よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/04/30(火) 04:41:26

株式会社飛夢さんより、つんでれ萌酒「つん」と「でれ」が、4月20日に発売されたのだとか。「つんでれ萌酒ってなんぞ?」という方は、こちらのページをご覧ください。たぶん、一発で理解できますゆえ。

ツンデレ萌酒
オトナになっても、飲み過ぎ注意。

「痛印」でおなじみ、しらたま先生を起用したキャラクターの萌え酒のようです。どれどれ……と思って内容を見てみると、

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セット内容日本酒 2本 (つん/でれ)
容量:一合瓶(180ml)
ドラマCD 1枚

価格4,800円(税込)
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( д)  ゚ ゚

高ぇよ!!!

と、思わず全力ツッコミ。ドラマCDを超絶高めに見積もって3000円だと考えても、2合で1800円の日本酒かぁ。ちょっとしたお店で、割と良いのが呑める気がします。そんだけ払えば。いくらグッズ系でもやり過ぎじゃないかと思ったりするんですけれど、こんなモンなんでしょうか。

しかも、「業界初!? 2種類の日本酒をブレンドして自分好みの味にする新発想の萌酒」ってことですから、基本は2合一気に飲みきりですよね。ちびちび派にはしんどい……。というかふと気づいたんですが、これ、あまった分は「自分好み」じゃない比率で呑まないとダメなのでは? さすがツンデレやで……。

しかし、妙にポイント高いというかわかってる感があるところもあって、それはこのキャラクター、春日野桜子ちゃんの、CVが丹下桜さん。

丹下桜さんです。

CCさくらとか、ラブプラスとかでアレでコレな感じで、大きなお友だちのぴゅあぴゅあハートを狙い撃ちです。実際ちょっと興味はあって、四月にこんだけ大量出費になっていなければ1セットくらい購入したかったのですが……どなたか、チャレンジしたかたはおられませんか! いたら是非、どんな飲み心地だったか教えて頂ければと存じます。

CD無し1000円とかであれば、飲み会とかのネタにしてもいいんですけど、それだとこれまでに発売されてる痛酒系と差別化はかれないってことなのでしょうか。まあ、どの層狙ってるのかといえば、CD欲しい層ですよね、たぶん。

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2013/04/29(月) 22:49:55

オーガストさんから、(たぶんユーザー葉書のお礼の)冊子とか絵葉書とか入ったパックが届きました。届いたのですが……。

うちのポストが爆発していました。

半開きになった郵便受けの中に、「ソフトウェア制作 AUGUST ARIA」の文字の入った真っ白い封筒が、ばばーんと鎮座している姿が世界まる見えテレビ特捜部。封筒事態は萌え絵とか入っていないから、解らない人には解らないのでまぁいいかなという感もするんですが、わかるひとにはわかっちゃいますよねえええ。

以前、もう引っ越されましたが、おとなりの方のポストが爆発していて、AXLさんの年賀状入り封筒が見えていたことがあって、「おっ、おとなりさんもお仲間かぁ」とニヤニヤしたことがあったのですが、まさか自分の身にも振りかかるとは。悪意のない郵便物怖いです。

さすがに、ピンと来た人がいても黙っていてくれるとは思いますし、AUGUSTさんの真っ白封筒だから被害はでませんでしたが、これでデンジャラスなブランドさんだったらと思うとぞっとしません。簡単に開いちゃわないよう、鍵でもかけておこうかしら……。

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2013/04/28(日) 19:20:58

いやもう、タイトルそのまんまです。メインPCが、いきなり動かなくなりました……。起動しようとスイッチを入れたら、いきなりパチン、と音がしてうんともすんとも……。

バックアップはとってあるんでデータ的には被害少ないんですが、ハードがそのままご臨終ですと、マザボにせよSSDにせよ、すぐには対処できないしお金もかかるしで、正直勘弁してほしいです。

これから夏にかけて「熱く」なるから気をつけようとは思っていましたが、過ごしやすいこの春先に、早々にマシントラブルに遭遇するとは想定外でした。しかも連休前。エロゲーが山ほど積み重なっているこの時期に、このトラブル。やってらんねええええええ。・゚・(ノД`)・゚・。

