よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2012/01/16(月) 01:38:34

muren

タイトル:『無限煉姦 〜恥辱にまみれし不死姫の輪舞〜』(Liquid/2011年11月25日)
原画:黒石りんご/シナリオ:和泉万夜
公式:http://liquid.nexton-net.jp/index2.htm
批評空間投稿:済→リンク
参考:えび様のブログ「BLUEBLUEBLUE
定価:8800円
評価:A(A〜E)

凌辱臭漂うタイトル、ばりばりの凌辱ブランドというハードルのせいで、ほとんど周りで話す機会の無かった作品。売れ行きも、恐らくそんなに良くないんじゃないかと勝手に思っています。

ただ、内容はかなり良質であり、同時に世に氾濫する「ループもの」の世界に対する強烈なカウンターパンチを放っている、ロックな作品だと思います。別にループものに反対するのが偉いわけではなく、ループする世界が私たち人間にとって決定的に重要なものを喪失させているのではないかということを提示し、その「重要なもの」を取り出そうとした作品であると思うのです。

先日、本作をレビューされていたえびさんとツイッターで思わず話す機会がありました。実はその時ブログの方の「所感」があることに気づかず妙な突っかかり方をしてしまったのですが(えび様、その節は大変失礼いたしました……。話し終えた後、「所感」のコーナーを発見し、拝読し、赤面するほど恥ずかしかったです)、色々勘違いしていたのに丁寧にお返事頂き、私自身の考えも大変深まりました。特にえびさんは「リトル」に注目されており、リトルが〈少女〉との対置ではなくゾワボとの関係も含めて考えられるべきであるという指摘は大変納得できるものでした。

ただ、同時に似たようなことを考えていたのではないかという部分も多くあり、それを手掛かりにして私の言いたかったことを再度、考えたいという思いが抑えられなくなりました。

批評空間様にレビューを投稿した後、コミケ用の某冊子で本作を再度とりあげたのですが(誰も読んでないと思うのでほぼ自己満足です)、その時も時間が無くて扱いきれなかったんですよね。なのでその辺を掘り下げるためのメモと下敷きになります。ちなみにそちらは、「続きを読む」以降に掲載しました。興味があるかたはご覧ください。「お前だったのかよ!」と気づかれた方は、こっそりニヤニヤしてください。

以降は、少しめんどくさい話になります。

(1) 大塚英志は、「リセット」が前提されるゲームやゲーム的小説(ラノベ)では人の「死」が描けないと言った。
(2) それに対して東浩紀が、ゲームにはゲームのリアルな感情(ゲーム的リアリズム)がちゃんと描かれており、大塚のような旧い読み方では読めないだけだと言った。新しい「環境分析的読解」で物語の構造を読むことが求められている。
(3) ゲーム的リアリズムの代表格が「ループもの」であり、そこでは死の重要性が、絶対性としてではなく相対性として描かれているというのが東の主張。
(4) でも、本当に「ループもの」とは人の死を描きうるものなの? という疑問を提出して、「やっぱり無理だよね、だって死ってこういうことでしょ。そこで求められる救いってこうでしょ」と言い切ったのが『無限煉姦』。

というような見取り図ですよ、と紹介して、続けます。4000文字くらいです。

−−−−−−−−−
本作をループする物語との関連で捉えるにあたり、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』に触れることにしたい。正直言えば批評空間のレビュー、同人誌でのレビューともに私は東を出すことを避けてきた。まず、作品と直接関係が無い。次に、サブカル系批評クラスタを除き、この手の本を引用することはかえって興味を薄れさせる可能性があった。結局、作品自体は『ゲーム的リアリズム』を読んでいなくても楽しめるので、引き合いにだす必然性が無かったわけだ。

ただ、今回は自分のブログという私的な場であり、また備忘録的に私自身の考えを綴っておこうと思ったため、敢えて書いてみた。東の議論はきわめて鮮やかで、中途半端に一部を切り取って展開しても、他の所で回り込まれている可能性はきわめて高い。まあ、だからこそ迂闊に引用するのが嫌だったというのもあるのだが、今回の内容に関しては、こちらもできるだけ注意深く範囲を限定し、正確な読解と論述を心がけたつもり。とはいえ力不足のうえに、内容をかみくだいた都合上、ぶれた部分もあるとは思う。そのあたりは教授いただければ幸いである。

