よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2012/04/26(木) 22:57:37

先週末にひらかれた、月に一回くらいでお邪魔させて頂いているとある研究会でのこと。外部から(私も外部だが)来ていた参加者の一人が文字通りプッツンする一幕があった。

脇道から入るが、このところ研究会参加者の低年齢化が著しく進んでいる。まあ、大学院に進学しようという人文系の学生の数が年々減っており、上の世代は少しずつ就職するなり「行方不明」になるなりで、関東圏で活動する機会が激減――となると読書会にせよ研究会にせよ、参加者が足りない。それは寂しい。だから学部生でも呼ぶか、というのが聞くならく多くの研究室のパターンの一つであり、私がお世話になっているところも、そんな感じで手を広げたらしい。

ただ、自分を棚に上げて言うが、若い参加者というのは往々にして不勉強である。

いや、もちろん中には非常に熱心に勉強し、私などより余程本を読んでいる人もいる。とくに語学が堪能な人にはその傾向が顕著だ。私がもといた研究室でいえば、やたら難しい西洋哲学者の名前を挙げるから、どうせ名前を知っている位だろうと軽い気持ちで少々いじわるな(いじめるという意味ではなく、あまり話題にならない概念などをとりあげて)質問をしてみたら、逆にこちらがやりこめられてタジタジになった、などということもある。藪をつついたら大蛇が出てきて丸飲みにされた感じだが、しかしそういう例は数少ない。大半は、私程度の付け焼き刃の知識でも、「サスガハ先輩デゴザル、我不勉強ヲ悟リタリ、請フ、以後我ヲ教導セムコトヲ」ってな感じで騙されてくれる可愛い後輩たちである。

これは、別に若い世代が本を読んでいないとかそういう問題ではなくて、研究室に入ってすぐの4月に、突然先輩から声をかけられて研究会に行きます、などという人間はおよそ2種類くらいしかいないせいだろう。1種類目は本当に熱心な学生。もう1種類は、研究会=飲み会と勘違いして、ここで行かないと先輩や先生のお覚えがめでたくないかな、などと算盤をはじくことのできる社交的かつ調子の良い学生。そして、前者は5月くらいまでだいたい家に引きこもって好き勝手に本を読むなりしているので、投網に引っかかるのは後者のほうが多いという寸法だ。

そういう参加者はえてして、自己アピールが強い――少なくとも研究会なり読書会なりに出たら何か喋らなければいけない、と考えているものだし、大学受験を突破したという自負も少なからずある。そこで、知識を総動員してあれこれ言う。ただ申し訳ないことに、その発言は的を外していることが多い。もっともそれは当然のことだ。専門分野の学問には固有の対象や方法についてのノウハウがあるものだが、それを全く知らずに喋るのだから、ピントが合うほうがおかしい。いきなりズバっと核心をつくようなことが言えたら、それは立派な化け物である。そんなわけで、多くの先輩も先生も、外すのをわかったうえで喋らせ、拾えるところ、拾えないところを伝えながら自分たちの「やり方」を伝えていく。読書会や研究会には、そういう一種指導的な側面もある。

とはいえ中には、口汚い言葉で遠慮会釈なく新人を叩く人もいる。今回も例に漏れず。特に、ある学部生があきらかに課題テクストを読んできておらず、にもかかわらず他人の意見に異を唱えるという態度をとったことが許せなかったのだろう。ひとりの先輩(私より先輩なのでこう呼ぶことにする)が、私なら泣いてしまいそうな罵詈雑言を浴びせかけてその新人氏を撃沈せしめた。真珠湾も真っ青になる鮮やかなお手並みであったが、こういった「洗礼」もまた指導の一環であるという意見があるのはさておき、とにかくこれによって会の雰囲気はかなり悪くなった。

そんな少しぴりぴりした雰囲気を和らげようと思ったのか、あるいは叩きの雰囲気に乗っかろうとしたのか。意図は定かではないが、その研究会のテーマテクストであったある近代作家の作品を、主催者の1人である教授がボロクソにけなしはじめた。事件が起こったのは、その時である。

教授の「ご高説」が山場を過ぎ、締めにさしかかろうかという頃、ある学生がキレた。円卓の対面、彼から最も遠いところにいた私にも、何かが切れる音がするのが聞こえるくらい派手にプッツンとキレた。起こったことをここで詳細に述べるつもりはないが、要は「そんな批判に何の意味があるんですか」みたいなニュアンスのことを大声で喚き、彼は部屋を退出。一同唖然としてその様子を見守った後も研究会は続いたが、さすがに誰も集中できていないことが(もちろん私も)わかる内容で、結局その気まずい空気を引きずったまま解散とあいなった。(私は飲み会には出なかったので、その後どういうフォローがあったかは知らないが、出て行った彼はまた次回から参加する方向に落ち着いたらしい)。