どうぞ皆様もお気をつけください。気をつけてなんとかなるものでもないんでしょうけれども(´・ω・`)。しっかし、本当に参りました。なおりゃあ良いとはいえ、通電してないぽいんで、無理かなぁ……。まだ買って一年以内だから保証が効くのがせめてもの救いかしら。GW中は真っ暗な感じしますが。

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2013/04/27(土) 15:24:31

友人が「最近本当にキラキラネーム増えてきたよね」みたいな話をしておりまして、小学校で教えている彼が言うには、「まるでエロゲーのヒロイン」のような名前の娘が増えたとかなんとか。

個人情報の関係で具体的には教えてもらえなかったので(というか教えてもらってもここでは書けませんけど)、一体何を基準に、名前がエロゲー的と言っているのかよくわかりませんが、「瀬里奈」とか「観鈴」とか、そんな名前なんですかね。あるいは四姉妹で上から、千鶴、梓、楓、初音とか? それなら確かに、エロゲー的です。

まあ私にあわせて「エロゲー的」と言ってくれているのだとしても、フィクションが非現実性を出すためにネタ的に用いていた名前が、現実に進出し始めたというのは、確かにあるのかもしれません。そうすると、あと10年、20年後には、むしろキラキラした名前が一般的になって、今の「普通」の名前は、普通ではなくなっているかも。たとえばいま、花子とかがめっきり減ってしまったように。

そして、教室には「眞流千」(まるち)さんとか「深志亜」(しんしあ)さんとか、「茶奈」(てぃな)さんとか「安慈瑛里華」(あんじぇりか)さんが溢れかえるわけです……なんてワンダフル。キラキラネーム万歳。

しかしそうすると今度は、現実的になってしまったエロゲーの側は立つ瀬がないわけで。どうするんでしょうね。「普通」の名前に戻すのでしょうか。

なんていう、超どうでもいいことを話して今日の午後は過ぎてゆきました。

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2013/04/26(金) 18:58:04

本日月末戦線ですが、GW前ということもあり、大変なラッシュに。しかも、延期するとばかりおもっていた『さくらさくらFESTIVAL』がまさかの発売になったりとか、いろいろ予想外のことが相次いで出費がえらいことに……。

ほぼフルプライスばっかり、本日13本引き換えてきたんですが、まだ『らぶりけ2』が2本、引換ずのままで残っております。エリクシルとらぶりけを複数行ったのが間違いだったかもしれない……でも特典欲しいしなぁ。

というわけで、本日からしばらくの間は修羅のごとくエロゲーやりまくりモードに突入すると思います。まずはエリクシルからいくよ!

そういえば、ソフマップ1号館の4F(フィギュアのコーナー)で今日は引き換えたのですが、担当の人が慣れていないからでしょうか、ずっとエロゲーのタイトルを「百花」とか「らぶら……」とか、うしろが読めずに最初の方だけで商品名確認してました。魔導が大変そうだった。

そんな中、「ゆめいろアルエット」だけはフルネームで呼んでくれたのですが、ずっと「ゆめいろアリエッティ」って言ってらして、内申「そりゃジブリやがな」とツッコミ入れてました。

こんだけ量があると店員さんも、特典の確認だけで大変そう。月末に限ってはアキバ☆ソフマップ1号館は、4F、6Fなど別のフロアーでも引換ができて、そっちはたいていガラガラなので(店員さんが慣れてないからちょっと手際悪いのに目をつぶれば)、オススメです。

さて、では皆さま良いエロゲーライフを。

……しかしこれだけあるのに、あんまり抜きゲー枠がないな。先週買ったセーラー戦士と、今週はツゴウノイイ彼女、ナイまいくらいですか。体力は消耗しなくて済みそうです。

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2013/04/25(木) 21:31:29

「長すぎる文章」(文章量が多すぎる文章)ということばがある。このとき、長すぎるというのは、何に(あるいは誰に)とって長すぎるのか。原理的には、二通りの解釈ができる。まず、読者にとって長すぎる。そしてもう一つは、文章にとって長すぎる。

ここでいう「文章」というのは、書き手のことではない、というのは一応ことわっておきたい。書き手にとって長すぎる文章というのは、原則存在しない。なぜなら、文章が存在しているということは、書き手は既にその文章を書き上げているのであり、つまりは書ききることができる程度の長さではあったのである。書き手が「長すぎた」と真に言えるのは、あまりの長さに書くことを断念した場合くらいだろう。