前置きが長くなった。本題に入ろう。東の「ゲーム的リアリズム」は、大塚英志の言うまんが・アニメ的リアリズムに対して提出される概念である。東のまとめによれば、大塚の主張は次のようになる。

まんがやアニメでは「傷つく身体」や「死にゆく身体」を描くことができるが、ゲームでは「本質的に、物語を「リセット可能なものとして」描くメディア」(p.120)であるために、「死」や「傷」を本質的に描くことができない。だからゲームや、「ゲームのような小説」であるライトノベルはまんが・アニメの表現に追いつくことはできない。

実際に大塚がどういっているかはもう少し慎重な検討が必要かとも思うが、ともあれ東は以上のように大塚の議論をまとめ、それに疑問を唱える。本当に「ゲーム的リアリズム」では「死」を描けないのか。ゲーム的な物語は、まんが・アニメ的な物語に劣るのだろうか、と。

そこで東は、「環境分析的読解」を提案する。曰く、大塚のような主張は、これまで日本の小説の読みに使われてきた「自然主義的読解」のある種当然の帰結である。「自然主義的読解」というのは、いわゆる文学として作品世界と現実世界を対応させ、「「新しい現実」の写生」(p.80)として読み解く態度だ。《ずれるのを覚悟で思い切ってまとめてみると、よく、創作について世界や感情の「リアリティ」が問題とされるが、何らかの形で物語世界内部の「リアリティ」を問題にする読解が「自然主義的読解」》

つまり、「物語と現実のあいだに対応関係を見る」(p.182)のが「自然主義的読解」であり、それに従えば、ラノベやゲームの内容は稚拙、テーマは似たり寄ったり、文体は現実の複雑さに対して余りにも単純と、非難されるべきもののように映る。

だがそれは、単に「自然主義的読解」がラノベやゲームを読み解けない方法だからにすぎない、というのが東の主張だ。東によれば、実はラノベやギャルゲーには、「自然主義的読解」では見出すことのできない「文体そのものの単純さとはまったく別の水準で、巧妙な詐術が織りこまれている」(p.244)。それが分からなければ、「キャラクター小説や美少女ゲームが、表面的には明らかに非現実的な物語しか語っていないにもかかわらず、なぜいま若い読者の実存的な投射の場所になってしまっているのか、その理由も理解することができない」(p.246)。

ご都合主義的な物語の中ではなく、それを支える物語の構造を読む。物語と現実との間に「環境」を挟み込み、その分析によって、作者も作品のテーマも関係ない(物語の内容ではない)「構造」を追い掛ける。それが、東の言う「環境分析的読解」という方法である。

ではその構造とは何か。ひとことで言えば「メタ物語性」だ。ゲームやラノベには、物語の中に、物語を外から眺める視線が織りこまれており、それは物語に埋没していく「自然主義的読解」では拾い上げることができない。「ループもの」は、この「メタ物語性」との関連によって主題的に取り上げられている(ようやく繋がった)。ちなみに東は、桜庭洋の小説『All You Need Is Kill』に始まり、ゲームでは『CROSS†CHANNEL』、『ONE』、『未来にキスを』、『EVER17』、『雫』、『最果てのイマ』、『ひぐらしの鳴く頃に』など実に多彩な作品をとりあげている。

さて、多くの「ループもの」の物語では、主人公(この言葉を使ってしまうとうるさがたに突っ込まれることは想像に難くないが、言い回しの正確さに配慮するより内容を平らげることを重視したので、なにとぞご容赦いただきたい)が記憶や能力を引き継ぐ。また、他のキャラクターを置き去りに自分だけがループの記憶を持つため、作中の誰とも、根本的には同じ時間を共有できない孤独を抱えている。これは、「自然主義的読解」に適したタイムトラベルSFと明らかに異なる「矛盾」だが、東によればそれこそが「メタ物語性」の端的なあらわれである。

ここから東は、ゲームなり小説なりのキャラクターが、単なる作中のキャラクターではなく「プレイヤーと比較されている」(p.166)のだとする。要するに、作品世界内に、読者と作品の関係が描かれている、ということなのだが、そのことがやや難解に、しかし正確に言いとられている。

