し上げますと、「相手によって言ったり言わなかったりする」なのですが、それだと何の説明にもなりませんので、もう少し詳しくお話しさせていただきます。

私のリアルの知人・友人関係というのは、大きく4つに分かれます。

1.ヲタに目覚める前の友人(小中学校の同級生とか)
2.ヲタに目覚めた後の友人(だいたい高校以降)
3.ヲタ活動の中で仲良くなった人(ツイッターとか同人誌とか)
4.仕事やらで必要なつきあいのある人

「3」はまぁ、いまさら何を言う必要もありませんので除外。

「1」、「2」については、基本公言しています。で、「4」の相手には基本言わないようにしています。


◆エロゲーやってるのは恥ずかしい話ではない(ハズ)
ポリシーとして、「エロゲーをやっていることは別に恥ずかしくない」と思ってます。いやまあ、自分の性癖が暴露されまくるのは恥ずかしいかもしれませんが、ポルノメディアを持っているということ、その対象が二次元であるということを恥じる必要は無い。ポルノが趣味です、っていうところまでいくとちょっと恥ずかしいかも知れませんが、この辺は昔の「宮崎事件」とかでオタクが迫害されてきた時代に漠然と形成された反発精神みたいなものが関係しているのかもしれません。

逆に言えば、昔の価値観を引きずって「エロゲオタキモい」と毛嫌いしている人というのもいます。そういう相手と友人関係を築くのは正直厳しい。オタクどうこうの話に限らず、価値観って普段の生活の中に出てくるし、そういうのが見えちゃうとこっちも嫌だけど、向こうも多分嫌なわけじゃないですか。

そんなわけで、友人関係ではほとんどの場合、自分がエロゲーやってるということはあまり隠さないようにしています。別に突っ込んだヲタトークをするためとかじゃないので、「俺、実はエロゲーマーなんだ……」とかって信仰告白みたいなことはしませんよ。「ごめん、エロゲーしてたら寝過ごした」とか、「金曜はエロゲーの発売日だから飲み会無理」みたいな感じで。

それで毛嫌いする相手ならもともと付き合っていても限界があったし、普通に受け入れてくれる相手ならそのままの距離感で付き合えば良いし、ノッってくれる相手ならもっと突っ込んだ関係を築けば良い。そんな風に考えてます。

ちなみに、大学の時はクラスの友人にエロゲー話して、それで爪弾きにされたということは無かったです。ただ、やっぱりそういう話に興味あるタイプとそうでないタイプは見極めがついたので、その辺はこう上手いことやりました。結局、エロゲーにどっぷりハマって仲良くなれた人は一人もいなかったなぁ。今でも同窓会とか飲み会とかありますけど、みんな私がエロゲーやってるのは知ってても、こんなんだとは思ってないハズ(笑)。いや、案外バレてんのかもしれませんけど向こうも言ってこないならバレてないのと一緒や……!


◆不快に思う人はいる(よね?)
とはいえ、エロゲーというのは「不快だ」と思う人がいるのも事実。野球のファン球団くらいなら笑って流せても、「エロゲーなんてやってる人は人間的に不潔だ」とか言い出す人、割りとリアルにいたりします。

で、友人関係なら先程も言いましたように「お付き合いしない」という選択肢が出るんですけど……仕事はそうはいきません。もしくは、仕事に近いような「生活に必要な」関係。

これの場合、エロゲーマーであるということを公言するのはリスキーだと思います。また、仕事上それを公言する必要ってまずほとんどありませんし、相手によっては極めて不快な感情を抱く可能性がある以上、無理にそういう話をするのは配慮に欠けることでもある。

なので、私は仕事関係では相手から話題を振られない限り(あるいは振られても)そういう趣味については極力黙っているようにしています。一度職場でエロゲーの話をしている人がいましたが、私はそれは配慮に欠ける行為だと思ったのでその人と仲良くなろうとはしませんでした。自分の趣味が周りに受け容れられるかもわかんなかったですしね。

この辺は好みの問題で、「エロゲーマーであることにプライドを持っていれば職場で孤立しても公言できるはずだ」という立場の人はそれを貫けば良いし、私みたいにいい子ぶりっ子したいならステルスしてれば良いのかなと。

ただ、仕事というのはこっちが相手を選べないのと同様、相手もこちらが嫌でも縁を切ることが難しかったりします。そういうところで人間関係モメると、自分以上に相手にもストレス与える可能性があるので、好き好んで爆弾持ち込む必要はないかなと。

逆に職場の皆さんがバリバリ全開のヲタだったり、先にものすごいエロゲーマーが存在を確立していたりすれば、それに乗って自分も公言していいとは思います。私の友人が務めている某大手家電メーカーのサポートセンターは、エロゲーマーとアニオタと腐女子の巣窟らしくて、話を聞く度に羨ましいと思います(´・ω・`)。


◆最後は自分のスタンス
私は見るからにヲタっぽいからヲタバレしてもあんまりダメージないし、他に大した趣味もないせいでエロゲーの話が自分の中では「一番盛り上がる」話なんですよね。なので、深い友人関係になるにはその辺の話が欠かせない。判断基準としてエロゲーが中心になるから上のような話が成り立つというのはあります。

質問をくださった方がその辺どうなのかにもよりますが、「パッケージが見つかると思ってエロゲーを買えない」ということは、別にエロゲーが無くても自宅に招くくらい親しい友人がおられるのでしょうし、それならそれで、エロゲーは「密かな趣味」を貫いても良いのではないでしょうか。

これまた私の友人で昨年結婚したのがいますが、エウシュリーとアリスが大好きな彼は嫁さんにその趣味のこと言っていないらしく(当然会社の同僚にも黙っていたようで)、エロゲーの時間を捻出するのが相当しんどいとぼやいていました。彼はバレるまで隠し続けるのでしょう。たぶん。

「どうすればいいか」という相談ではなく、「私が公言しているか」というご質問だったのですが、ちょっと踏み込んだところまで話をしてみました。一応お答えとしては、「基本オープンの方向。ただ、利害が絡んだり、関係をリセットできないような相手の場合は言わないという風に使い分けている」ということで。

「エロゲーやってる」と「エロゲーが趣味です」の間にもハードルはありますが、私がやってることはかなりの人が知ってます。ドハマりしてることまでは……一応隠している人のほうが多いです(気づかれていたら知らん)。仕事関係者には全く言ってないです。

こんなものでよろしかったでしょうか。何かしら参考になれば良いのですが……。

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2013/07/03(水) 23:19:20

先日投稿した、『エッチから恋を引いても、友達にさえなれない。』の感想を見た友人から、「面白いと言ってたのに点数が低いから意味わからん」みたいなコメントをいただきました。彼にとっては70点前後というのは微妙なラインで、私が勧める作品は65点くらいのもあるので、その辺で感覚がズレている、というのです。

普通に考えれば、「お前の点数は参考にならん」という話なのですが、それだけではない、面白い問題もあるような気がいたします。エロゲーの採点にまつわる話は何度か書いていますが、私の考えも逐次更新されているので、自己確認がてら書き進めてみることにしましょう。


そもそもエロゲーに限らず、作品を評価する方法というのは幾つも考えられます。しかし、その中で「点数制」を選ぶということには、やはり何らかの意味があるはずです。

点数制というのは畢竟、ある基準のもとで統一的に評価することで、質を量に換算しようとする試みであると言えます。そして点数制のポイントというのは、私が見るところ、おもに2つ。まず、/値化によって分かりやすさを確保すること。そして、⊃値化によって比較を容易にすること。

,竜甸兩というのは、「面白かった」とか「泣けた」とか「秀作だけど佳作ではない」のような文章表現というのは、えてして主観的で分かりにくいというところに問題があります。これが「90点」とか「10点」といわれると、ぱっとわかる。表現のニュアンスなどに頼らず、誰にでも伝わる内容となります。

通知簿の評価にしても、「主体性はあるが人の話をきかず……」という文章より、「協調性 3」のほうが「真ん中よりちょっと上くらい」というイメージが伝わりやすいのではないでしょうか。