とまれ、ここでは表現された文章と、実際のその文章の書き手とを分けていることが伝われば良い。


さて、文章と読者という二者関係について考える場合、まず読者の立場から文章に出すことのできる感想は多い。たとえば、難しすぎるであるとか、句読点が不適切で読みづらいであるとか、文章に勢いがあって良いだとか。長すぎる、というのもそのような、読者にとっての主観の問題であることがほとんどである。

この時見落とされるのは、その文章にとって(文章というもの一般ではなく)、長さがどのような意味を持つのか、ということである。はたして、文章の内容と長さというのは、まったく切り離して考えることができるものなのだろうか。少し具体的に考えてみよう。

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そんな重大な局面に、はたして心理学が関与しうるだろうか。当初はそう思うこともあった。しかしこの「供述の世界」に入り込むにつれ、それがどれほど難しいかはともかく、広義の心理学のなかで取り組まねばならない問題領域がそこに広がっている、それだけは間違いないと思うようになった。
(浜田寿美男『〈うそ〉を見抜く心理学』)

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たとえば上の文章は、余計な修辞を取り払って表面的な意味だけを要約すれば、「心理学は「供述の世界」と深く関わる学問である」のように言ってしまうこともできる。短く書くなら、それのほうが良い。だが、疑念→実践→確信というプロセスを書いてみせることで、この筆者がさまざまな可能性をふまえて熟考した末に結論を導いたことや、その結論が机上の空論ではなく現場の中で紡がれた思考であることなどが、描かれているとも言える。

また、「広義の心理学」のような言い方からは、この著者が狭義の心理学を意識しているということ――つまり、巷で話題になるような、「心理学」という語をめぐる定義問題を自覚しているということ(および、たとえばカントの「心理学」の議論などを踏まえたうえでの論述であること)と、自覚していながら敢えてその説明をはしょったのであろうこととが読み取れるかもしれない。


曲がりくねった文章は、確かに読みづらい。しかし、その読みづらさゆえに、かえって思考の道筋の困難を、文章は示し得ているのかもしれない。あるいは、議論のプロセスを見せる中で矛盾があれば、何をどう間違えたのか、その原因は何だったのかを、明らかにしているといえるかもしれない。単純に読みづらいだけの文章のほうが、実際には多いのだろうが。

短い文章は、解りやすく、頭に入りやすい。そのことを強いて疑うことはしないけれど(短ければ必ず解りやすいわけではないとしても)、しかし、語ろうとしている内容それ自体が非常にわかりづらいことである場合だってある。ただおのれの思考の軌跡を見せることでしか伝えることのできないような、そういう類の情報というのも、間違いなく存在するのである。

このとき、文章それ自身にとっては、長さも難解さも、内容と分かちがたく結びついた必要な要素であると言えるだろう。


もちろん、そのような文章内容と長さの関わりとは無関係に、ただ読者側の好みの問題として、長い文章は読みたくない、という可能性はある。そもそも時間がかかるから忙しい人には向いていないし、長文を読む気力がないことのほうが多い人もいるだろう。

そういう人の「長すぎる」という意見は、言ってみれば「読みたいから短くしてくれ」という、読みへの欲求の表現であるという考え方もできるから、文章としては無下に退けることもできないし、文章の書き手が意見を気にしてしまっても、仕方がないと思う。

けれど、読者の側が文章の内容と関係なく、形式的特質をもって文章を選別する自由を主張するのであれば、文章の側にもまた、形式にもとづいて読者を選別する自由があることを、そうした読者は認めねばなるまい。文章はなるほど、強く自己主張はしないけれど、しかし必ずしも完全に受け身な存在というわけでも無い。

たとえば、哲学の術語を用いていればそういった基礎教養がある読者を文章が選んでいるといえるし、ヴァイオリンの部品について何の解説もなしに書かれていれば、楽器についての知識が求められているということになるだろう。いわゆる「想定読者」というものであるが、文章を形式で拒絶するなら、同時に文章から拒絶されているという自戒は、どこかに浮かべておいても良い。少なくとも、文章だけが、一方的に読者に歩み寄ることを強制されるいわれは無いと、私は思う。