ループする物語における主人公の生は、「ポストモダン化の進行のなか、選択肢の多さに圧倒され、特定の価値を選ぶことがますます難しくなっている、私たち自身の生の条件の隠喩」(p.188)である。私たちの前には常に、それこそ選びきれないほどに無数の選択肢が用意されており、何か決まった価値に容易にコミットすることができない。何かを選ぶことは何かを切り捨てることであり、そうしなければ何も手に入らない、というわけだ。

ところで問題は、「ゲーム的リアリズム」で「死」が描けるかどうか、であった。東によれば「ループもの」は「その相対性を活かして、死の重要性を描いている」(p.179)。大塚のように、一回性を実感するために一回的な物語が必要だと考えるのではなく、むしろその一回性を体験するために複数の物語を用意し、それだけの選択肢があったのに結局最後は一つを与えるしかないという無力感(一回限りの生ではなかったかもしれないという反実仮想によって、一回性を認識する)を味わうのがラノベやゲームの「新しい可能性」だというのである。

しかし、本当にそうだろうか。東は死を相対化するというが、それは死が本来持つ、相対化できない絶対的な重みを決定的に損なっていることにはならないだろうか(たとえば仏教は常にその問題に自覚的であり続けたわけだが)。現実問題として、私たちにとって自分の死は一度きりであり、それは決して相対化することも、逃げ出すこともできないもののはずだ。

また、ループもので描かれているのは本当に死そのものなのだろうか。たとえば、ループする世界が問題となるのは、そこに受け入れがたい事実が(たとえば恋人の非業の死や、世界の滅亡などの)あるからだ。そこから一つの答えを選び取り、ループすることを止めたとしても、それは「受け入れがたさ」を相対化したに過ぎないのではないか。比喩的に言うならば、ループものが相対化しているのは死そのものではなく、非業の死や不本意な死の「非業」さや「不本意」さのほうではないか。

つまり東がただしく指摘するように、ループする物語というのはまさに選択と決断という意思の問題を描いているのである。その点から見れば、意思を失い、決断も選択も不可能になる死は描くことができない。あるいは描いたとしたら、それは端的な無にしかならない。ループする構造の後に世界が続く限り、ループ前の世界の一回性は常に相対化されざるをえないのである。

以上が、「ゲーム的リアリズム」を下敷きとしたループ物語に関する概説と、私自身の抱えていた問題意識である。誤解のないように断っておくが、私自身は東の言う「環境分析的読解」自体に反対しているわけではない。むしろ、東が言うとおり、「自然主義的読解」新たな視点を付け加えるもの(p.182)で、作品の読解や批評・分析において有効な手段となるだろう。私が問題としたいのは、ループ物語が「死」を描きうるかどうか、というその点のみだ。

上にも述べた通り、ループする物語はむしろ、意思の力の輝かしさをうたいあげているように思う。死を描いていないからといって質が劣るとかそういう問題ではないのだが、死と向き合うことを原理的に避けてしまう「構造」を持っていると言ったほうが、正鵠を射ているのではないだろうか。

ともあれ、こうした「ループもの」の構造を浮き彫りにしながら、そこで決定的に損なわれている死の(あるいは人の生の)一回性を取り出したのが『無限煉姦』という作品であったと私には思われた。死の絶対性、逃れがたさというのはさまざまなゲームにおいて、数々の手法でとりあげられてきたが、本作は多くのゲーマーが無自覚に受容している、ループ構造の残酷な面を暴き、「本当にそれでいいの?」と問いかけてくる(作家がそう意図したかどうかはともかく、「構造」がそうなっている)、挑発的な作品ではないだろうか。
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もちろん、「自然主義的」に読んだ場合のメッセージ性も優れています。そのあたりは各レビューで散々書いたような気がするので、いまは止め。えび様の考察は、私とは違う言葉で(ぶっちゃけもっと分かりやすく、しかも『ゲーム的リアリズム』のような外部装置の助けなしに)、同様の問題について踏み込んでおられると思います(勘違いだったらごめんなさい)。興味もたれた方は、一読をお薦めします。

