2012/05/13(日) 00:03:31
「このゲームにはHシーンは要らなかった」そんな風な言葉を、時々耳にします。んで、これだけ聞いたのでは、褒めてるんだか貶してるんだかわかりませんね。もちろん、発言者の意図がどこにあるかというのは前後の文脈を考えれば明確なのですが、「そもそも」論として、エロゲーにとってHシーンの持つ意味とは何ぞや、と考えると、これがなかなか一筋縄ではいかない問題のように思われてくるのです。いわゆる、エロゲーにとってエロは必要か不要か問題なども、根っこは同じところにあるでしょう。今回は、そんなお話。ちょっとヤヤコシイことになると思いますが、なるべく整理して書いていきたいと思うので、どうぞお付き合いください。
さしあたり、語句の定義が必要だと思うので、妥当かどうかはともかく今回の記事の中で使う語の意味を限定しておきます。まず「Hシーン」。これは、性的な意味で18禁なシーン、としておきます。次に「エロゲー」。これは、Hシーンの含まれる18禁のゲームということにします。わかりにくかったら、性的な意味で18禁シールの貼ってあるゲームです。暴力シーンによる18禁はエロゲーじゃないし、『たっち、しよっ!』みたいに「エロすぎ自重!」な内容が含まれていても、直接的な性描写が無ければエロゲーとは呼ばないことにします。おおざっぱで申し訳ないですが、そんなところで。ンな当たり前のこといちいち言わなくても良いよと言われそうですが、要は、単純に形式的な問題としてエロゲーかそうでないかをひとまずは定義づける、ということです。自主規制がどうのとか、実質的なエロさがどうとか、そういう微妙な問題があるのは承知のうえで、論点から外れるのでカットしました。
Hシーンの有無が単純にエロゲーと呼ぶかギャルゲーと呼ぶかといった、形式的な問題であるということなら、実は今回の話は既に片づいているというか、別にいらないダロと言われそう。オセロかリバーシか、みたいなしょうもないネーミングの問題ということでカタがつきますからね……。けれど、「エロゲー」という呼び方に、ないしはHシーンの有無ということにこだわるエロゲーマーの心性というのは、とてもじゃないけどそういう形式的なことにのみこだわっているようには見えません。そこには、何がしかの実体があるのではないか。今回の記事の関心は、その実体が何であるかというところにあります。
ところで、エロゲーにとってのHシーンの意味というのを考えるうえで、意外と見過ごされがちなのは、それぞれの作品にとってHシーンが果たしている役割、という部分です。手掛かりとしては結構重要だと思うので、色々考えて、作品の構造を基準として以下のように分類してみました。
(1)Hシーンが主な目的となっている作品
例:作品の目的が凌辱やらHやら子作りのゲーム(内在的な目的)
(2)Hシーンだけが目的ではないけれど、Hシーンが不可欠な目的となっている作品
例:脱衣麻雀とか
(3)Hシーンが不可欠な表現手段として用いられている作品
例:多くの恋愛ADV
(4)Hシーンが(1)〜(3)のどれでもない作品(Hシーンに主だった役割が無い作品)
例:Kanon
一応説明していきましょう。まず(1)について。ユーザーにとってHシーンが主な目的の場合と、作中のキャラにとってHすることが主な目的の場合、どちらもが考えられます。が、ここでは前者はあえて外しました。理由は、「エロゲー」を純粋にゲームの形式として考えた以上(ユーザーにとってエロいかエロくないかは考えない以上)、Hシーンの意味についてもユーザーの視点を入れるとダブルスタンダードになる。少なくとも混乱が生じるためです。まあでも、凌辱系抜きゲーだと両者がオーバーラップすることが多いですね。痴漢ゲーとか。これはわかりやすくHシーンが作品にとって意味を持つので、Hシーン不要のエロゲーとはとても言えません。Hシーンを抜いたら、作品自体が成り立たなくて、二重の意味で抜けないわけです。ナンノコッチャ。
次に(2)。これも、Hシーン必須。脱衣麻雀とかを典型としてあげましたが、要するにHシーンは何かのオマケ、ご褒美としてあって、それ無しでもゲームとしては成立するけれど、商品としてのウリがHシーンのほうにあるので外せない、というパターン。