一方△蓮AとB、AとC、BとC……といった作品を比べやすくなるということ。点数で表示されれば、比較はきわめて簡単です。

,鉢△牢袷瓦吠未發里任呂覆て繋がっています。比較できるからこそわかりやすくなるし、わかりやすい基準だからこそ比較に使えるというわけです。


ところで、なぜ点数を使って評価をするかというと、そうすることによってメリットがあるからでしょう。

だとすれば、点数制を用いるときには上で述べたような特色を出しやすいほうが良いのではないか。そう考えることができます。思い入れのような主観的な内容は、点数にどうしても混ざってくるでしょうが、たといそうであってもできるだけ明瞭に説明できる基準が設けられるべきです。

別の言い方をすれば、個別の思い入れや情念のようなものを詰め込むには、点数制というのは余り向いていないシステムなのかもしれません。

もちろんこれは私の意見であって、点数にいろいろな要素を詰め込むことは可能だろうし、実際それを目指しているかたがおられることは理解しています。ただ、私は、システムに向き不向きがあるなら向いていることにシステムを使えば良いかなと思っているということです。


実際、点数制には一定の限界はあるだろうと思います。作品の感想なんかを書いていると、「これは点数化できないなぁ……」というような要素がいくつも出てくる。思い入れなんていうのは、その最たるものでしょう。

この辺りは、学校のテストの点数なんかを思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。歴史のテストで間違えた二人の生徒がいて、「源頼朝」と書くべきところを「源朝頼」と書いていた人と「推古天皇」と書いていた人がいたとすれば、前者はあきらかに「わかってる」感じがあります。でも、そういうニュアンスは点数では出せない。頑張れば出せるのかもしれませんが、かなりいろんな「工夫」が必要になります。

点数制というのは評価の方法の一つであり、ある切り口(視点)でものごとを捉えようとする試みです。そうである以上、切り落とされる部分、すくいきれない部分はどうしても出てきてしまう。そして、そこを無理に詰め込もうとすると、もともとあった良さを(「分かりやすさ」など)、かえって失うことにもなりかねない。私は、そんなふうに思います。


とはいえ、わかり易けりゃなんでも良いかというと、そうでもないのが難しいところですよね。ものすごい極端な例を考えれば、エロゲー採点するとき、「CGが何枚あるか」という、誰にでもわかる基準で採点をして、「きれいきたない」のような主観要素は入れません、というのだと、やはり味気ない。ギチギチに定義を決めて、主観要素が少ない採点ほど素晴らしいなんて思う人はそんなに多くないでしょう。

いや、私は昔ガチガチの点数主義者で、点数ですべてが表現できる! とか思っていたんですけど、5年前くらいから宗旨替えしてます。

結局は中庸というか、「うまいバランス」を取ることが重要で、その方法をめぐって「点数のつけかた」問題が発生するわけですが、最近私は、いっそ分けてしまうのも手かなぁと考えています。これまでは、点数をつけたら点数の説明を文章がしていたり、文章をわかりやすく可視化すると何点になります、みたいな感じを意識していたんですが、別に文章内容と点数がチグハグでもいいんじゃないかと。

つまり、「点数」ではフォローできない部分を補うのが「文章」。あるいは文章の側をメインと考えるなら、主観的になりやすい文章評価の中で、客観的な部分を補うのが点数ということ。それで、文章と点数を足して、主観客観両面からのトータル評価にする、みたいな想定です。

別に片方で全部やらないとダメってことはないと思うんですよね。


ちなみにこれ、私が創作した方法というわけじゃなくて、じっくり見ると既にやってる人がいっぱいいるような気がします。ただ、方法としてきちんとスタイル化されていないだけで(私の不勉強で、既にきちんとやってる人がいる、ということでしたら是非拝見したいので、教えていただけると幸いです)。

そんなわけで、この辺りを方法的に突き詰めていけば面白いレビューの形ができたりしないかなあと考えているのですが、なかなか良い感じの案は思いつかず……。また、批評空間さんの求めておられる「点数」とはちょっと変わってくるので、投稿を続けるなら分けて考えないといけなくてメンドクサイなぁと二の足を踏んだり踏まなかったり。

まあでも、これは以前から言い続けていることの繰り返しになりますが、点数制というのが何に向いていて何に向かないのか。点数が何を表現し得て、何をそぎ落としてしまうのか。そのあたりのことを、一度じっくりと考えてみたいなぁとは思っています。


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2013/05/20(月) 21:49:04

またか、という感じではありますが、私の近辺で「エロゲーはたくさんやってるのが偉い」みたいな話が持ち上がりまして……。

いい加減この話題繰り返すのも我ながらしつこいかとは思いつつ、やっぱり言っておきたい。

エロゲーをプレイしている量に、大した意味が無いとは言いません。しかし、それ(プレイ量)だけで偉さが決まるわけでも、一定数以上プレイしていなければエロゲーについて建設的なことが言えないわけでもないでしょう。

量をこなしているからこそ言えることがある一方で、量をこなさなくても言えること、あるいは量をこなしたがゆえに言えなくなってしまうこともまたあるはずです。

そういうもろもろのことを無視して、「やってりゃ偉い。何本やってから言え」みたいなことを言っちゃうのは、やはりどうも、了見が狭いんじゃないかなあと思う。

そもそも、そう言うことで何になるというのか。みんながたくさんプレイするようになって欲しくて言ってるのでしょうか。経験値浅い人が会話に入り込むのが気に入らないいのでしょうか。それとも、単に自分を崇め奉って欲しいのでしょうか。いずれにしても私には、そこに建設的なポリシーがあるとは思えない。

別に、プレイ経験値至上主義であること自体は構わないのです。そのこと自体は一理も二理もある。私が問題にしているのは、それを振り回して他の人を攻撃する態度のほう。プレイ量(数)のようなわかりやすい尺度を持ち出すことで、その尺度で測った時に劣っている人に攻撃を加える必要が、どこにあるのか。

この業界、そんな大規模なものではなく、小規模だからといって安定しているわけでもありません。もちろん、「好き」を強く持った人たちが集まっているのだから、コダワリが発生するのは分かるんですが、それでも、内ゲバやってる場合じゃないと思うんですよね。身内でセクショナリズム発揮して威圧したり、馬鹿にしあったりすることの、なんと無益なことか。

建設的な内容で争うなら頑張りゃ良いと思うんですが、ポリシーに内容を与える議論をするんじゃなくて、ポリシーを都合よく使って殴り合いしてるだけですから、早晩どっちも疲弊してポシャるか、国交断絶によって無益な争いを生み続けるか……。いずれにしてもロクな未来が想像できません。

まあ、プレイ量多い人だけじゃなくて、少ない人も「数やってるからって偉そうに言いやがって」みたいに応戦するのもマズイのかもしれません。プレイ経験値について言うなら、たとえば、経験値少ない人は高い人に敬意を払い、高い人は自分にはもうできないような新鮮な見方を経験値浅い人の発言からとりあげて……みたいな関係が理想じゃないかとは思います。少なくとも、経験値高い人が「お前はモノ言うな」と押さえつけ、低い人が「うるせぇ黙れ」とはねのける図式よりは、よほど。

というわけで、本数自慢は自由だけど、それに基づいて攻撃するのはちょっとどうなのかなぁというお話でした。うーん、ホントなんでこんなことになるんでしょう。みんなバトルが大好きなのかしら。

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2013/03/22(金) 23:35:00

先日プレイし終えてから色々考えていた『ポケットに恋をつめて』(青空ビスケット、2013年3月15日)の感想を、批評空間さんに投稿した(こちら:ネタバレ無し)。

したのは良いが、なんだか当初の予定と大幅に(これは本当に大幅に)違うものができあがってしまった。ツイッターでB2Fさん(@B2F_ )の勧めもあって、箇条書きにしようかとか(B2Fさん、その節はアドバイスありがとうございました)、あるいは楽しい話に相応しいコント的な文章を書こうかと思っていたのだが、結局いつもどおりか、いつにもまして、嫌がらせのようにくどい説明話である。一応装いはレビューのようにしたし、最低限のことは盛り込んだものの、どこに何が書いてあるか分かりにくい。どんな作品かを知りたくて見るには、明らかに不向きだ。

自分で読み返してみたけれど、正直あの感想を読んだ人が、「どんなゲームか分かった!」というのは、あんまり無いんじゃないかと思う。もちろん感想なり批評なりというのは純粋な「紹介」ではないので、必ずしも内容の説明になっていなくても構わないとは思うが、それにしたって参考になるかどうかも怪しいレベル。