長くなったのでひとまずこれで筆を置きましょう。お付き合いありがとうございました。

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以下は、余所に寄稿したレビューです。

● 作品概要
作品のレビュー兼論考なので、論に従って内容の紹介はするつもりだが、殆どの人が未プレイであると前提して、ひとまず物語の導入箇所だけでもアウトラインを整理しておこう。舞台は、魔物や異形の怪物が跋扈する世界。唯一絶対の存在である「王」が統治するため、「王の世界」と呼ぶ。その世界で最下層の奴隷として迫害されていた〈少女〉が本作の主人公である。〈少女〉は記憶を失い、名前も無かった。

しかしある時、〈少女〉は王の不思議な力と共鳴し、不老不死の存在となる。〈少女〉は美しい舞を見せた褒美を受ける一方、盗みに関与した罰も受けねばならなかった。結果、彼女は「何者にも縛られない自由」を王によって保障される。これによって〈少女〉は奴隷という身分から解放された。だが同時に、嫉妬と怒りに狂った他の住民から、より凄惨で苛烈な凌辱が〈少女〉の身に降りかかることも意味していた。不死であるが故に可能となる、想像を絶する凌辱に耐えかねた〈少女〉は、「王を殺せば不死でなくなる」という異端者ゾワボの言葉を信じ、王の殺害を試みるが、失敗してしまう。

永遠の責め苦を味わうことを恐れ、〈少女〉は王の世界から逃げ出した。「次元の裂け目」に飛び込んだ彼女が辿り着いた先は、まったく別の世界(普通の人間社会の中世ヨーロッパ)であった。平穏な生活を送る〈少女〉の前に、異世界からの追っ手があらわれる。そこから、何世紀にも及ぶ〈少女〉の生活が始まるのだった。

● 死の恐怖と生きる理由 :序章
本作の世界は謎に包まれている。王とは何者か、この世界は現実なのか、説明は一切なされない。視点人物の〈少女〉すら、「奴隷」と表記される。ただひとつ、この世界において「死」こそが最も恐れられる事態だということははっきりとしている。

世界の住人たちは極端に「死」を恐れ、逃れるために、王に気に入られようとする。どんなに幸福な人間も、どれほど不幸な人間も、ただ生きることを何よりも望んでいる。〈少女〉もまた、この世の地獄とも言うべき凌辱を味わいながら、それでも死ぬのだけは嫌だと考えている。

タイトルからも分かる通り、本作は凌辱色の濃い作品だ。それはメーカーの特色ではあるのだが、ストーリーテリングのうえでも欠かせない要素となっている。克明に描かれる〈少女〉が凌辱される様子は、普通ならば少なくとも嫌悪を覚える類のものだろう。本作はこの描写を巧みに導入として利用した。宙に浮いた解りにくい世界の中、少女の苦痛だけははっきりと伝わるリアルだ。凌辱のリアリティを提示することでユーザーに次のような疑問を持たせるのだ。すなわち、「なぜ、少女はそれでも生きたいのだろう?」と。

この後、〈少女〉は不死者となるが、その途端に不死であることを苦痛に感じるようになる。この世界の誰もが願う不死を棄てようとして、しかし棄てることを許されず、〈少女〉は長い旅を始める。そこからの旅は〈少女〉にとって逃避行であると同時に、生きる意味を探す旅ともなる。単に死ぬのが嫌だから、というネガティブな理由で生きていた〈少女〉は、死ねなくなったことで、生に積極的な意味づけを求めざるを得なくなった。つまりここに、〈少女〉にとって生きることが、自覚的な課題となる契機が生まれたのである。


● 生の意味 :第二章〜第四章
さて、中世ヨーロッパに飛んだ〈少女〉は、そこでギュスターヴという吸血鬼に拾われ、〈ネージュ〉という名前を貰う。ギュスターヴは並はずれた長寿の種で、口減らしなどで棄てられた近村の女性を集めて眷属とし、同じような長寿の力を与えていた。〈少女〉はここではじめて、人の温もりを知り、心穏やかな生活を送る。