誰かに対して、「身長が高すぎるから嫌いだ」と言うのは自由である。しかしそう言われたからといって、その相手の人格的・あるいは人間的価値が損なわれることは、たぶんない。同様に、文章にとって「長すぎる」というだけの批判は、その文章の内容的価値とは無関係であろう。

もしも文章の内容との関わりにおいて、「長すぎる」という議論が成立するのだとすれば、それはその長さが、文章の内容の何を損なっており、短くなることでいかなる可能性が開けるかが示される必要が、おそらくは存在する。

文章が長すぎることで、多くの人に読まれないという批判ないしは心配をするのであれば、そもそもその文章が、多くの人に読まれることを第一義的に目指したものであるかどうかを、まずは検討しなければならない。たとえば長くて晦渋な文章が大好きな、一部の、しかも内輪の人間だけを楽しませることが使命の議論であるなら、多くの人に読まれなくてもその文章にとっては全く問題がないわけで、「長すぎる」と責めてみたところで、傷ひとつ負わせられない。


私は、自分の文章が長いことの言い訳をしているのではない。また、「長すぎる」と言って読むのを止める人は考えが浅薄だと嘲っているのでもない。そうではなく、読者が読者の視点から「長すぎる」という話を持ち出すのが自然の成り行きであるとしたら、文章にとっては、内容との関連でその長さの意味を考えるのが自然ではないか、ということが言いたいのだ。多くの人に読まれることを目的とした文章ならば、読者の注文を積極的に聞き入れてゆくべきに相違ない。しかし、正確性を旨とするならまた違った形式が必要になろう。

要は、文章の形式というのは形式それ自体で存在しているのではなく、内容との関連において存在しているものだ、ということである。そのことへの配慮を抜きに、文章の長さについて生産的な話というのは、起こりにくい。

(ちなみにこれは余談になるが、「長すぎる」といって文章を批判する人は、必ずしも長さだけを問題にしているわけではないだろう、とも思っている。長くても読みやすい文章なら文句を言わない、という発言をときどき聞くが、それから推察するに、おそらく「長すぎる」というのは多くの場合、読みづらいというのをひとつの解りやすい特徴で捉えて表現しただけにすぎないのではないだろうか。そしてその読みづらさの原因は、長さだけではなく、論旨の不明瞭さや用語のわかりにくさ、更には問題意識が共有できていないことなど、さまざまに存在するのであって、本当に文字通り長さだけを問題にしている人というのは、実は案外少ないのではないかと、私は考えている。今回の話はそれをあえて、本当に長さだけの話をするならそこからどんな可能性が見えるのか、という関心にもとづいて書かれていると思って頂ければ良いかもしれない)

したがって(すこし飛躍するが)、次のように言うことができるのではないかと思う。

ある文章に触れた読者は、自分の話をしたいのなら、「長すぎる」という意見を表明すれば良い。その文章の話をしたいのなら、その文章にとって長さがどういう意味を持っているかを語れば良い。文章の書き手は、ある文章を通して自分の考えを書きたいのなら、その文章にとって長さがどういう意味を持つのかを考えてやれば良い。そして読まれたい読者があらかじめ決まっているのなら、その読者の声にあわせて表現を変えてやれば良い。

そしてもちろん、この4つは全て極端にしか選べないというわけではなく、3:7や5:5のようにバランスをとることで成り立っていて、そのバランスが文章の立場に反映されてくるのだろう。



と、「である調」で書いてみたらフツーの話もそれらしく見えるかと思ったんですがそうでも無かったですね。これぞこけおどし。

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2013/04/24(水) 21:30:40

昨日、「サイン会落ちたかも」みたいなことを書きましたが、今日当選メールきました! やった!

とりあえず東京は倍率高いだろうという読みと、帰省をかぶせても良いかな思って大阪にだしたので、これで連休中日は大阪行きが決まりに。ぶっちゃけ、かなり楽しみです。嬉しい。

知人友人の中にも何名か当選している人がいたのですが、こっちはほとんどが東京……まあ当然といえば当然なんですけれども。ともかく読み勝ちというか博打に成功というか、そんな感じになったのでちょっと興奮しております。

当日は楽しんでこよう!

