よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2012/11/12(月) 23:48:31

今は昔のことですが、私は夏休みの読書感想文というのが苦手でした。もちろん、書くこと自体はそんなに嫌いではありません。適当にでっちあげるくらいはできた。けど、何で読みたくもない本を無理矢理よまされなければならないのかと反発したくなる。そしてまた、実につまらなくても「つまらなかった」と書いてはいけない(基本的に提灯感想を書かねばならない)という空気が、どうもイヤだった。

読書感想文という制度から、日本の国語教育のクソさを批判する……という流れを見ていたかたはごめんなさい。今回はそういう話ではありません。私たちの「感想文」(課題として出される「読書感想文」ではなく)というものについて、すこし考えてみたいと思って記事をかきました。

本題に入る前に少しご紹介したいのが、何年か前に見かけた「本読みHP」さんというサイト。ここに、「1行読むだけで読書感想文を書くために」というとても面白いコラムがあります。

 「読書感想文、3つの鉄則」として、ぜひとも覚えておいてもらいたい。
 (鉄則1)あらすじを書かない
 (鉄則2)登場人物の気持ちを考えない
 (鉄則3)正しいテーマを探さない


という整理は、学校教育で求められる「読書感想文」というものの真髄をついた見事なものであると思います。私も小中学生のころにこれを読んでいれば、きっと楽しく書けたんだろうな。そう考えるとなんだか悔しくもある。

ところで、これは「読書感想文」の書き方です。読書感想文というのは、ただしくその本を読んだ自分の気持ちを表現するものですからこれで良い。テーマも、登場人物の気持ちも、あらすじだって関係なく、ただ本と自分の関係から出てきた感想を書けば問題ありません。「本を読んでいたらおでんの匂いがしたのでおでんをたべたくなった」は、匂いというきっかけが読書から離れているのでダメですが、「作中おでんが出てきたので食べたくなった」なら問題ないというわけです。だからこそ、「読書感想文」なんて「1行読むだけで」書けちゃう。

しかし、これが「批評」ならどうでしょうか。「感想」なら。あるいは、「論文」なら……? おそらく、「読書感想文」とは異なった内容が要求されるものもあるでしょう。あるいはもっと強く、次のように言う人がいるかもしれません。本文とは関係なくただ自分の考えを書いただけのものを、「批評」や「論文」とは呼ばないのだ、と。

ここで、「批評」とは何か、あるいは「論文」とは何かという話に踏み込むのは避けます。なにせ世の中には印象批評からテマティズム、その他さまざまな「批評」があるし、「論文」にしても学問分野に応じてそれぞれ書き方が違う。細かい話をしていたら本が一冊では足りないかもしれません。

しかし、細かな違いに目をつぶり、「読書感想文」と感想でも批評でも論文でも良いですが、そういうものとの違いは何か、という話ならばどうでしょうか。好き勝手に何でも書くだけの「論文」や「批評」、「感想」があってはいけないのか、と。こういう話なら、ちょっとだけできる気がします。



▼不毛な「なんでもアリ」
実は日本の文学研究の歴史をひもとくと、かつて上のような状況が訪れたことがありました。細かい話は抜きにしますが要するに、海外(フランス)の文学研究の最先端を取り入れたと自任する人々が、「積極的に誤読」したり、「作品からなんでも好き勝手なことを読み、好きに書く」というのをやってのけた。この流れは一気に時代の流行になったものの、その勢いはみるみる下降線を辿り、いまでは一部の超大御所が残っているくらいにまで縮小してしまいました。

なぜあっという間に廃れたか。それは、余りにも不毛だったからです。誰もが好き勝手なことを言い、それに対して誰も何も言えない。何か言えば、「俺はそう思ったんだ」で終わり。これでは誰も、人の論を読む気にはなりません。「自分が言いたいから言う」だけの、言いっぱなしの論があちこちに乱立し、誰もその内容を真面目に読まなければ、真面目に読んで何か言っても気に入らないと却下される。自分の考えを書いても空しいだけです。