しかし、異界からの追っ手が現れたことで、〈少女〉の平穏は終わりを告げる。〈少女〉はギュスターヴのもとを離れようとするが、彼は引き留め、ただ死なない為に生きるのではなく「生き抜け」と彼女に伝える。結果、「ここが自分の居場所」と思い定めた〈少女〉は戦うことを決意する。しかし、追っ手の撃退には成功したものの、ギュスターヴや他の多くの仲間は命を落とし、〈少女〉は親友のマリーと共に、更なる逃避行へと乗り出したのだった。

ギュスターヴのもとにいた第二章から、アメリカ大陸で開拓時代を生きる第三章、明治の日本を訪れる第四章までは、基本的に〈少女〉とマリーの物語が描かれる。〈少女〉の追っ手たちは次第に数を減らし、あるいは修練を積んだ〈少女〉の敵ではなくなり、〈少女〉は必死に逃げ回る生活から、落ち着いた生活を取り戻す。〈少女〉は、ギュスターヴやマリーとの交流を通じて、誰かのための「かけがえのない存在」となって生きるということに、生きる意味を見出して行く。

ところが、ギュスターヴの眷属であったため並はずれた寿命を保つマリーも同様に、次第に衰え、弱っていく。マリーの側で〈少女〉は、再び生きる意味と向き合うことになる。

二章から四章は常に、死によって物語が閉じられる。ギュスターヴの死、ネイティヴアメリカンの村の滅亡、そしてマリーの死である。その裏では常に、生の意味が問われている。ギュスターヴもマリーも、あるいはネイティヴアメリカンたちも、彼らは一様に「思い通りに生きた」と言い、満足して死んで行く。

それは、いわば「死」によって完成される生である。ある存在の「かけがえのなさ」は、死の瞬間に最も強く意識される。もう二度と出会うことのないというその瞬間にこそ、死にゆく者の生は遺される者にとっての意味を確定させ、同時に死にゆく者は、遺された者に看取られることでその生に意味がもたらされる。生の「かけがえのない」意味は、死によって縁取られている。死という絶対の固有性こそが、生の意味を担保している。マリーの死に触れ、〈少女〉は強く生きることを誓う。

だが〈少女〉は、死ぬことができない。常に「遺される者」であり、看取る側である。それならば、〈少女〉自身にとって、生は意味のあるものとはなりえないのだろうか。


● ループする時間 :第五章
四章が終わり、「王の世界」から〈少女〉を連れ出した謎の異端者・ゾワボが再び現れる。そこで彼は、驚くべき事実を語る。といっても勘の良い人ならある程度予想はついただろうか。まず、世界は〈少女〉が記憶を失う前、次元のはざまに飲み込まれたことで異常をきたし、ループするようになったということ。王とは、永遠の生の果てに全てに絶望し、心を失った〈少女〉自身の成れの果てであること。そして、ゾワボは時間の歪みを修整しようという全宇宙の記録装置(アカシック・レコード)が作りだした修正機能であるということなどである。更に、歪みを矯正するためには〈少女〉が本来落ちるはずだった次元の歪みに落ちて、しかも自ら命を絶つ必要がある、ということが明らかにされる。その時、時間はもとのように流れ始めるのだ、と。

ここでは、SF的な世界構造の解明は全くなされない。むしろ意図的に放置される。これは単なる手抜きと読まず、もうすこし好意的に解釈したい。すなわち、ここで肝心なのはなぜ〈少女〉が次元の歪みに落ちたのかであるとか、などということではなく、〈少女〉にとって本当にどうしようもない、逃れられない運命の存在が、ここであらわれたことにあるのである。〈少女〉には最早、逃げ場も無い。

どういうことか。もしも〈少女〉が死を選ばなければ、〈少女〉は決して救われず、同じ時間が何度も繰り返される。一方、もしも〈少女〉が死を選んだ場合、〈少女〉の存在はこの世界の全てから忘れ去られる。生き続けても死んでも、〈少女〉は無である。完全な虚無が、〈少女〉にとっての現実である。それは、何度ループしても解決不可能な、不可避の運命と言ってしまっても良い。王の存在にはじまる、〈少女〉を覆う運命は、必然と呼んでも偶然と呼んでも構わないが、人間にとって根本的にどうにもならない事態の象徴だ。人間の前には常に、自分の力ではどうにもならないことがある。たとえば、人が生まれる場所を選ぶことができず、また死から逃れられないように。