ただ、書きたいように書いたことの後悔はないし、そう思うと今度は言い足りないところも出てきてしまい、今回少し記事として自分なりにまとめてみることにした。自分のために書いていたのがいつの間にか大きくなった形なので、少々読みづらいかもしれず、そこはご容赦いただきたい。

なぜそんなモン投稿するのかと言われれば、一応自分で書いたとはいえ、我ながらグダグダになった感想が、少しはわかりやすくなるかもしれないという期待のため。さきほどは「参考になるか怪しい」と自嘲したけれど、やっぱり私には、あんなのでも一つの「紹介」になっているという自負が、多少はある(でなければそもそも投稿しない)。だから、それは説明をしておきたかった。

という名目と、あとはまあ、実はこういうこと考えてましたとアピってみたいのだとか、そんな功名心みたいなものも汲み取って、生暖かく見守って頂ければ幸いである。

▼奇妙なおもしろさ
『ポケ恋』という楽しい作品の感想を書いていたはずなのに、どうしてあんなことになったのか。つらつら考えていたのだけれど、理由は簡単で、ひとつには私が頭でっかちな性分だから。かといって私だけのせいかというとそればかりでもなく、作品にも原因の一端を引き受けてもらうならば、もうひとつの理由は、あの作品を褒めようと、あるいは面白かったところをあげようとすればするほど、作品をけなし、面白くなかったところをピックアップしているようにしか見えなかったからだ。

たとえば、私が最初に書いていたメモを見てみると、やれ「話がバラバラで繋がっていない」だとか、「ストーリー性が薄い」だとか、「ユーザーへの配慮より登場人物の都合を優先している」「キャラ中心のゲーム(キャラゲー)」のようなことがずらずらと書き並べてある。それは私にとって、間違いなく『ポケ恋』という作品の良さを語ろうとして、苦心した末に出てきたことばだったのだけれど、しかしまあ、どう考えたって「褒め言葉」からは程遠い。

何としてこの溝を埋めようか。そのことを考えながら書いていたら、あんなんになってしまった。我ながらひでぇ話だと思うけれど、実はそれほど特殊なことを言ったつもりも無い。結局のところ、上に挙げたようなこの作品への「賛辞」が、一般的なエロゲーにとっては否定的な意味を持つという、そのような事態がなぜ発生するのか。私の問題意識はそこにあり、それはたぶん、この作品をプレイした多くの人に共有されうるものではないかと思う。「『ポケ恋』って、なんかヘンなゲームなのに、なんで面白いんだろう?」というかたちで。

▼物語の構造と解体
さて、与太話はこのくらいにして本題に移ろう。本題と言い持って少し関係ない引用から入るのが恐縮だが、もう少しお付き合い頂きたい。

かつて更科修一郎は『カラフルピュアガール』誌(2000年くらいのエロゲー雑誌です)の『Kanon』の記事で、こんなことを書いていた。

物語を構築する要素というのは、ウラジミール・プロップの「26のカード」以降、現在では分析され、かなり法則化されている。更に、近代化に伴って、スピリチュアルで曖昧だった物語要素は、更に表層的な記号へ解体され、方程式を組むように商品を作ることができるようになったし、記号の選択と方程式の組み方さえ間違えなければ、ユーザーを「泣き」や「萌え」の状態に導くのも、割と簡単にできる。実際、ほとんどのおたく向けヒット商品&作品はそういう計算の上で作られている。逆に、ヒットしない商品のヒットしない理由とは、作り手の創作性……悪く言えば、偏執的なこだわりがノイズになってしまったケースが大半だったりする。

 そして、全ての事象が表層的な記号へ分解されていくこの状況が、この連載で何度も書いてきた[オブジェクト嗜好]の正体で、別の場所では[ポストモダン]と呼ばれていた状況だったのだ。

 商品として成立させるために、計算によって整合性を高めると、計算できない要素はノイズとして排除されてしまう。例えば、スピリチュアルな物語要素の代表例である[奇蹟]は、近年は「陳腐なもの」として、扱うことを避ける傾向にある。(N.P.C. Vol.08『Kanon〜残された者のために祈りを』 )



プロップって誰やねんというツッコミが入りそうなので、まずはそこから。ウラジミール・プロップはロシア(旧ソ連)の民俗学者であり、構造主義を物語分析に適用した(『民話の形態学』)、文学畑ではそこそこ有名なオッサン。プロップ自身の専門は、民話(むかしばなし)で、彼は民話から抽出した構造が、あらゆる物語にあてはまると考えた。[※1] 要は、神話や民話、あるいは詩のような古典的な文学のみならず、近代の小説も――もっといえば人間が物語を語るということそのものに関して原理的な考察を行おうということであり、そういう物語研究の土台が彼によって作られた、くらいの認識で良いだろう。たぶん。

ともあれここで更科が述べているのは、物語というものの構造があきらかになり、それによって「スピリチュアル」だった物語というのは、まるで工業製品のように機械的に生産可能なものになった、ということだ。あるいは「なってしまった」という否定的なニュアンスを含んでいるかもしれないが、ともあれそこでは、「読み手にウケるか」という結果までも、ある程度折込済みにして物語を作る態度が定着していった。「スピリチュアル」に対して、「マニュアル」とでも言えば良いだろうか。あえて分かりやすさを重視して言い直せば、一点物の、その人にしか作れない(実存的な)「物語」は姿を消し、かわりに大量生産・大量消費の量産商業主義的な物語が生まれた。そしてそれは、物語なるものを分解し、分析の対象としたことによってひきおこされた、というわけだ。

こうした分節化されてゆく物語の帰結=更科が言うところの「オブジェクト嗜好」(「志向」ではない)に関する検討が、どの程度妥当なものであるかはともかくとして、物語を構造的に把握しようという考え方が2000年以降現在にいたるまで、クリエイター・ユーザーを問わず、オタク界隈ではある程度共有されてきたということは疑いのない事実であるように思われる。

それは私のような、頭でっかちなサブカル崩れの人間だけではなく、現場で実際の創作に携わるような人たちの間にも、強固に、そして隠微に共有された信仰だ。実際たとえば、「ライトノベルの書き方」のような本が書かれ、クリエイター志望の人間にひろく読まれ、専門学校でその手法が教えられ……といった制度化の動きは急速に進み、そして今なお残っている。ヒロインは何人が良いだとか、その属性はなんだとか、そういった考え方そのものが既に、セールスを織り込んだ物語の「マニュアル」なのだ。

[※1]……たとえば、『桃太郎』は「主人公の出発」、「主人公の移動」、「敵対者の処罰」……のように要素分解され、その組合せによって物語は作られている。そして、対象が昔話であれ近代小説であれおよそ物語である以上、限られたパーツに分解できる、あるいは物語というのは、パーツの組合せによってつくり上げることができる、というのがプロップの主張の骨子である。七十年代から八十年代にかけて爆発的な影響力をほこったフランス現代思想に深く食い込んでいたこともあって、それなりに日本でもはやった。さすがにリアルタイムの受容がどんなものだったかは知らないけれど、今でも名前を時々耳にするくらいには。

▼構造という名の束縛
プロップの、あるいはその後続いた記号論的な物語読解が主張するような「物語の構造」の発見というのは、つまるところ、「人間のあらゆる言説行為の中に、再現可能な構造を探り出そうという試み」(中沢新一)である。

その構造なるものが具体的にどんなものかについて、ここで詳述は避けるが、物語にそういう構造ないし秩序があると見なすことが、ある種の束縛として機能することは理解されよう。物語は「かくあるべし」という形で規定され、定式化されることによってはじめてその構造が浮かび上がる――あるいは逆に、構造が「発見」されたことによって、物語は秩序化され、縛り付けられた。

けれど、ここでひとつ問うておかねばならない。果たして私たちは、構造を求めて物語を読むのだろうか。

記号論的な物語読解が主張する「物語の構造」とは、普遍的ななにものかだ。どんな物語からでも取り出すことができ、比較可能なもの。物語を人間に喩えるならば、構造とはその骨格標本といったところだろう。なるほど、皮をそぎ、肉を落として浮かび上がったそれは、ある意味でそのいきものの本質といえるかもしれない。だが、私たちが交わり、友誼を結んでいる「誰か」を思い出せと言われて、骨格標本を想像する人間が、果たしてどれほどいるというのか。あるいは、DNAの塩基配列でも良い。それは人間の本質であって、塩基の配列が私たちの形質のすべてを決定しているのだとしても、そのことと私たちが生きている現実とは直接には結びつかない。