『LOVELY×CATION2』を応援しています!
姫ちゃんかわいいです。

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2013/04/23(火) 21:42:51

こぬ人を、まつほの浦の夕なぎに……

と詠んだ藤原定家の心持ちと同じかどうか知りませんが(たぶん違う)、「4月24日(水)中までにメールにてご連絡」となっている『LOVELY×CATION2』のサイン会の当選発表の通知が、今日も来ませんでした。こりゃあ、ダメだったかなあ。

この前に発表があった発売記念イベント(これ)は見事に落選。ワンチャンス狙うなら金曜の朝イチからソフマップさんに並ぶしか無いんですが、今回は朝から行けそうにないんですよねぇぇぇ。うーん。しんどい。無念です。

21日締切で、中2日ですから当選通知が最終日に来る可能性も無きにしもあらず……なんですが、淡い望みは早めに捨てておこうかなと(´・ω・`)。せめてどっちか当選したかったな〜。いけるもんなら始発より早く26日並ぶくらいのつもりはあったんですけれども、ここへ来てリアルが足かせに。・゚・(ノД`)・゚・。

知人友人の中に当選したという人を全然聞かないのですが、当選されたかたは是非、楽しんでらして下さい! とか何とか言いつつ一縷の望みを捨てきれないわけで、明日、当選通知が届いたりしないかなぁ……。

『LOVELY×CATION2』を応援しています!
最後はバナーをぺたぺた。

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2013/04/22(月) 22:38:57

先日の記事(「「他者」無き時代の思考」コメントへのお返事など)に思った以上に反応を頂いて、なんか適当にタイトルつけたの失敗したなぁとか色々考えていたのですが、返信しようとすると字数制限引っかかったりなんだかんだでバタバタしたので、いっそひとつの記事にしてお返事することにいたしました。

というのも、書いているうちにそれ自体具体例なんかが含まれてきて、前回の話をよりはっきりした形でふくらませることができるかなという気になったからです。実際、似たような問題意識が見えるようなかたちででコメントを書いてくださった感もありますし……。

また、どれも興味深いお話で、コメントが思いの外長くなってしまったんですよね。お三方ともコメントありがとうございました。すごく刺激になりました。

◆狐月さん
こちらではお初です。

「特定のキーワードからいい加減に推測して」というのは、私の言わんとした部分とかなり重なります。私自身の反省も含めるのですが、友人に「概念」ということばを多用する人がいて、彼が何を言ってるかよくわからないなぁと思っていたのですが、詳しく話を聞いていると恐らく、「観念」のことを言っていた(抽象的定義と、自分の主観的認識、くらいの違いだと思って下さい)、ということがありました。

このあたりは、狐月さんがおっしゃるところの「知識を蓄えることの重要性」とも関わってくるかもしれませんね。「概念」という語と「観念」という語を使い分ける知識の有無で、意思疎通のしやすさは変わってくるであろう、という。

もちろん、その彼に「ちゃんと一般的定義で使い分けろよ」というのは簡単なのですが、しかし、「概念」という語で主観的な認識の話をしたかったというのは文脈を踏まえれば理解可能であったはずなので、こと1:1のコミュニケーションでは、それを読んだ上で話しをするのが誠実さだったのかな、などと反省した次第です。

大学での学問というのは、実際各大学や学部、そして教授によっても性質が大きく変わってくるでしょうから(私が学んだところなどは、いわゆる「実学」とは大きく隔たっていて、むしろ直接的有用性は不要、みたいな雰囲気がありました)一概には言えませんが、私も実学志向を無用だとは思わない一方、それとは別種の、原理的思考みたいなものは必要であろうという点には、強く同意します。

とりわけ、何か大きな問題が起きた時にそれを学問の力で直接処そうという態度は、ともすれば知や学というものが状況依存のものとなってしまう可能性があり、狐月さんがおっしゃるところの「土台」としての性質を忽せにしてしまうように思われます。

もっとも、最近は予算の問題とかでそんなことも言っていられないのが哀しいところなのだとは思いますけれども……。


ひかり&るなちーさん
またまたコメントありがとうございます!