そしてまた、〈少女〉の運命は人間の究極的な孤独の象徴でもある。しばらく後に明かされることだが、〈少女〉に大きな影響を与えた人びとはみな、ゾワボと同様、「修正」の意思が作りだした本来は存在しないはずの人びとであった。つまり時間の「修正」が成功したならば「王の世界」は消え、ギュスターヴやマリーをはじめ、〈少女〉と関係のあった人間たちもまた「無かったこと」になるのである。

生き続ける限り、彼女は誰とも交わることがない。さりとて死んだところで、彼女自身は歪みの世界と共に、存在そのものが無かったことになる。全てを知った〈少女〉は、夢を持って生きて欲しいと願うゾワボに対し、そんなものは無意味だと一蹴する。彼女は運命に直面して、一旦は諦めてしまうのだ。それはそうだろう。自らの力では本当にどうにもならない運命を前にしたとき、人はどうやって生きることに希望を持つことができるのか。

多くの作品が扱うことを避けるか、目を背けるかしてきた問題がここにはある。努力や工夫や意思の力ではどうにもならないことに出会ったとき、人はどうすれば良いのか。そこから目を背けていたならば、人はいざというとき、絶望するしかない。では、この問題に〈少女〉は、どのような答えを用見付けるのだろうか。

長い時間をかけて、〈少女〉は自分の運命を受け容れて行く。傍らにはゾワボが常に居るが、彼と〈少女〉は、ついに男女の関係にならない。それは、一面では〈少女〉が決して誰とも交わらない存在であることを自覚したためであるが、ゾワボにとってこの時点ではまだ、〈少女〉は代替可能な存在だからでもある。これまで無限に繰り返される時間の円環の中で、無数の〈少女〉たちの死を見てきたゾワボにとっては、〈いま・ここ〉にいる〈少女〉もまた、その中の一人にすぎない。

〈少女〉は最後、現代に入り、「過去の自分」が生まれ育っていく様子を見守る。もちろんそれは〈少女〉自身では無いのかもしれない。けれど、彼女は過去の自分に「自分の思うままに……信じた道を」、後悔しない道を歩み、精一杯「生き抜く」ように伝える。そしてまた自らも、記録の修正があれば全てが無駄になると分かりつつ、全力で自分の人生を綴ったエッセイを書き上げる。運命の日の三ヶ月前に書き上げたそれを、彼女はひっそりとネットにアップロードする。「意味のないことかもしれない。無駄にしかならないことかもしれない」。遺せるものなど、何一つ無い。それでも、「やれるだけのことをやりたい。誰かに何かを伝えておきたい。たとえ、それがいずれは消えるものだったとしても」。それが、〈少女〉の願いであり、決断だった。

その祈りは、結局届かない。〈少女〉が役目を終えたことで、全てを知るゾワボもまた、存在を末梢される。時間は元に戻ったのかどうか、それはユーザーにも知らされることはなく、〈少女〉と彼女の創った世界の滅びとともに、本作は幕を閉じる。

果たして少女は救われたのだろうか。私は、救われたのではないかと思う。それが、ゾワボ視点で描かれる最後のエピソードから読みとった私の印象だ。では、いかにして彼女は救われたのか。


● 〈少女〉と救済
死が生の意味を縁取るならば、死が無でしかない〈少女〉の生は、畢竟無意味なものでしかない。けれど、果たして生の意味は、本当に死によって縁取られるものなのだろうか。それでも自分は〈いま・ここ〉に在るではないか――。〈少女〉はそう叫び、生の意味を三度問い直す。死によって後の時代に自分の生が無かったことになるのだとしても、それでも自分は存在している。それならば生の意味は、〈いま・ここ〉において見出されるものであって良い。それこそが、〈少女〉にとっての生だ。

では、〈少女〉の生きる世界とは何か。それは、歪みが修整されれば消えてしまう世界である。つまり、〈少女〉と関わったあらゆる存在が彼女の世界の住人であり、〈少女〉の存在によって生まれた無限の関係の連なりこそが、彼女の世界の総体なのである。こうして〈少女〉は、自らの生と世界とを、無限の連関として捉えるようになる。その世界の中で、自分がかけがえのない存在であれば良い。それが、〈少女〉が見出した答えであった。