面倒なのが(3)。恋愛関係の達成であるとか、気持ちが通じあったことの表現としてHシーンがある、という場合。多くのADVがこれにあたると考えます。昔の「1キャラ1H」の作品であればわかりやすいでしょうか。あれはつまり、そのキャラとのゴールがHシーンに仮託されていたわけです。恋愛関係が入り乱れる『WHITE ALBUM』を例に取れば、ヒロイン由綺は緒方英二に告白されるしキスはするけれど、Hをするのは冬弥だけ。その意味でHシーンには、キスや愛の告白よりも重い、恋愛の達成としての意味が付与されていると言えるでしょう。『WA』ほどわかりやすくはなくても、大抵の恋愛ADVであれば、Hシーンには作品にとって何らかの特別な意味が付されているはずです。
ただ、問題なのはそれが「不可欠」かどうか、という部分。これは(4)との絡みになるのですが、相対的にHシーンの意味が薄い作品、というのはあります。Hシーンの重みがキスや告白、あるいは手を繋ぐことと同じくらいの意味しかなければ、「それ別にHしなくてもいいんじゃね?」ということになる。あるいは、Hシーンが友情の表現だ、と言われれば、「えぇ? それHと噛み合ってないんじゃ……」という風に、表現手段として適切かどうか、ということも問われるでしょう。例を挙げれば、一部地域で非常に悪名高い『下級生2』のヒロイン、柴門たまき。彼女がフルボッコにされたのは、単純に処女じゃなかったためということは勿論あるのかもしれませんが、恐らく遊び人っぽいクズ男と平気でHしちゃうせいで、彼女が主人公とHしても、何も特別な意味が無かった(ように見えた)。にもかかわらず、作品としてはたまきと仲良くなってHすることが目標であるかのように作られていたので、たまきと主人公との恋愛関係に説得力が持たせられなかった。そんな風にも考えられるのではないかと思います。少なくとも、「たまきんは中古!」といっていきり立っている人の話を聞いたり、書いておられるレビューなどをきちんと読むと、本気でそれしか言っていない人は2割くらいで、半分くらいは「別に非処女であることにそこまでこだわりはないはずだけど、何かコイツはイヤ」みたいなコメントを残しておられる方だった気がします。そのもどかしい言い切れ無さは、彼女と主人公との間の特別な繋がりを見出せなかったところから来ているのではないか、と。あとの3割は、ネタですね(笑)。
ただ、ここまで言っておいて何ですが、本当にHシーンにどんな意味があるのかとか、表現手段としてHシーンでなければならないのか、ということの判断はきわめて困難です。先ほども述べたように「ユーザー視点」で考えるとどうしても主観が入ってしまい、揉める。だから、「Hシーンの意味」というのはたとえばこんな風に解釈できる、という具体例として上の話は考えて貰って、ここではやはり純粋にゲームの形式に依存した話に戻してみましょう。すると、要は作品にHシーンが組み込まれてさえいれば、(3)の条件を満たすことになります。だから、ほとんどの恋愛ADVがこれにあたる、というわけ。しかし、中にはごく希に、Hシーンが不要であると作品が言っているものもあります。そこで、(4)の区分が出てくる。
(4)は具体例として『Kanon』を挙げました。これは、おわかりのかたもおられるかと思いますが、選択肢でHシーンを回避できるからです。そして、Hしてもしなくても、物語として落ち着く先は変化しません。つまり、作品自体の構造が、Hシーンの有無に関係なく成立しているわけです。もちろん、『Kanon』のHシーンに意味を見いだすユーザーはいるでしょう。けれど、個々のユーザーがどういう意味を見いだすかとは無関係に、作品はHシーン無しでも成立することになっているので、形式的に『Kanon』は(4)に分類することにします。これはエロが無ければ良いというわけではありません。たとえば『Pia キャロットへようこそ!! 2』のヒロイン、日ノ森あずさ。彼女は、Hシーンを経ると攻略できない(BADエンド行き)という珍しいヒロインでした。けれどこの場合、Hシーンは「やってはいけない行為」として作品から不可欠な意味が与えられているわけです。選んでも選ばなくてもどっちでも良い、というのと違い、選んではいけない行為としてHシーンがあるというのは、Hシーンを選ばなければ作品を終えられないということの裏返しです。もし『Kanon』的な作品を他に考えるなら、脱衣麻雀で勝った後のHシーンを任意でスキップできる(あるいはオフにできる)作品、というのが近いでしょうか。作品の中にHシーンがありながら、作品がHシーンを必要としていないからです。
