よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2012/08/29(水) 07:58:05

学校とかではよく、「論理的に〜」というのが決めぜりふのように使われます。論理的な文章を書きましょう、論理的に考えましょう、論理的に言いましょう……。でも、「じゃあ論理的ってなんですか」と訊いたら、どんな答えが返ってくるか。これは意外に統一されてない気がします。ちなみに私は高校時代、担任の先生にその質問をぶつけたことがあるのですが、「しっかり考えることだ」というわかったようなわからないような返事を頂きました。

ひとくちに「論理」と言っても、さまざまな種類があります。論理についての学である論理学を見れば多少見通しが良くなるかな? そんなわけで、いちいち辞書はめんどくさいからWEBの頼れる先生、Wikipediaさんの「論理学」を参照してみましょう。すると、なにやら大量に名前が出てくる出てくる。

弁証法的論理
形式論理
数理論理学
二値論理
多値論理
様相論理
演繹論理
帰納論理
命題論理
述語論理
量子論理
虚偽論
非形式論理学
因明 - 仏教論理学
直観論理
…………。

うん。意味がわからん

とにかく、どのような立場の「論理」を中心に据えるかということによって、「論理的」の意味合いも多少変わってくるということは理解しました。ということは、あまり厳密に考えず、それらに共通する最大公約数的なところを拾いにいくのが良さそうです。

ためしに「論理的推論」とか「論理的帰結」についても、Wikipedia先生に聞いてみましょう。ぶっちゃけちんぷんかんぷんなことも多いですが、どうやら「規則」と「前提条件」と「結論」の関係をさまざまな形で結ぶのが「論理的」というのは間違いないようです。

ということは「論理的」というのは、「ものごとの繋がりを明確にして論証を行い、妥当性の高い結論を導く」くらいの意味になるでしょうか。ここで詰まっていたら話にならないので、とりあえずそんな感じにしたいと思います。なんでやねん! 違うやろ! と言うひとは、ここで中断しちゃってください(そういう厳密な人はそもそもここを見ていないか、既に最初の二行くらいで読むのを止めているかとは思いますが)。

ちょっと具体的に考えてみましょうか。たとえば、「今日は晴れだから、明日も晴れだろう」。これはどうでしょう。論理的でしょうか?

さすがに無いわ、という感じですよね。確かに《だから》という接続詞によって、繋がりは明確です。しかし、論証がザル。いくらなんでもこれは「論理的」ではない。では、次はどうでしょう。

「今日で三日連続晴れが続いている。そして、三日とも気温は30度をこえていた。三日間晴れが続いて、気温が30度以上だった日の翌日は、過去50年の統計ではずっと晴れであった。だから、明日は晴れだ。」
(※この内容はフィクションです。実際のデータに基づいた話ではありません

おお、一気にそれっぽくなりました。根拠も明確、繋がりも明示されていて、結論は十分納得できるものです。経験則に基づいた「論理的」な文章だ。そのように思えてくる。

ところが、これに反対する人がいたとしましょう。曰く、こうです。

「過去50年っていうけどさ、50年の中で《三日間晴れが続いて、三日連続30度こえた日》って3回しか無いみたいだけど?」

さて、どうでしょう。3回もあれば十分でしょうか。それとも、3回程度では偶然の一致で片がつくと考えるところでしょうか。ぶっちゃけ3回あてるだけなら、ワールドカップの試合結果を適中させたタコの予知能力を信じるのと同じレベルになりますから、私なら「偶然かなぁ」と思うところです。

『古色迷宮輪舞曲』では、サキが行人に自分の「予知能力」を信じさせるために、10回の試行を演じてみせましたが、あの場面で「天文学的な低確率であっても、10回じゃ信用できないね!」と言い張ったとしたら、行人は論理的でしょうか。それとも非論理的でしょうか。

このように考えるとおわかりでしょう。たとえある人にとってはじゅうぶん「論理的」であったとしても、別の人にとっては「論理」性が足りない、と思われる場合はあります。その辺の区別というのは、実は案外ハッキリしていないかもしれない。

もちろん、厳密な記号論理やら何やらの話となれば別です。けれど、私達が日常生活の中で使う論理や、あるいはそもそも曖昧な「言語」にのせた論理の場合、私達には常に「自分が考えている「論理」とは違う「論理」の持ち主がいるかもしれない」という可能性を考慮しなければならないのではないかと思います。全てが「A=B、B=C、ならばA=C」のような形で片づくわけではないのですから。

ここで言いたかった論理というのは、決してただ厳密さを誰かに押しつけたり、ものごとの正しい/間違いを判断するための根拠としてではなく、相手に説明を伝えることで相互理解を助けるものとしての論理、ということでした。自分が(そして相手も)何を基準にどういうプロセスを経てその結論に至ったかをきちんと説明するスキルとしての「論理性」というのが、おそらく私達にとって最も身近で、そして最も必要とされるスキルではないかと思うのです。

というわけで、久々になんかエロゲーじゃない話でした。頭で考えてるだけで実際には全然論理的じゃない私がこういう話をするのもいい笑い話ですが、まあ私くらいいい加減だからこんなこと臆面もなく言えるのかもしれません。

というわけで、今日はおしまいです。それでは、また明日。

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