後で聞いたところによると、彼はまさに教授が批判していた作家の、その作品で卒論を書いた他大の修士学生だったそうな。なるほど、それならばあの怒りっぷりも納得である。日頃「キレたら負け」を標榜している私としては、やはりいかなる事情があるにせよキレることは無かったと思うのだが、今回の件に関して言えば教授もかなり酷かった。責任比率で言えば、教授7に学生3と言ったところだろうか。というのも教授は、まるでその作家や作品に入れ込んでいる人は(実際世間的には評価が高く、だからこそ研究会のテーマにもなったのだが)もののわからないバカだとでも言わんばかりの勢いで――たとえば、「まともに読めば、読む価値の無い本だとわかる」だとか(つまり、評価している人間は「まともに」読めていないと暗に言っている)、あるいは「真っ当な知識があれば馬鹿らしさがいくらでも見つかる」のように(つまり、この本をすらすら読める人間は真っ当な知識を持っていないと言いたいのだろう)――作品を批判していたからだ。少なからず愛着をもって研究対象としている学生であれば、たとえ相手が誰であれ反発したくなるのも当然だろう。

ここで、どちらの主張が正しいかとか、そういう話はさしあたり控えることにする。私にはその能力が無いし、また今回の目的はことの正否について考えるところには無いからだ。考えたいのは、作品に対する批判・批評のありようについてである。

今回のできごとから、2つの「教訓」を見たい。まず1つ目は、本件がアカデミックな場で起こった「事件」であることを差し引いても、作品自体と作品以外のものとを軽々と結びつける態度がよろしくないということである。今回の教授の発言のように、作品への批判を超えて一足飛びに作品を評価している相手までも批判――ないしは非難――するというのは、いささか行きすぎであると言えよう。

そりゃまあ、そういうことをする人の言い分もあろう。くだんの教授にしても悪気があったわけではなく、本気で(だからこそ余計にたちがわるいとも言えるが)その作品を褒める人間は勉強が足りないと思っていたのだろうし、極端な話をすれば、ヒトラーの『我が闘争』を褒めている人にユダヤ人が良い感情を抱かないのは当然といえば当然である。それはわかる。

わかるのだけれど、たとえそうであったとしてもやはり、作品に対する評価とその作品を好む人に対する評価というのは、原則別であるべきではないだろうか。もしかすると、低い評価を付けるに値する理由をすべて承知の上で、それでもやっぱりその作品を好きだと言っているのかもしれない。または、どんな駄作でも良い部分を見つけようという論者の誠実さを見つけることだってできる。そういった諸々の判断をすることなしに、簡単に評価と評価者とを直結するような言説を振りまくというのは、はなはだ思慮と配慮に欠ける。誰かに意図的に喧嘩を売りたいというのなら別だが、そんな威圧的なことがしたいだけなら全体の場でやらずに個別にやってくれ、という話。

しかし、以上の話はあくまで前座。もう1つの「教訓」のほうがより根本的で重要なことに思われる。それは、そもそも罵倒すること自体がよろしくなかったのではないかということである。これに関しては作品をけちょんけちょんに貶した先生の問題だけではなく、冒頭述べた学部生を叱った先輩某氏のことも、根っこが同じところにあると思うのだ。

ある作品を低く評価すること自体は、むろん何の問題もない。それは個人の趣味趣向の表明の場合もあれば、客観的事実に基づいて(たとえば、歴史考察が間違っているとか)そう判断している場合もあるが、どう評価するかは人それぞれだと思う。しかし、それは同時に、その作品を好む(肯定的に評価する)人も同じように存在するということでもある。自分の意見と別の誰かの意見が相反するのは仕方ない。そして、自分の意見の表明によって別の誰かが不快感を覚えるというのも、ある程度は仕方がない(多少は気遣うべきだと思うが)ことだ。

ただ、その上で訊ねたい。公的な場で何かを罵倒することには、いったいどんな生産的な意味があるのだろう?