「議論の中で重要なキーワードなのに、議論してるそれぞれが違った意味合いで論じてる」というのは、狐月さんがおっしゃるところの「知識を蓄えることの重要性」の問題であり、上で私が述べたような内容とも関係あるのかなと思います。というか、やっぱりこのテの話をするとキータームの齟齬とかの話になりますよね、あるある的な(笑)。

「wikiとかで調べて自分に都合のいいまたは感覚的に合った意味を使っちゃって、相手の文脈から相手の使ってる意味合いを想像するのをやめちゃってる」というのは、本当にその通りで、使い慣れている人ほどそのことばに独自の意味をもたせたり、あるいは最初から勘違いで使っていたりということも往々にしてありますし……。

似たような話で以前、「マジックワード」ということばが、辞書と違う、とツッコミを頂いたこともありました。(私は曖昧で中味がなく、どうとでも解釈できる「ジャーゴン」のような意味で使っていたのですが、「人を魔法のようにたぶらかして操ることばだ」のような反駁をうけた)

「相手が取れないようなボール投げて」ってまさにそんな感じで、お互いワイルドピッチで捕れないボール投げ合ってしまったり、あるいは相手のいない土俵でひたすら張り手を出してる文字通りの「一人相撲」とってたり……。仰るとおり、このあたりって初等〜中等の教育で、「技術」を教える機会がほとんどないせいかもしれませんね。

教室ディベートとかを、一年くらいかけてしっかり訓練するプロセスがあれば良いのかなとか思いますが、難しいだろうなぁ……。少なくとも全国で義務化とかは無理っぽい感が。


◆lhramtlさん
はじめまして、コメントありがとうございます(。・x・)ゝ。

lhramtlさんのお話は、私が申し上げたかったこととは少しずれている感もあるのですが、興味深く拝読しました。

私の論旨としては、「議論する中で相手の言葉を自分の言葉にわざと直す」というのは、大きな問題ではありません。上記、狐月さんへのコメントで私が書いた例のように、相手が「概念」という語を用いていて、自分の中ではそれは「観念」という語だ、と把握したなら、置き換えて理解するのが良いかなとも思います。

また、「衒学的」というのはそもそもマイナスの用語なので衒学的なのはアカンと思いますが、あることばを別の術語(難解だけど厳密な)に置き換えることは、私は「アリ」だという立場です。そうすること(そうされること)によって、「ああ、この話というのはそういうことばを使う世界で既に議論されている話なのだな」ということが解りますし、その知識をもとに、また話を広げることが可能だと思うからです。

もちろん、lhramtlさんは「自分自身の感覚にあった言葉しか使わず」という態度を批判しておられるので、わざと(あるいは無意識に)とんちんかんな言い換えをすることが問題なのだと思いますが、肝心なのは、もしそのような状態になってもお互い「譲りあう」ことではないかと私は思います。

たとえば今回の私の記事は、「自分がものを考えるときの考え方」であり、自分の心構えとして、常に謙虚であれ(相手の使っていることばがわからなくても、それを文脈から読み取る努力をしよう)、というようなニュアンスで書いています。

その点からすれば、lhramtlさんの「衒学的に語り、難しい言葉を難しく言い簡単なことを難解にする人は何なんでしょうね?相手にその言葉を調べさせないのが大事だというのに」というような、相手に責任を転嫁する考え方とは、やや違うことを述べているつもりです。では、「私の言いたかったことを読んでないから話打ち切ります」で良いかというと、そうは思わない。それはあくまで私の視点であって、lhramtlさんは接点がある、と考えて書いてくださったのだから、その接点を見たいわけです。

lhramtlさんは私の記事から、「文章をねじ曲げて解釈する人」への批判を読み取られた。そして、そのことは私の記事に対して、いくつかの問いを投げかけていると、私には思われました。

まず、相手の文脈を追いかけて読んだ時に、それはどこまで可能なのか(受け手の恣意性を逃れられるのか)。次に、相手のことばと自分のことばが違っていたときに、どうやってその間の溝を埋めるのか。最後に、互いに(あるいは一方が)意図している内容と表現できている内容が食い違っている場合はどうするか、といった問題です。

私は「解釈の配慮」に割と限定した話をしていたのですが、lhramtlさんはそこから拡げて、「相手にその言葉を調べさせない」というような、発信も含めた議論の方法にご関心があったので、このような違いが出てきたのかなと思いましたが、いかがでしょうか。

いずれにしても私としては、いたずらに感情的にならず、「相手は何か自分とは別の大事なことを言おうとしているのではないか」という考えを持ったまま、言説は言説として捉えるという姿勢が求められるような気がいたします。