私たちが目指すのは常に目の前にいる誰か――常に、肉も皮もある、総体としてのその人である。

物語とて同じこと、構造を抽出され、分解され、分析された諸要素が、私たちの求める物語そのものであるということは、恐らく無いだろう。『浦島太郎』の、「漁師が亀を助けて竜宮城に行って戻ってきたが、禁忌を犯して老人になる話」という要約をきかされたところで、そこには私たちが生身で触れた「浦島」の姿は無い。「浦島」は、物語の文体や表現、句読点のひとつひとつに偏在し、ただ総体としてしか姿をあらわし得ないのだ。

昔話を読んだ時に感じるあの興奮を、「主人公の帰還」の如き抽出要素から、私たちはおよそ感じ取ることができない。私たちが物語から受取る享楽というのは、常に構造の外側にも(あるいは構造を取り出すことによって削ぎ落とされ、排除されたような細部にも)またひとしく宿っており、取り除いた瞬間に総体としての力は失われてしまうのである。

かくて私たちは、物語そのものからは程遠い「物語の構造」に縛られたまま、その中で物語を求めてあえいでいる。

▼構造の内破と総体性の回復
私が『ポケ恋』から感じたのは、構造という軛から物語を解き放とうとする力である。

それが具体的にどのようなもので、またどこからそう感じたかについては、批評空間のレビューをご覧いただきたいが、敢えてまとめるならば、物語の諸要素を細分化し、それらを再構成することによって、構造を用いながら構造が保っていた秩序を破壊する試みが、そこにはあったように思われるのだ。その試みが意図されたものであったか、はたまた偶然の産物であるかを、ここで問うことはできないけれど。

物語を読むことで私たちが求めていたものは、物語の構造ではない。少なくとも、そのように思う人たちは少なからず存在する。私たちは、ただ物語という経験に惹かれるのだ、と。そう信じる人に向けて、新しい物語を紡ぐこと。私たちが生きてきた、物語という制度を内破させ、想像力を拡げていくこと。それこそが、『ポケットに恋をつめて』という風変わりな作品が示し得た境地である。そのように言うことは許されないだろうか。

物語は構造によってではなく、ただそこに生きる人びと(キャラクター)によって成り立っているのだと、既存の物語という制度を組み替えることで『ポケ恋』は振舞ってみせる。このときキャラクターは、制度化/秩序化された物語の世界を、内側から突き破る力となるだろう。そして、自由になった物語は、キャラクターのもとでその総体性を回復するに違いない。総体性とはつまり、物語の世界が自律的に駆動し、常に構造化から逃れているということ。要するに、キャラが勝手に動きまわって書かれている以上の物語を内部から生成していくような、想像力の源泉としての力である。

今後も続く可能性となるのか、あるいは一代限りで途絶えるのか。それは私には分からない。ただこのような作品に出会えたということが、そしてこのような作品が現にあったという事実が、物語に縛られたこの世界を生きる人にとって、いくらかの、慰めとなるかもしれないとは思う。

▼物語のはじまり
私はこの記事のはじめのほうで、「どうしてあんなことになったのか」と書いた。今更ながら振り返れば、私が感じていた書きづらさの正体は、本当はきっと、ここにあるのだと思う。つまり、物語の構造化を破ろうという試みを前に、その「構造」を取り出そうとすることは、この作品の本質的な部分を、どこか決定的に損なってしまうのではないかという懸念があった。ただひとこと、「面白かった」とだけ言えばそれでこと足りる、そういう作品だと言われればそうなのかもしれない。しかし同時に、この作品から受け取った違和感を、何か形にしてみたいという気持ちもぬきがたくあった。

とりあえずやってみた感想としては、ぐるぐる回った挙句しょうもないことしか言っていないという挫折感と、またこういう内容について、私のようにまわりくどい説明的な形をとらず、しかも私よりずっと端的かつ鮮やかに示すことができる人はたくさんいるはずで(私の頭のなかですぐに2、3人の名前が挙がるくらいには)、そういう人に任せりゃよかったなぁと思うものの、そもそも「そういう人」がプレイしない可能性もあるわけで、ならまあ紹介役くらいにはなれていたら良いなぁという、割と卑屈な思いがあったりする。

ともあれ、言いたいことはほぼ尽きた。いや、本当はまだある気がするけど、これ以上は蛇足だ。

ゲームが終わる時、私はなんとも言えない名残惜しさと、それでもきっとまだ彼らの世界は続いているのだろうなという妙な安心を同時に感じた。「ポケットに恋をつめて」というタイトルは、文法的にはこの後に続く文章を、内容的にはどこかへ出発していくイメージを、想起させる。だからたぶん修次たちの物語は終わるのではなく、ゲームが終わったところから始まるのだ。この作品で描かれていた「恋」をポケットにつめて、私はもう少し、彼らとの物語を楽しんでみたい。

……普通のレビューは、別途ちゃんと書こうかなと思っています。なるたけ楽しい紹介文を。

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2013/03/02(土) 22:30:47

MK2さんのブログ、『24時間残念営業』の「単なる一消費者のわがままとして」という記事が話題になってます。

エロゲー世界の北の端っこくらいにかろうじて蜘蛛の糸でぶら下がっている私のところにも、さまざまな感想とともに回って参りました。そんなわけで、今回はこの記事を元ネタにして考えたことを書くことに。

全部書いてるといつもどおりヨレヨレで何が言いたいかわかんなくなりそうなので、今回はちょっと論点を絞って書こうかなと思っています。論点自体は絞ったけど、やっぱりグダグダになりました。ただ、よれて見えるぶん元記事にも言及しながら問題を切り分け、微細な部分をなるべく丁寧に拾ったつもりです。グッと堪えて飲み込んでいただけると幸いです。

▼問題の所在
最初に断っておくと、私この記事そのものについては別段なんとも思わないというか、「良い文章だなぁ」くらいの感想です。あと、『ひなたぼっこ』は私も大好きです。FDも良かった。

ただ、この記事が「エロゲーの将来の展望」とか「可能性」のように言われているのを頻繁に見かけまして、「それはちょっと違うんじゃないの?」と思ったのです。

同じブログ内の他の記事なんかも拝読したんですけど、書き手のMK2さんはものすごい「語る範囲」を正確に絞って(あと、時々巧妙にミックスさせながら)文章書かれる方ですよね。んで、タイトルが「単なる一消費者のわがままとして」なわけでして、そこから業界の展望の話に行くには、ちょっと考えるべきこともある。さしあたっては単にこの方が、そういうエロゲーほしいですという話であって、私が触手触手言ってるのと、究極的にはそう変わらない。

変わらないんだけど、巧妙に「一般的な話」を混ぜてるのがお見事と言いますか。社会人になって時間が……とか、かつてほどの熱意が……みたいな話ですね。トドメに、「この感覚は決して俺だけのものではないと思っている」という一言。一般的な話を織り交ぜることで話はぐっと理解しやすく、また共感もしやすくなる。

また、エロゲー業界に対して悲観的な展望を語った、nbkz氏(minori)のインタビュー記事、「平均年収は300万円以下?! 衰退化が止まらない美少女ゲーム業界の現状」に冒頭で言及しておられ、そこからずれていく様子が半ばカウンターのように書かれていることもあって、「エロゲーのこれからに関する可能性」を示唆しているようにも見えたのではないか……とも思います。わかんないですけど。

ただこれ、繰り返しますがやっぱり「一消費者のわがまま」なのであって、「個人の希望」ではあっても「業界の希望」の話ではない。少なくとも、個人と業界の間にある溝を埋めていくと、この記事から見えてくるのは、nbkzさんの記事以上の、暗い展望ではないか、というのが私が今回、この記事を書くに至ったモチベーションです。その理由は、読んで頂ければ早いのですが見通しだけ申し上げておきます。

(1)エロゲーを短くすることは必ずしも業界の現状打破にはつながらないのではないか。
(2)そもそも現状において、まず「長さ」にこだわっていて良いのだろうか?