さて、以上のように分類することで明らかになるのは、作品側にそくして形式的に判断した場合、Hシーンが不要のエロゲーというのは非常に少ない、ということです。しかし、今回の記事の初発の問題意識は、エロゲーマーのこだわりが形式的なことにのみこだわっているようには到底見えない、というところにあったわけですから、これで話を終えたら詐欺もいいところ。したがって問題は、ユーザーの主観にそくしてこれらの分類を眺めた場合、ここから何が浮かんでくるか、ということです。
恐らく多くの人にとって、エロが作品の目的である(1)と(2)の場合は、エロゲーとHシーンとの関係が問題にならないのだと思います。脱衣麻雀から脱衣とったらただの麻雀なわけで、それを無しで良いとはさすがに誰も言わないでしょう。あるいは、『孕神』からHをなくせというのは、作品に死ねといっているようなもので、論外と言わざるをえません。ユーザーにとってのHシーンの意味が問題となるのは、(3)や(4)のように、Hシーンが作品の目的ではない場合のはずです。
(3)の話のところで解釈の具体例を書き、また最後に主観が入り込む話をしたとおり、表現手段としてHシーンが用いられているのであれば、その表現の妥当性が問題となります。Hシーンは本当にある内容を適切に表現できているのか。また、その表現方法は、Hシーンでなければならないのか。別のやり方でも良いのではないのか――。そのあたりの問題が端的にあらわれるのが、コンシューマ移植問題でしょう。
エロゲーがコンシューマに移植される場合、多くはHシーンが消去されるか(たとえばPS3版『WA』はベッドシーンがまるごと切り抜かれていました)、別のシーンが追加されて置き換えられます。ちょっと後者である『恋楯』を具体例にしてこの問題を考えてみましょう。
作品ベースで言えば、『恋する乙女と守護の楯 Portable』のようにタイトルも変化するし、音声の追加もある。出演ヒロインだって変わるわけですから、エロゲー版の『恋楯』と『恋楯P』とは別の作品だ――そのように考えることも可能です(ブランド側が何と言おうが)。純粋な形式の話に戻せば、『恋楯』はゲーム的にHシーンが要求されるエロゲーですし、『恋楯P』はただのギャルゲー。
しかし、そこに質的な差はあるのか。ユーザーからすれば、イベントもほとんど同じ、追加キャラが入っただけであれば同じ作品として見るのは自然なこと。であれば、『恋楯』と『恋楯P』とで描かれている内容はほとんど変化していないということになります。恐らくはここが、混乱のポイントです。
『恋楯』と『恋楯P』との差異が、単なる追加要素だけであって、実質的には同じであるというなら、それは除外されたHシーンには意味がなかった、あるいはHシーンは何か別の表現によって代替可能なものに過ぎなかったということを意味します。だとすればオリジナルの『恋楯』は、『Kanon』同様、システム的にHシーンの有無を選べるのと、事実上同じです。いや、『Kanon』ならHシーンを選んだ場合と選んでいない場合とで作品のニュアンスが変わる、と言い張ることができるぶん、実質的にHシーンがあってもなくても同じだと言う『恋楯』のほうが、はるかにラディカルにHシーンの意味を否定していると言えるかも知れません。
話を『恋楯』から一般的なADVに戻します。Hシーンが作品にとっての「手段」である多くの恋愛ADVの場合、ユーザーが個別にその意味を考える余地が増え、またコンシューマ移植のように作品自体がHシーンの意味を失わせているように見える(実際にどうかはさておき)場合も多くなったため、Hシーンが要るの要らないのという、形式論を飛び越えた内容論が取り沙汰されることになったのでしょう。