ある作品を口汚く罵ることで、罵った本人のストレスは解消されるのかもしれない。あるいは、何か権威のある対象をこっぴどく貶してみせることで相対的に自尊心がみたされることもあるのだろう。だが、それでは単なる愚痴と変わらないではないか。日記や独り言や、あるいは飲み屋の隅っこで気心の知れた友人相手にやるならまだしも、ある程度公共性を持った場でそのような「自己アピール」をされても、はっきり言って反応に困る。それとも、政治的な動員のつもりなのだろうか。それは、はっきりと迷惑なだけ。「どんな生産的な意味があるのか」という問いはつまり、それが公共の場で誰かに向けて発信される情報であるということに、どれだけ自覚的かということである。

いやいや、批判的な視点をきちんと提出したうえで罵倒するのだから意味はある、と人は言うかも知れない。でも、それなら罵倒である必要は全く無い。単に、「ここがこう悪いと思う」と意見を言えば良いだけで、ことさらに個人的な負の感情を過剰なまでに上乗せしてすることのプラスの意味が、私にはどうも思いつかない。逆にマイナスの意味ならたくさんあるだろう。たとえば今回出て行った院生のように、聞いている人が不快になる。自分が議論に対して感情的な人間だと思われる。ひいては、自分のあげつらった欠点が、理性的な判断ではなく感情的な好き嫌いによってもたらされた歪んだ解釈だと思われる……等々。無意味な賞賛も同じことだと思うが、賞賛のほうは、聞いて不快な気分になる人が少ないだけまだマシである。

あるいは、次のような言い方のほうが正確だろうか。語り方とは、聞き手を選ぶものだ。どのような語り方をしてみたところで、その語り方が好かれる可能性もあれば、嫌われる可能性もある。そこはもう、言葉を紡ぐ以上はひらきなおるしかない。逆に言えばだからこそ、私たちは語り方によって、ある程度伝えるべき相手を選ぶことができるはずだ。しつこいまでに理屈にこだわった語り方をするなら、同じように理屈にこだわる人には響くだろう。では感情的に激しい怒りを丸出しにして語る人は、その怒りを付け加えて語ることで、果たしてどんな人に聞きとどけて貰いたいと思っているのだろう? 誰かの罵倒を聞いて、やんややんやと喝采する人に集まってきて貰いたいというのなら別段止めはしないけれど。

もちろん、単純に怒るな、罵倒するなと言っているわけではない。そこは勘違いしてほしくない。伝えたい怒りが、本当にどうしようもなく抑えられない、自分の根源に根ざしたものであるならば、その怒りの表明によって自分を本当の意味で理解してくれる人を探すことができることもあろう。それはそれで意味がある。けれど、それ「だけ」しかないのなら、オフィシャルな場でやる意味が無い。とりわけ研究会や読書会というのは、参加者がそれぞれに自分にとって有益な情報を求めて集まる場なのだから、まずは聞く相手にとっての意味を第一に考えるのがスジではないのか。

学生の話にしろ、作品の話にしろ、良くないと思うところがあれば普通にそれを指摘して、あるいはこうすればよかったという改善案なども込みで発言すれば、角も立たないし聞いている全体にとっての利益にもなりやすい。少なくとも私は、そのような配慮であったり生産性を持たせる意識であったりというものが、公共の場での発言には求められると思っている(それこそがある種の「公共性」だと言っても良い)。

結論だけだと、なんだか「TPOをわきまえて喋りましょう」みたいな話になってしまったが、ここまで長々と書いてきた内容の真意がそれだけではないということはおわかり頂ければと思う。どのような場で、どのような語り方を選択するかということは、発言する人のスタンスと――何を、どのような人に伝えたいのかということと――密接に結びついている。公共の場での発言というのはその意味で、一種戦略的であることが当たり前のように求められる。不幸にして不毛な争いというのは、往々にしてそのような戦略を軽視したために生じた誤解によってもたらされることが多い。面倒ごとを避けるためにも、そういう意識は持っておくに越したことはないだろう。

根っこの意識は「俺の話の内容をわかってくれる人だけ聞いてくれれば良い」で勿論良いのだが、その「俺の話の内容をわかってくれる人」が聞きやすい話し方・書き方というのは確実にある。キレ芸や罵倒芸をすれば、そういうのを見て楽しみたいウォッチヤー的性格を持った人や、どんな相手でも包み込む優しさを持った菩薩然とした人を選別することはできるかもしれないが、冷静で発展的な話をしたい人、生産的な取り組みに力を注ぎたい人は離れていってしまう可能性が高い。それはとても勿体ないことのように思うのだ。