という二点。では、見て行きましょう。

▼「ライトユーザー」は業界の「救世主」たり得るか
いまユーザーのニーズとして「短いエロゲー」が望まれているということ。これは非常によく伝わって来ました。そういう人たちをここでは、(一般的な用法とは違うかもしれませんが)「ライトユーザー」と呼ぶことにしましょう。lightさんのユーザーのことではありません。MK2さんの言い方を借りれば、「「飢えるように」フィクションを求めているわけではな」くなり、エロゲーも「相対的には熱意は下がったわけだが、趣味としては充分に機能している」ような状態の人。

ライトユーザーからの要望として、自分たちはエロゲーを楽しみたい。でも生活環境的に楽しめない。だから自分たちにあわせた作品があったらいいなぁ。MK2さんの記事というのは、そういうことだったかと思います。そして、こうしたユーザーの声に、昨今のエロゲーの低調さというのがうまく噛み合うように見えた。業界の方を巻き込んでこの話が大きく広がった裏には、そんな事情があるのかもしれません。

もうちょっと具体的に言えば、いまエロゲーが売れない。売れないのに「大作」を作ると開発費と時間だけはかかる。つまり「今のままではやっていけない」という危機感が、作り手の側にある。この辺りは、MK2さんが引用しておられるnbkzさんのお話と逆(nbkzさんは結局は年間1本でユーザーが満足するのを出すのがベストか、みたいな話をされているので)のようにも見えますが、たとえばOVERDRIVEの社長が先日、こんな記事を書いておられました。これなんかは既存の方法ではやっぱり限界があるということで、その点についてはnbkzさんも認めておられるのではないかと思います。

つまるところ、こうした閉塞を何とかするために、エロゲーから離れつつあるライトユーザーの取り込みを図りたいという考えが出てくる。すると、ちょうどそういうユーザーは、「大作」を望んでいないという声があがった。これ幸い、渡りに船と、「ライトユーザーのニーズに合わせるのも1つの選択肢ではないか」みたいな主張を積極的に打ち出した……というような話が今回のことなのかな、と。

しかし、本当にこの二つって簡単に結びつくのでしょうか。

というのは、MK2さんの方の問題意識って「エロゲーに段々関心持てなくなってきた」っていう話じゃないですか。ものすごいざっくり言うと。「長いからエロゲーをやめた」んじゃなくて、「エロゲーに対する比重が軽くなったから、長いのをやらなくなった」わけですよね。MK2さんのお言葉を借りれば、「「本当に大好き」ならばどんな状況でもやるわけだが、現在の俺にとってエロゲはそういうものではない」。

これたぶんすごく重要なポイントで、要するに(ここで定義した)ライトユーザーの人たちって、そもそもエロゲーにこだわる理由がまず無い。あるいは無くなりつつある。もっといえば、アニメとかラノベとか、そういうので代替可能なものとしてエロゲーを扱ってるということです。そして、エロゲーにこだわる理由が無いってことは、すぐにそっぽを向いて違うコンテンツに走る可能性が十分にある

それが悪い、と言いたいのでも、エロゲーに忠誠誓ってる俺SUGEEEと自慢したいのでもありません。そういう話だと思って読んでる人はお引取りください。言いたいのは、純粋なユーザーの傾向(あるいは嗜好)の違いです。

エロゲーというコンテンツ自体に特にこだわりがないということは、他のコンテンツと容易に比較されるということです。エロゲーで抜くこともなく、ADVという形式にこだわりもなければ、当然アニメやラノベが比較の対象として浮上してくるでしょう。その時、エロゲーというコンテンツはどれだけ、他の媒体に比べて「優位」を保てるのでしょうか?

これと似たようなことを、minoriのnbkzさんも言及しておられます。「スピード感」だとか、「支持層ではなく購入層が違う」というあたりのお話ですね。私は、これ結構その通りだろうと思う。

エロゲーとラノベやコミックスではフォーマットが大きく違う。たとえばエロゲーにはインストールの手間がかかります。お金だってかかる。PCだと、スペックの問題とか場所の問題とかも出てくる。ちょっと乱暴にまとめると、ラノベやコミックスで代替可能なものをエロゲーで提供したところで、競争になったら負ける率が高い――少なくとも、積極的にエロゲーを選択する理由が少ないのではないか。

ライトユーザーというのは、生活時間の変化や金銭的な事情、あるいは情熱の低下など、さまざまな要素によってエロゲーの中心から距離をとっている人びとです。そんな彼らが、エロゲーのプレイにかかるもろもろのコスト(手間)を惜しむこと無く、他の競合するコンテンツを押しのけてエロゲーを消費し続けてくれるかというと、私は結構怪しい気がする。これから先、景気が悪くなっていったら、まっさきに切られる娯楽かもしれない。

だからライトユーザーのほうを見るな、と言っているのではありません。それだけは誤解しないでほしい。そうではなくて、ライトユーザー的欲求を、エロゲーの作り手の方が有効なかたちで反映するというのは非常に大変ではないか、ということです。なんたって、既に飽きつつある人(それだけではないかもしれませんが)、エロゲーを第一だとは考えていない人を、うまく飽きさせないようにしながらエロゲーというものに接続させないといけないのですから。本質的な問題は「プレイ時間がかかるかどうか」というところになどなくて、根本的な魅力の組み換えが必要なのだと思います。

ちょうどネットゲーム業界では、ソーシャルゲームがその役割を担いました。「ネットゲーは時間がかかりすぎるから」と言っていた人びとが、それ以上の時間と金を、ソーシャルゲームにつぎ込んだりしている。もちろんカジュアルなプレイスタイルを構築することで「時間」の要求には応えたわけですが、それ以上の根本的な魅力を提出することによって、ソーシャルは時代の寵児たり得たのでしょう。

エロゲーでも、そういう「新機軸」を打ち出す必要が、おそらくはある。そうでないと、本当に一時的には「お手軽」な作品に満足を覚えても、(手軽なだけに何本もできるので)やがてマンネリを感じて「飽きた」と言い出すか、他のもっと手軽なコンテンツに乗り換えていくか、リアルが忙しくなって撤退していくか……という先細りの未来が待ってるように思われます。それならまだ、既存のヘビーユーザーからむしり取ってるほうが楽だし確実だと思います。もちろんついていけないくらい絞っちゃうと焼畑農業にしかならないので、生かさず殺さずで。

まあこれぞ、nbkzさんがおっしゃるところの「タニマチ商法」ですね。nbkzさんは、上に述べたような「新機軸」を打ち出すことの困難をおそらくは強く意識しておられるのだと思う。だからこそ、エロゲーはエロゲーらしさをより掘り下げていくという方向を、1つの案としてではあるけれど提示した。そしてMK2さんもまた、「これが実現できるかっていうと、まさに「できない」というのがリンク先のインタビューの話なわけで、俺が言うことは絵空事に過ぎないわけではありますが」と自己言及しておられる。

あともう少し考えを進めれば、もしライトユーザーにあわせていったとして、その結果できあがった市場が、「どうしてもエロゲーじゃないと!」と考えていた層(「ヘヴィユーザー」とでも呼びましょうか)にとって魅力的かどうかという問題もあります。エロゲーへの依存度が高い人は、生半可なことでは離れないから多少放置しても平気かもしれませんが、当然行き過ぎるとそっぽ向かれる可能性はある。

ライトユーザーにターゲットを移したけれどすぐに飽きられ、気づいたらヘヴィユーザーも情熱を失っていた……というのは、ある種考えうる最悪の自滅シナリオではないかと思います。

この記事から見えてくるのは、したがって、現状の閉塞打開への手がかりよりもむしろ、ユーザー、特にライトユーザーの望んでいる方向性というのを実現しつつエロゲー界隈に残ってもらうことの困難であり、同時にそれを何とかしなければnbkzさんが言うところの「タニマチ商法」に頼っていくしか先が見えない、苦しい現状なのではないでしょうか。まあ皆さん(特にクリエイターの方は)、そんなこと百も承知で読んでおられるのかもしれませんが。

▼こだわるべきはまず「長さ」なのか?
さて、思いのほか一つ目の問題が長くなってしまいましたが、次の話に移ります。もう少しお付き合いください。

もうひとつの問題というのは、MK2さんの記事内容そのものからは少し離れまして、これが読まれている現状に関する話、もう少し具体的に言えば、エロゲーユーザーと、クリエイターの意識に関わる問題です。ゲームクリエイターでもない、作ったこともない私が作り手の意識に言及するなんておこがましいにも程が有るのですが、あくまで「作り手の態度から演繹される、ユーザーから見た作り手の意識」であって、実際のそれと必ずしも一致するとは思っていません。また、自身が論説系とはいえかきものに携わる身としては、畑違いかもしれませんが一応、無関係ではないという意識もございます。