背景には、エロゲーはコンシューマに劣っている(Hシーンはゲーム単体で勝負できないからつけるものだ)という選民思想ないしは劣等感みたいなものもあるのかもしれません。エロなんか無くたって世間に通用する。好きな作品についてそんな風な褒め方をしたい人がいるのは理解できるつもりです。
しかし、Hシーン無しで良い、というのを褒め言葉として使う人が、撒き餌的なサービスシーンに否定的なのはわかるとして、これに対してHシーンが必須であると主張する人も同じレベルでHシーンを考えているとは限りません。彼らにとってHシーンは「おまけ」ではない。まして、単にエロゲーなんだからエロがないとダメ、というしょうもない形式論にこだわっているとか、また自分の趣味としてエロが無いとやる気にならん、と性欲丸出しの話しかしていないとか、そんな主張ばかりだと考えるのは早計でしょう。(それはそれで意味のある主張だとは思いますが、個人の趣味すぎて議論にはしようがないのでここではとりあげません)
そりゃあまあ、そういう要素が無いとは言いません。けれど、もし「Hシーンの意味の有無」をユーザー視点で考えるという、同じ俎上に問題を載せるのであれば、エロゲーにHシーンが必要だと主張する人というのは、Hシーンでしか表現できないような内容を見いだしている、ということになる。そういう人もいるはずです。
いま述べたような立場に立つなら、エロ無しで良い、というのは最もすぐれた表現を放棄するということを意味します。なので、作品としてはなはだ論外ということになる。またコンシューマ移植というのは(全く違う内容だと言うならともかく、同じ内容にプラスアルファを付け加えたのだとすれば)劣化エロゲーでしかない。これに対する反論として、「Hシーン無しでも同レベルで成り立つのだ」と言われたとしても、それははじめの作品(エロゲー)のほうが、必要不可欠ではない表現をしていたということになるわけで、密度が薄れた、本気度の劣る作品ということ。最高の表現として、どうしてもHシーンが必要だったわけではない。それなら、最初からHシーン無しと同じことではないか――そんな風に考えられるのかもしれません。
私自身の立場を言えば、『WHITE ALBUM』の話で少し触れたように、Hシーンこそが恋愛の完成なり成就なりの、最も適切かつ有効な表現として機能しているのだと考えています。その意味で、Hシーンはエロゲーにおいて本質的な表現となり得ている。もうちょっと突っ込んだ話をすれば、恋愛という頭でするもの(この時点で異論反論が出そうですが)――少なくとも「物語」というかたちできりとられた世界の抽象が、完全に観念の世界に飛んでしまわず、どこかで私たちの現実と接点を持つ地点として、肉体の繋がり(Hシーン)というのが必要とされると思うので、それがきちんとしたかたちで描写されうるエロゲーが好き、ということになります。
私がエロゲーしかやらない、というのが半ばネタで、半ば本気なのは、個々のエロゲーにとってのHシーンの意味というより、物語という表現において、肉体の繋がりというのが何か大きな意味を持ち得ると、大仰に言うならばそんなことを考えているからかもしれません。もちろん、単にHシーンが大好き(性的な意味で)というのもありますケドね! でも、「実用」とは切り離された部分で、それでもHシーンの必要性を感じることも実感として事実あるので、こういう回りくどいことを言わざるを得ないのです。この辺の話は長くなるし本題からは外れるので、また気が向いたらやるかもしれませんが、今回は控えておきます。
というわけで、本日はエロゲーにとってのエロの話から、最後はちょっとHシーンそのものについての話へとトバしてみました。そしてひっそりと考えを終えることにします。分類や分析がうまくいったかどうかについては、お読み頂いた方の判断に委ねようと思います。ただ断っておくと、本記事はこれで完成、というつもりも自分が精度の高いことを述べたつもりも余り無くて、今後考えていく課題のための第一稿的に書いています。なので、全てにお答えできるかはわかりませんが、議論のできそうなところはどんどん指摘いただきたいし、何か面白い発見のヒントにでもなれば、望外の喜びです。
と、いったところで本日はおしまい。それではまた。




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