超越的な運命は、〈少女〉の生に意味を与えることはないけれど、実は奪うこともない。生の意味は、ただ自身が存在する現場においてあらわれるのみなのだ。

私は、〈少女〉は運命を受け容れたのだと先に述べた。それは、諦めたのとは違う。彼女はただ、自分がそういうものであるということを認めたのだ。死んだことすらも無かったことになる。けれど、たとえそうだとしても、自分が〈いま・ここ〉に存在しているということもまた、どうしようもない事実としてある。だから彼女は、「正常に戻る世界の為に」役目を果たそうとする考えを改めて、ただ「ゾワボの為に」、つまり、彼女自身の世界に存在する誰かの為に、自分の生を生き抜こうとするのである。

人は、運命を乗りこえることはできない。なぜなら、乗りこえることができないもののことを、運命と呼ぶからだ。しかし、運命を引き受けることはできる。

〈少女〉は最後に、かけがえのない誰かを手に入れることができた。彼女にとって絶望でありつづけた運命は、無限の「連関」へと姿を変え、彼女に救いをもたらした。人は、死ぬために生きるのではない。死に、本当は意味など存在しない。生の目的は、生の現場においてのみ見出されうるものである。自分が生きる、ただいまのこの世界のために、あるいはその世界に生きる誰かのために生き、かけがえのない存在となれたとき、人は自分の人生を「生き抜いた」と言えるのだ。たとえ誰が覚えていなくても、生の意味はそこで完結するのである。

〈少女〉が気づいたのは、人が生きると言うことは、自分が自分の世界の王となることなのだということだ。それは形あるものではない。どう生き、どう死ぬかを自分自身で決めること。「生き抜く」という言葉の真意もそこにある。最後の場面で、〈少女〉は自分と同じ貌をした「王」を刺した。運命を支配していた幻影の王を殺し、自らの世界の王となった。追い求めた幻想の自分を殺し、確かな絆で繋がった自分の世界への信頼を手に入れたのである。そして、〈少女〉が生き抜いた様子が描かれることは、彼女の死を悼むユーザーにとってもまた、救いの可能性がもたらされたということを意味すると言えるだろう。


● ループする世界からの脱出
本作は、ループ構造をもった世界観を提出するにもかかわらず、実際のループは描かれない。唯一例外的に、クリア後ゾワボの視点でループする時間が描かれるが、ゾワボはループ主体ではなく観察者であって、ループ主体の〈少女〉は常に一回的な存在として描かれている。

このことは、本作の非常に興味深い特徴だ。ADVゲームでは、ループ構造を非常に描きやすく、ループの蓄積によって、なんらかの問題が解決するという手法がひろく流通している。古くは『Yu-no』、『CROSS†CHANNEL』や『スマガ』などが有名なところだろうか。ところが本作は、ループ構造が示されるだけで、事実上ループは一度も無い。〈少女〉の失敗は即座にBADENDとなりその歴史は閉じる(やりなおしにはならない)。そしてEDは事実上一つであり、〈少女〉はループ時間の中の最後の一人である(これ以降、別の〈少女〉が生まれることはない)。

既存のループ作品群と対置した場合、本作は二つの特徴を提出することに成功していると思われる。一つは、達成不可能な(あるいは解決不可能な)問題を提出するということ。もう一つは、〈少女〉の一回性を描くということである。

一つ目から確認しよう。究極的に〈少女〉は、完全に運命の支配下にある。運命からは逃れ得ず、アカシック・レコードに定めた通りの「修正」を行うために〈少女〉はその生を閉じる。つまり、ループによって実質は何も変わらなかった、あるいは〈少女〉の世界は無かったことにされた。しかし、たとえそうだとしても、この〈少女〉はきっと幸せだっただろう。そう思わせるところが、本作の特色である。

人間のもつ本来的な不可能性は、ループによってすら解決できないような、絶対的なものである。あるいは、ループのような「反則」じみた仕掛けによっても解決できないような不可能性が、人間には確実に存在している。それを引き受けてなお、生に意味を見出すことができるのか。本作はそのことを問うている。