むろん、相手の言っていることがすべてくまなくわかるなどということは無いのかもしれませんが、だからこそ、最後まで向き合う姿勢だけは棄てないほうが良いのかな、と。



というわけで、長くなりましたがコメントへのお返事を手がかりに、前回の続きのような話でした。

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2013/04/21(日) 22:35:34

関連記事: コメント返信(2013年4月22日)

先日ツイッターで話をしていたのですが、どうも私たちは最近、すぐに「正解」を探してしまうよね、と。

これは凄く分かります。正直、身につまされる。「正解」という言い方をするといささか抽象的ですが、私的な言い方をするなら、自分の感性に合うものだけを選んで情報をピックアップしてしまう。実際、違和感を覚えたり、あるいは理解できないものからは目を背けたり、拒絶したりすることが、簡単にできるようになった。それこそたとえば、ツイッターのブロックのように。

もちろん、良いことでもあるのでしょう。嫌なことを強制され、逃れられなかった時代のことを考えると、回避し選択する自由があるというのはとても素晴らしいことです。しかし、あまりにそれを極端にやりすぎると、異なる考えは「無かったこと」になってしまう。存在していることは認めるとしても、いてもいなくてもどうでも良いような、事実上無意味な存在に、なってしまう。

たぶん、いまの私たちに欠けている「考える」姿勢って、もともとはそういうところにあらわれていたんじゃないかと思います。異なるものとどう向き合い、受け止めるかというところに。

真面目な思考力や真剣な悩みが若者には無い、みたいな話があるけれど、それはちょっと単純化しすぎでしょう。自分の考えを、深く深く掘り下げようとしている人は少なくない。若くて私なんかよりものしりな人なんて、ごまんといます。

でも、自分とは違う考え方について、それがなぜ相手にとって切実な問題なのかとか、どういう論理で導かれたものなのかということを、じっくりと考える、そういう人は減った。減ったというか、そういうことしなくても快適に過ごせる環境がどんどん整備されていったおかげで、あんまり必要がなくなったのでしょう。

また、これは議論がオープンになって人の目につきやすくなったせいだと思うのですが、議論というものにおいて「勝ち負け」が重視され、相手と戦うときに、結論が本人同士の納得よりも、「賛成者の数の有無」みたいなところで争われるようになった。このことも「考える」機会が失われていった、遠因かもしれません。

まず話の内容より勝ち負けが重視される。加えて、やたらめったらお互いの主張をぶつけあうせいで、相手の議論のいい所ではなく、悪いところを見て叩き合うようになった。結果、とにかく相手を低く低く見ようとして、「相手はこんなつまんない主張をしてるだけだ」みたいなところで話を終わらせてしまう。

相手の主張をくみとらずに攻撃しても、お互いに「あいつは分かってねぇ」で終わってしまう。不毛な争いの始まりです。

相手がどういう話をしようとしていて、それが自分とはどう違うのかをきちんと考える。そういう力もまた必要ではないかと思います。そうすることで、相手も「自分の議論」の欠点がみえてくるし、自分もまた、新しい考え方を身につけることができる。良い事だらけです。

そこまで突き詰めるのは無理でも、自分と違う考え方の人がいるということを「認める」というのは、そういう人の話を無視したり、自分より下であると勝手に見下すことではなくて、その自分と違うという違和感なり不快感なりと最後まで付き合うことでしょう。

よく、「他者」ということばでキレイなことが色々いわれるけれど、実は「他者」性を大事にするとか、「他者」を引き受けるっていうのは凄くめんどくさくて大変で、ストレスのたまることだと思います。だって、自分と全然違う相手が目の前にいるというそのことを、認めないといけないのですから。

そんなわけで、すぐ「正解」を探して、自分の考えの範囲で世界を見ようといういまの私たちの、思考には「他者」がいないし、それはブログやツイッターが目の敵にされる以前に、本だってテレビだってそういうものだったはずです。いまの社会は、「他者」不在の思考を簡単に強化することも可能になっている。

それはたぶん、とても怖いことなんですが、その怖さが既に見えにくくなってしまっているような気がします。折木くんじゃないけど、「慎むべし」ととなえ続けるしかないのかなぁ。

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