たとえばですけど、ある学生街に1000円で凄いボリュームの定食があるとします。で、昔は体育会系の学生が多くて、この定食がバンバン売れていた。ところが最近になってそういう学生は減り、お客さんも貧乏学生やサラリーマン(ワンコイン族)が増えた。材料費も、昔と比べると随分かかるようになった。周囲では最近、サイ○リヤとかラーメン屋とか移動弁当屋が人気で、この定食屋としてはボリューム減らして500円くらいの新しい定食だしたほうが売れるし生き残れるんじゃないか。少なくとも今のまま、1000円の定食出し続けるのはキツい……。

で、「おやっさん、ボリューム多いと思うよ」っていう人に対して、「だよねー。俺もそう思ってたんだよねー。いやマジ、あの体育会系の学生たちは図体も声もでかいし、数も多かったからずっと出してきたけど正直無理があると思っててさ。やっぱりこれからはよく食べてくれる普通の人に向けて、量も減らして値段も下げて、500円くらいの軽食をメインでやっていこうかと思ってるんだよ」って言ってるの聞いちゃったら、好きで通っていた体育会系学生としては、傷つくところもあるわけじゃないですか。

また個人的な感傷とは別に、「え、これまでお店で出してたメニューをそんな簡単に方向転換しちゃえるような、そういうこだわりで作っていたの?」というのもちょっと気になります。定食やめてラーメンやりますとか、バーガーショップにしますっていうのは、生き残ることを考えたらわからんでもないけど、いままで出していたものは本当に「道具」だったんだなぁと。

私はそういう転身をやむなしと考える部分もある反面、ちょっとした寂しさも覚える。それはおそらく、提供されるものが「商品」なのか「作品」なのかということに由来するのではないかと考えます。

この辺りの問題って言うほど単純ではなくてかなり複雑なんですが強引にまとめると、商品という側面を大きく取れば、ユーザーのニーズにあわせたものを出すというのはわかるけれど、創作物という側面を大きくとるのなら、ニーズにあわせたものばかり出てくるのは面白く無い……といったところでしょうか。作り手の人が作りたいものを作って、それを見たいのだ、という思いも強くあります。

下は、ALcotのみやぞうさんのツイート。これなんかはリサーチも踏まえて非常に「戦略的」に長さを決定しているようですが、「作り手も冒険しやすかったりもしますしね」という最後の文言からは、むしろ作りたいもののために長さのほうをあわせた、という作品性本位の印象を受けます。


もちろんバランスの問題ではありますけれども、それこそ「いち消費者」の立場として言わせてもらうならば、私は作り手の人が自信を持って送り出した、そして「これがやりたかったんだ」と思って送り出された作品をやりたい。別の言い方をすれば、市場の動向がこうだから……というようなことで作り手の人の意識が過分に曲がってしまうようなことは、あまりあってほしくないなぁ、と。もしもエロゲー市場というのがそればっかりになってきたら、野心的なクリエイターは皆、エロゲーから離れていってしまうでしょう。(なお、みやぞうさんはこの後、「勿論規模の大きいタイトルもあるべきですよ。選択肢は多い方が良いです。多様性が無いと業界が死にますしね。」ともおっしゃっておられ、これはある意味、単一のターゲットに絞ることの危険を意識した発言であると思われます)

そのように考えた時、「ユーザーが望んでいるから長く/短くしよう」というのは、商品における誠実さである一方、その裏返しとして作品としての不誠実さ(キツい言い方ですが、他に思いつかなかったので)にも見えてしまう。ふつうに作品本位で考えたら、「この作品に必要だったのはこの長さなんです」ということですから。下に引用する元長柾木さんのツイートは、「人生」という喩えで簡潔かつ的確に、作品と作家との関わりの本質を言いとっておられます。


こりゃまったくその通りで、たとえば私が自分の書いた文章――それはこのブログの記事も含めてですが――を、本気で書いて、これ以上は付け加えることも削ることも無い、という自負のもとに送り出したとして、それを「長い」とか「短すぎる」といわれたら、その批判は受け入れたとしても、簡単に変えようとは思わないだろうと思います。私ですらその程度のこだわりはあるのですから、況やプロのライターさんをや。

実際問題、「本当は3キャラにしたかったのに、ユーザーが満足しないから5キャラになった」とか、「このくらいの長さにしたかったけどユーザーから不満が出るのが怖くて長くした」みたいな話って、誰も幸せにならないですよね。ユーザーからするとそれって(もちろん「サービス」として肯定的に受取ることもできますが、どっちかというと)、本当はやりたくなかったのに水増ししたのかっていう印象。作り手の側からしても、自分がやりたかったことの本意を曲げて妥協したうえに、体制的にも無理して作ったということになります。それはどちらも、とても哀しい。

エロゲーのライターでもありラノベ作家でもある橘ぱんさんも、次のような言い方で、誰も望まない方向へと業界が進みつつあることに警鐘を鳴らしておられます。


いまエロゲー業界のプロ意識は、商売ということについて主に発揮されている。でも、表現ということに関して言えば、妥協してしまっている。そんなふうには言えないでしょうか。それは、ユーザーを説得するだけの作品を作り続けられなかった作り手の側の問題でもあり、またそういう作り手を支えられなかったユーザー(市場)の問題でもあると思いますが、責任をゴタゴタ言うのは不毛なのでここではやめておきましょう。

多様化するユーザーの要望に、どう応えるか。積極的に聞き入れてユーザーの希望に適う作品を作るのか。あるいは、「これが作品に必要なのだ」とつっぱって、いままでやってきたことの魅力をより的確に伝えるようブラッシュアップするのか。行き着く先はおそらく、作り手の側が作品に対する最適なスタイルを自己決定しづらい現状をいかにして打開するか、というところです。エロゲーの「長さ」問題というのは、そのような根深い問題の、あくまでも1つの典型的なあらわれにすぎないのではないでしょうか。

▼まとめにならないまとめ
上に挙げたような二つの問題の直接の原因は、作り手の、あるいはユーザーの持つ多様な価値観を受け入れるだけのフトコロの深さみたいなのが、なくなりつつあるエロゲー市場の脆弱さなり縮小化なりというところになるのだとは思います。そして私は1ユーザーである以上、直接かつ効果的な業界への貢献なんて大それた真似はやはりできません。

せいぜいが、エロゲー買って、良いと思った作品を「良かった」と言い、ダメだと思った作品については「ここ良くなかった」と率直な感想を言って、ああ楽しかったと満足するのが関の山です。もちろんそれだけでは成り立たなくなっていった現状をユーザーとして重く受け止める必要はありますが、結局のところ業界の舵取りをするのは現場の人でしかないわけで、問題意識を手放すつもりはないけれど、そこに自分が参与できるとは思わないし、思ってはならないのだと考えている。業界から離れていった人を批判したり、あるいは彼らへ働きかけて呼び込むなんてのは到底無理。そもそも、いまはエロゲーマーの間で内ゲバやってる場合じゃないので、思想的対立(笑)とかどうでもいいです。

じゃあ、私は何をするのか。個人的にはまず「基本」に立ち返ろうと思っています。

「基本」というのは、エロゲーをガンガン買うことでも、感想を言うことでもありません。もちろんそれらは最終的にどこかには含まれてくるかもしれませんが、一番の基本ではない。基本は、何よりもまず、エロゲーを楽しむということ。楽しい気持ちでゲームをすること。開き直り、あるいはふざけた肩透かしにしか聞こえないでしょうか。そもそも、それができないのが問題じゃねぇかって話ですからね。でも、作り手の人を信頼し、感謝して、できあがった作品をいろんな意味で楽しみながらプレイすることこそが、いま現役でエロゲーをプレイしているユーザーとしての、まずもって欠かすべからざる関わり方ではなかろうかと思うのです。