二つ目に話を移す。ループ世界をゲームで体験していると、それぞれのループ世界の住人たちは、解決のための手段として扱われているのではないか、という疑問がわく。それは、まさにゾワボが〈少女〉に告白する、自らの罪の内容でもある。終幕の後に明かされるゾワボの辿った道は、ループを「観察」する者が必然的に陥る、ループしている世界を手段化だ。

彼は、世界が「修正」されるように、多くの〈少女〉を見殺しにしていく。その時々で一回きりの〈少女〉と出会っているとゾワボは言うが、後から振り返るとやはり代替可能な、目的のための手段でしかない。ゾワボの心理がどうであれ、結果的にそのように扱われてしまっている。ループ世界を観察するということはそうすることを避けられないということであり、決してループする主体の、あるいはループ世界で一度きりの生を送っている人びとの視点には立てないということである。したがってゾワボが感じている苦悩は、同時にループゲームをプレイするユーザーにも当てはまる。

本作の視点人物は〈少女〉だ。しかし、二回目のプレイをすれば分かることだが、本当にユーザーの視点に近いのはゾワボである。ユーザーはゾワボと同じく、〈少女〉の運命を知り、外から眺める。そしてその限りにおいて、ユーザーは決して〈少女〉の視点と交わることができない。ゾワボが最後に〈少女〉と共にあることができたのは、ゾワボもまた〈少女〉をかけがえのない一人の存在として――つまり手段としてではなく――認めることができたからだ。言い換えれば、観察者であることを辞めたからだ。「手を差しのべないこと」を選び、〈少女〉をひとりの他者として認め、その後で世界は「修正」された。

この順番は重要だ。世界が「修正」されたから、ゾワボは〈少女〉と出会えたのではない。その前に見送った段階で、二人は結ばれていた。〈少女〉が最後にゾワボへの愛を打ち明ける場面は、そこにゾワボが不在であるけれど、確かに彼に届いていたのである。

キャラクターの一回性を巡るこの問題は、恐らく、シナリオライター和泉万夜氏が強く意識している問題であるように思われる。氏の近作に、ループ構造を直接的に採用した『euphoria』がある(和泉氏のみがライターではないのでどこまで意図したものかは不明だが)が、そこでは本作と対照的にキャラが扱われていた。

作中「凛音」(輪廻の意味だろう)という少女が登場し、「私があなたの与える行為に、どんな意味を見出すのかは、私の自由」だと主人公に告げる場面がある。作品はこうしたラディカルな相対主義を否定し、閉鎖された謎の世界の「真実」を見出す方向へと進んでいくが、ループ主体である主人公を除き、凛音たち多くのキャラはついに救われない。むしろ、擬似的なループの中で、そこに現れる人びとは手段として扱われる。それこそが、見出される真実なのだ。

その関わりから考えれば、本作は、いわばループもの作品が構造的にもつ残酷な「抹殺」の側面をきちんと捉え、受け止めたうえで、それを巧みに取り除くことに成功していると言えるだろう。

とはいえもちろんこのことは、単純にループ作品の限界を示すものではない。ループ作品でも、そうした問題を自覚的に扱い、解決する方法は見つかるだろう。しかし本作はまず、この問題を自覚的に扱い得たというところに、ひとつのすごみがあるように思う。微妙に評判の悪いタイトルも、「無限焔姦」(円環)ではなく「煉姦」(連関)であり、繰り返される時間の側ではなく、生の現場に広がる無限の関係を捉えようと言う気の利いたネーミングではないだろうか。

さまざまなことを述べてきた気がするが、ともあれ本作は、私がこれまで漠然とループする物語に感じていた不満や疑問を、一気に形にしてくれたような印象を受けた(誤読の可能性は否定しない)。実を言えば私自身は本作のように「何も残らなくても良い」とまで開き直ることはできない。それでもこのような形での生の肯定は、ひとつの救いとしてありえるように思われるのだ。

凌辱描写も多い為、肌に合うかが心配されるかもしれないが、幸いなことに長大な体験版が公式HPからダウンロードできる。また、既にプレイされて、解釈のおかしなところがあるぞという方は、Twitterなりでご指摘くだされば幸いである。

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