身内感覚で結びついていれば良かったこれまでの時代とは違い、インターネットが普及した現在、多くの人が望む望まないにかかわらず公的な場で発言する機会が劇的に増えた。身近なところではAmazonのレビューやネットゲーム。ツイッターやブログは微妙なラインかもしれないが、それにしたって気を付けるに越したことはない。もう少し踏み込んで言えば、私的な発言と公的な発言との距離が、かつてないほど縮まってきている。そんな時代だからこそ、私たちは適切なパッケージングによる意図の伝達を求められるのではないだろうか。語る内容だけでなく、語り方にも配慮しておく必要がある。それは伝達効果(どう受け取られるか)自体もさることながら、こちらの言うことを誰に伝えたいかという積極的な選別の意味合いも含めて。

なお、最後に少々蛇足を。今回の件は、まるで全て事実のように書いてきた。当初はそのつもりだったのだが、さすがにそれでは私の身元がバレていろいろ拙いことになると思い直し、途中で方針を変更し、細かい部分は大幅に変更を加えた。結果、この文章の内容は事実に基づいて換骨奪胎したものになっている。つまり、以上述べてきたことはまったくのフィクションなのであって、「あれ、この前の話じゃね?」と思った人がもしおられたとしたら、それは大いなる誤解である。そもそも、ご自分が通っている研究会の中に、毎日エロゲーとエロ漫画と触手のことしか考えていないような人間がいるだろうかと想像してほしい。たぶんきっと、いないはずである。そもそもそんな真面目な研究会に出ている人が、当ブログを読んでいるなどという可能性は億に1つも無いとは思うのだが、念のためお断りをいれておく。

というわけで、今回はノンフィクション「風」の記事にいたしてみました。まあちょっと色々あって考えを整理したかったというのもあり、自分の感じたモヤモヤを、ここで述べてきたような単なる個人的感想ではなく誰かにとって意味のある発言にできるかという問題意識もあり……。そんな諸々がうまくいったかはわかりませんが、久しぶりに割と真面目なお話をしてみました。

さて、明日はいよいよエロゲー発売! 楽しみですねー。眠れないGWがやってきそうです。それでは、本日はこの辺で。また明日、お会いしましょう。

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コメント

愛無き罵倒に意味はあるかって? 我々の業界ではご褒美ですブヒ!
相変わらずですいません、たまには真面目になりますニョロ。

私がネガティヴな評価をする時は、大概「つまらない」でなく「残念」と言います。
批評行為に多少なり意味を見出そうする人間には、二次的でない創作自体がすごい、
そういう思いがあって、こき下ろす気はなれないからです。

あと年をとって、自分の立ち位置が蓼食う少数派なのを理解したのもあります。
選民思想で他者を攻撃したら、反撃で死にかねんですわ。

たった一人で愛無き罵倒をできる人はある意味尊敬しますが、
実際は自分以外にもアンチがいるのを確認して、それから動いているような気が。
本当に独創的な自説なぞ、平凡な意見に埋もれるのが関の山や。

OYOYO氏のコラムを読んで、触手以外にも通じるものを感じて書き込みました。
また勝手な思い込みでしょうが、無望菜志氏の『触愛』を買ってたら僕と握手!
やっぱり触手は愛だよ、兄貴。

imotaさん江

罵倒に愛情など不要とは、さすがドMのimotaさんやで……!

というわけでお久しぶりです。コメントありがとうございました。

私も「残念」という言い方をよく使います!  (・∇・)人(・∇・)ナカーマ! というのは、もちろん「私にとって」残念であるという強い主観性の表明であると同時に、「こうすれば私にとっては残念ではなかった」という言い方をしやすく、話を続けやすいからでしょうか。「つまらない」でも、「じゃあつまるにはどうすればいいか」と言えそうですが、バッサリ切ってしまう感がその後の話に続けにくい気がするんですよね……。

自分の立ち位置が少数派だというのはなんだか凄く共感を覚える話……。立場が違いすぎるせいか、言葉が足りないせいか、頑張って説明しても肝心な部分は伝わった様子が無くてモヤモヤするので、自説強弁して「バカジャネーノ」と言われるのが一番怖いというか避けたいことだったりします。

『触愛』は買いましたよ!! 触手で握手! 『二次元ドリームマガジン』連載時から、「閂の巫女」注目していましたし、久々に正統派の「二次元オチ」で楽しめました。ぱふぇ先生の『堕天使たちの輪舞曲』も。そのうちレビュー書こうかと思っていたのですが、ご本人も後書きに書いておられたとおり、こっちは触手がなくてガッカリでした! ガッカリでした!!

目下『VBF』で触手成分を大量補給したので、しばらく普通の作品にいこうかと思っていますが、うん、触手は愛ですね。全くもって同意致します。

それでは、季節の変わり目ですのでどうぞ体調など崩されませんよう。特にパンツおろしっぱなしで風邪などひいては大変ですので、くれぐれもご注意ください。

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