おしまい。

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2013/02/26(火) 22:32:33

最近立て続けに、若い――ぶっちゃけ20歳になったばかりくらいの――エロゲーマーの人とそれなりに突っ込んだお話をする機会がありまして。あ、突っ込むって別にエロい意味ではないですよ。んで、そのたびに言われたのが、「昔のエロゲーを知ってる世代の人が羨ましい」と。それぞれにニュアンスは違いますが、2000年以前の、いまでも頻繁に言及されるような著名な作品をプレイできていたのは羨ましいのだ、と言うのです(オッサンに気を遣ってくれた面は多分にあると思いますけれども)。具体的には『Yu-no』や『同級生2』のようなDOSゲーから、LeafVN三部作、『MOON.』『ONE』のようないわゆる(系譜的な意味での)鍵ゲーなんかの名前があがりました。

なるほど、言われてみればそんなものかもしれません。特に1995〜2000年頃というのは(売上額的に見れば)エロゲーの勢いが最も盛んだった時期ですし、Windows95の登場とともに表現の幅が大きく広がり、現在の作品群のもととなったような意欲的な作品が名を連ねています。いまのエロゲーを好きになって、その過去の足跡を辿りたい……とか、そんな風に考えた時、リアルタイムで経験している世代というのはなんとなく特別に見えるのかもしれない。

まして、MS-DOS時代の作品とかになると、現在プレイ環境を整えるのが難しいようなものもあります。誰でもが気軽に踏み入れる領域じゃなくなったぶん、「秘境」みたいなイメージができあがり、そこへ行ったことがあるというだけでハクがついてみえたりするんでしょうか。本場アメリカの空気を吸うだけで高く翔べると思っていたバスケ青年みたいに。

ただ、こういう感覚は私からするとちょっと意外というか、私はむしろ、いまの若い世代のほうを羨ましいなぁと思っているところが結構あったんです。

たとえば、私の世代ですらエロゲーマーというのは日陰者というか、いまみたいに堂々とおひさまの下を歩ける感じではなかった。『To Heart』がメディアミックスに成功して一気にアニメ化とかもしましたけれども、それでも深夜の枠だったので各方面に憚りながらコソコソみていたくらいです。昨今は割と堂々とその手の話ができる! ……羨ましい。そこそこ年食ったエロゲーマーが集まると、昔の作品の話で盛り上がるのは、過去にそういう話を存分にできなかったうっぷんを晴らしている……のかもしれません。しらんけど。

あと、コミュニティの広さもあります。そもそもリアルではエロゲーやってる知り合いなんてほとんどいなかったし、ネットなんてものもろくすっぽ普及していなかったので、大学入って暫く経つまでは、本当に2、3人の「同士」たちと行動を共にして、あとはエロゲー雑誌を擦り切れるまで読む、みたいな状態。『こみっくパーティー』とかを、もうちょっと遅らせた感じというか。

いやまあ、単に私のリアルでの立ち回りが悪かっただけかもしれないですけどね。でも、その辺を抜きにしても、メーカーのOHPすらそんなに整備されておらず、エロゲーのコンテンツを楽しむという意味では、いまのほうが圧倒的に恵まれていると思います。体力的にも時間的にも記憶力とかも充実していて、また制作側の主なターゲットでもある18歳から20代前半、エロゲー的「ゴールデンタイム」を、そういう恵まれた環境で過ごすことができることは、非常に幸運ではないかと思います。

それとは別に、若い人へのレスペクトみたいなのもあって、たとえば私みたいなオッサンちょっと歳のいったお兄さんはもう、最新作をしゃにむに追いかけてプレイするみたいな情熱をなかなか持てないんですよ。時間も確保しづらいし。『おっぱいリコレクション』もまだインストールしてない有様。昔なら即日やってたでしょうに。

でも、いまの若い人たちはこう、最新作バンバンやり、同時に昔の有名な作品も、中古なりDL販売なりで安くなったのをガンガンプレイしてたりする。一部の熱心な人だけかもしれないけど、そういうエネルギーには憧れるし、同時にエネルギーのはけ口がきちんと用意されているという環境に、少しではありますが嫉妬も覚えます。

作品のクオリティーだって単純に声がついたりCG面で綺麗になったりでぐっと向上していて、20年後とかに振り返ったとき、そういう作品を原体験として持っているのはやっぱり良いことじゃないですか。

まあ結局何が言いたいかというと、時代状況的なものってどうしようもないというか、いいところもわるいところも、当然あるものだと思うんですよね。J-POPの流行みたいなもんです。私の世代はミリオンヒット続出してたけど、だからってその時代はなんでもかんでも良かったわけではない。隣の芝生は青く見えるというやつで、なかったもの、失われたものに目を向けているとキリがありません。前ばっかり見ても、後ろばっかり振り返っても。

だから、まずは自分の立場を受け入れて、でもそれにしがみつかずに進んでいくしかないのでしょう。「昔は良かった」ばっかり言ってたら今の流れに取り残されてしまうわけで、そこは前を見て歩いて行きたいし、かといって過去の流れを置き去りにしてしまって良いとも思われない。過去を「老害」扱いで殲滅するのは簡単だけど、そこにしかなかったものも、やっぱりあるんだと思う。

ちょっと抽象的というか漠然とした話になっちゃって反省。具体的なイメージはあるんですけど、書きづらいというか、もっと長くなるのでそれは別の機会にゆずることにしまして、つまるところはエロゲーが背負ってきた歴史性みたいなものを、うまく共有していければいいなぁという話です。毎度収束しないオチでごめんなさい( TДT)人。

そのためにもとりあえず、過去の名作と呼ばれているものはWindows7対応とかにするプロジェクトがあってほしいし、過去の作品一覧をデータベース化したり、本体をいつでも確認できる「バベルの図書館」(ちょっと違うか)みたいなのが欲しいなぁと思ったりするんですが、このジャンルではなかなかそういうことしづらいですよねぇ。

そういえば、明大の米沢嘉博記念図書館に行ってみたい。近いうちに機会を作ろうかな……。


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2013/02/23(土) 04:49:35

昨日エロゲーの発売日イベントでお会いしたpomさん(@pokpokpolk)と、帰り際にちょっと雑談していたのですがその中で、「いまやるべきエロゲー」みたいなのがある、という話が出て来ました。もうちょっと詳しく言うと、時間的に今しかできないだろうからある作品をやっているのだけど、どうも今の自分の心情が求めているものとは違うのだ、みたいな話。私も以前に似たような内容をツイッターでつぶやいたことがありまして、これには大変共感しました。

エロゲーにも、魚や野菜と同じく、「旬」というのがある。私はそんな風に思っています。

たとえば、「話題性」みたいなのはわかりやすい。発売直後の、みんなが盛り上がっている時期に自分もその熱気の中に身をおくことができた作品と、「話題になったらしい」という伝聞だけで一人こっそりプレイした作品とでは、もちろん同じように「面白い」「楽しい」と感じても、その感じ方の中味は随分と異なるでしょう。

ことは、作品の側だけの問題ではありません。pomさんがおっしゃっていたように、ユーザーの環境というか、心構えというか、そういうものにも大きく左右される。たとえば私の実体験として、アリスソフトさんの『超昂閃忍ハルカ』を初めてプレイした時のことを思い出します。最初、私は全然ピンとこなかったんですね。エロさを感じなかった。なんかめんどくさいゲームだなぁ、みたいな印象を持ったのを覚えています。

ただ、その時私はちょっとリアルが忙しくて、いやなこともあって、じっくり腰を据えてエロゲーを楽しむことがしづらい状況だったんですね。気乗りはしないし、身体のほうもガンガン体力を消費したい状態ではなかった。まあ疲れてる時にかえってオカズが欲しくなるとかありますけど、そういう状態でもなく。それこそ「話題性」のためだけにゲームをやっていて、そして、全然楽しめなかった。

しばらく後になってようやく周辺が落ち着いて、そうなると、私はエロゲーマーですからエロゲーをあれこれやります。その中でいくつかの「くのいちモノ」エロゲーにトライしたんですがこれがことごとくコケまして(笑えない)。んで、「くのいちモノのえっろいゲームやりたいなぁ」と思ったんです。そこにいたってふと思い出した『ハルカ』さんを引っ張りだしたんですが……。いやあ、ほんとにお世話になりました。もうね、超エロいです。なんじゃこりゃっていうレベルで。最初にプレイしたとき、全然ピンとこなかった理由がさっぱりわからない。何考えてたんでしょう私っていう感じ。

ユーザーはよく自分の「属性」を語ります。しかし、その「属性」も、細かく見てやれば日によって違ったりするかもしれない。AVを選ぶときに「今日は〜モノが見たいなあ」というのがあるのと同様、エロゲーに対する欲求も、時と場合によって違ってくるはずです。わかりやすいので抜きゲーの話にしましたけれど、明るい学園モノがやりたいときとか、暗いファンタジーがやりたいときとか、ユーザーの側のバイオリズム次第でさまざまに変化しているでしょう。こういう、「その人がエロゲーを楽しむための環境要因がバッチリ整うこと」を、エロゲーの「旬」と私は呼んでいます。

で、普段はそんなに意識されないけれど、少なからず作品への評価とか印象に、この「旬」というのは左右してると思うんです。学園モノがやりたかったのに、期待してたブランドからでたのが珍しくファンタジーだった……みたいな感じで「旬」を逃したせいで楽しめなかった作品とか、逆に「旬」だったからこそ最大限楽しめた作品とか、そういうのはある。

だから、一度「つまんない」と斬った作品でも、やり直してみると意外と楽しく感じたり、逆にものすごく面白かった記憶があるのに再プレイしてみると「あれ、こんなもんだっけ」と「?」マークがアタマに浮かんだりすることも。

とはいえ、エロゲーは一回のボリュームが結構大きめで、しかも次から次へ新しい作品が出ているということもあり、面白かった作品を再プレイすることはあっても、つまんなかった作品をあえてもういちど……ということは、まぁめったに無いだろうという気がします。よほど特殊な事情があれば別ですけれども。その意味では、「ダメ出し」食らった作品というのは、なかなかリベンジしづらい。一度「旬」を逃した作品については、「おいしいところ」をあじわうことができないまま、忘れてしまうことがほとんどではないかと思います。

逆に言えば。もしも、自分の心に強く残る名作があるという人は、その作品の「旬」を、なんらかの形で逃さずに味わうことができたのかもしれません。もちろん「旬」は一度とは限りませんが、自分を含めた周囲の環境が充実した状態で作品と巡り会えたわけで、それはきっと、とても幸運なことなのでしょう。私はエロゲーマーとして、心に残る作品と出会えたその幸運に感謝したいなぁと思うのでした。

おしまい。(オチは無い)

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2013/02/06(水) 22:43:18

先日からエロゲーマー界隈を賑わしている、『パステルチャイム3 バインドシーカー』(以下、「ぱすちゃ3」)のデータ不正アクセス流出事件。

《関連リンク》
・アリスソフトBlog「不正アクセス被害の報告
・アリスソフトBlog「パステルチャイム3 データ流出の件について

予想を超えた大騒ぎとなり、色々な噂や憶測が飛び交っていますが、現状、信頼できそうな情報をまとめると以下の流れのようです。

(1) まず、2/5にアリスソフトさんの「取引企業」のサーバーにあった「ぱすちゃ3」の本体データが不正アクセスを受けて流出したとの報告があった。

(2) アリスさん側が確認すると、「一般に非公開であった弊社契約企業様のDL用データアップサーバーのアドレスと、ダウンロードしたデータをクラックしての起動方法が記された改造手順テキストが確認」された。

※ピンポイントでサーバーに不正アクセスしてデータ狙い撃ちとか、どんだけ凄いんだ……と思ったら、このアドレスが「一般に非公開」なだけで、Google検索にも引っかかるうえ、アクセス制限もかかっていない状態であった、という話もありました。実際どうなんでしょうね。

(3) HIRO氏がBlogで公表した段階では、「ダウンロードサイト様のサーバーが不正アクセスを受け」という表記になっていた。これによって、「DMM.comさんから流出したのではないか」という憶測が飛び交い、DMMさんが突如としてサーバーメンテナンスに入ったこともあって、ツイッターなどを通して「DMMが流出させた」というデマが広がった。

(4) HIRO氏が文言を「取引企業様のサーバーが不正アクセスを受け」に変更。また、「ダウンロード販売を行なっているサイト様からデータが流出したものではございません。」という特別な追記を行なう。どうやらDMMさんではなかった、ということでいったん沈静化。

(5) 「発売日の前倒し」及び「発売日変更のお詫びとして新たな購入特典の追加」という2つの対応を行うことが決定し、Blogに経緯が書き込まれる。

という感じ。

DMMさんは本当に何もしていないのにいきなり火が飛んできた感じに見えます。アリスソフトさんもお気の毒。「取引企業」さんとやらはちょっとセキュリティどうなのという気はしますが(管理責任問題とかにならないのかな)、まあ誰が刑罰の対象かというと、不正にアクセスしてデータを盗み出したうえ、プロテクトを解除する方法を流した人なわけで、「何故このような行為をするのかと、本当に悲しい気持ち」というHIROさんのことばがしみじみと思われます。

んで今回のアリスソフトさんの対応ですが、個人的には非常に好感度高いというか、事前に予知でもしていたのかと言いたくなるほどのスムーズさと、ユーザーへの配慮に頭が下がります。

正直、今回の件についてはアリスさんが直接責任をとるべきことって余り無い気がする。もちろん「任命責任」みたいなのはあるのかもしれませんが、取引先の企業が狙い撃ちされてそっちから出ちゃったというのは、もう不可抗力としか言い様がない……。それでも、誰かを責めるでもなくメーカーとして責任を取ろうとする姿勢には心打たれるものがある。

ぶっちゃけ言えば、販売の影響を心配しているのであろうことはわかります。ツイッターでこの話をした時に、何人かの方もおっしゃっていたのですが、「被害を食い止める」意味での発売日前倒し、というのは狙いとしてありそうですね。

時間が経てば経つほど、不正流出したデータが「出回る」可能性は高くなり、そうすると購入ユーザーが減るかもしれない。それは避けたいので、発売日を前倒しにするという部分はあるのでしょう。しかし同時に、このような「ケチ」がついてしまったことをユーザーに申し訳なく思う気持ちが無いわけではないのだとも思いたい。発売日を前倒しにして一日でも早くプレイできるようにしてくれたり、特典を追加してくれたりというところに、そういう申し訳ない気持ちを載せてくれているのも事実なのではないでしょうか。

実際、発売日変更によって小売や流通にかける面倒を考えたり、特典追加によってかかる負担を考えると、やはり今回のような対応は一朝一夕でできることとも思われません。それを、一晩で決めて実行してしまったわけですから、それだけ「本気」の行動であるということはわかる。カッコイイなあっていう感じです。

唯一ひっかかるのは、発売日を前倒しにする理由で「正規ユーザーの皆様が不利益を小さく留められるよう可能な限り発売日を調整させて頂きたくこの度の変更となりました」と記載しているところ。今回の流出で「正規ユーザー」が被る不利益って何かというのはいまいちわかりません。「俺たちより早くプレイしてる人がいる!」とか、「非正規ユーザーが先行でネタバレしてる!」といって怒る人ってあんまりいない気もする。

いや、不正ユーザーが得してる! って怒る人もいるのでしょうし、文言が悪いというわけではありません。こんなことでユーザーが不利益を被ったと思うなど、ユーザーをバカにしてる! と怒るつもりもない。ただ、この対応の凄さってユーザーに何か直接的な不利益がでたわけでもないのに、アリスさんが非常に誠実な対応をとった、というところにあるような気がするんですね。

「ユーザーが不利益を被った」というのは抽象的でどんな不利益かわかんないんですけど、なんか不利益があったのかなー。じゃあ今回のサービスはその補填だからフツーに受け取ればいいのか、となっちゃって、なんかもったいない。「お騒がせをしたお詫びに」くらいのほうが正確だし、アリスさんの誠実さも伝わりやすいのではないかなぁ、などと思ったのでした。

まあ何にしてもこんなことは二度と起こって欲しくはないし、こんなつまらないことで「ぱすちゃ3」の名前に傷がつかないことを祈るばかりです。むしろ今回のピンチをチャンスにかえて、「対応も内容も良かった稀代の名作」と呼ばれる作品であることを期待したいですね。

あ、そういえば「ぱすちゃ3」の前倒しとはたぶん何の関係もなく、『レミニセンス』が2ヶ月延期の運びとあいなりました。



次の発売予定日は、5月31日だそうです(´・ω・`)。なんとなく予想はしていましたが、こうまで延びると意欲が……。無事に発売されることを祈るしかない……。

公式がタイトル間違えてることには突っ込まないほうが良いのかな。……ハッ、まさか別のゲーム……Σ(゚д゚||)。

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