このような「研究」が流行ったことの背景には、少し触れましたが、当時の海外の文学研究の動向がありました。とりわけ、ロラン=バルトの文学理論が大きな影響を与えたというのが私の(そして恐らくは、ある程度一般的な)見方です。

バルトといえば『物語の構造分析』という著作における「作者の死」というフレーズがやたら有名ですが、要するにこのオッサンは小説をはじめとする物語について、「テーマ」やら「作者の考え」やらを考えるのはバカらしい、ということを述べた。そればかりか、もっと大胆に、物語というのは誰もが自由に読んで、それについて何を言っても構わないのだ、という理論を書いたのです。

−−−−−
一つのテキストを解釈するということは、それに一つの意味(多かれ少なかれ根拠のある、多かれ少なかれ大胆な)を与えることではなく、反対に、それがいかなる複数から成り立っているかを評価することである。 (ロラン=バルト『S/Z』)
−−−−−

バルトはこのように述べ、作品(テクスト)の「ただしい読み」を破棄し、どんな読み方でも許されるという前提に立つことを提案します。それぞれのテクストは、「際限なく繰り返される、この差異の理論そのもの」であり、一つのテクストは「文学のすべてのテキストと等価」である、と。(※1つの作品と別の作品に価値の違いは無い、くらいの意味でしょうか)

この理論に従えば、読書において「系統的に脱線」することは少しも悪いことではなく、むしろテクストの可能性を拡げる善行ということになりますから、それこそ「積極的な誤読」を推奨しているようにも見えてしまいます。

しかし、よく考えてみるとこれは恐るべきことです。

というのも、何を読んでも好き勝手言って良いなら、そしてどこにも「ただしい」読みが無いのだとすれば、私たちがその作品について語る意味が無くなってしまうからです。

いや、ある。その「作品について書かれたもの」を読んで、新しい作品読解の可能性が開けるかもしれないし、その書かれたもの自体が面白いということだってあるじゃないか。そんな風に言われるかも知れません。けれど、あらゆる読解が許されるのであれば、原理的には読むものは何でも良い(たとえば赤ちゃんの描いたひらがな一文字でも)はずだし、その書かれたものも好き勝手にしか読まれ得ないということになります。バルト自身はそのような態度を否定してはいますが、バルトの理屈だけを徹底して突き詰めれば、そんな風にしかなりません。

つまり、こういう理論の辿り着く先というのは読むものも書くものも本来的には何の意味も無いという虚無主義であって、日本の文学研究でこの路線が一気に廃れたのもおそらくはこの辺りに原因があるというのは既に述べた通りです。

ただ断っておきたいのは、バルト自身の作品分析の手つきはこういう理論と全く逆で、むしろある価値を定めて作品をきちんと読み取ろうとしているように見えます。バルトが自分の実践とだいぶ乖離した理論を打ち上げたのはたぶん、ニュークリティシズムや古典主義のような当時のフランス文学研究の潮流があって、それを相対化しようという狙いがあったのでしょう。その辺を共有しようがない日本に思想だけが流れ込んできたために生じたある意味どうしようもない混乱だったのではないかと私は思うのですが、それはさておき。

ともあれ、もしある作品を読んで、何かを言いたいと思ったなら、「なんでもアリ」路線だけは採らない方が良いのではないかと思われます。



▼「読書感想文」は「なんでもアリ」で良い
ここで、「あれ、ちょっとまて。お前さっきは「読書感想文」で好き勝手書いて良いと言ってなかったか」とツッコミが入りそうですね。はい、言いました。そして「読書感想文」はそれで良いと私は思っています。

なぜか。

それは、「読書感想文」というのは自ら進んで書くものではなくて、宿題として課されて強制的に書かされるものだからです。

これは実に単純な理屈で、自分が何かを伝えたいと思って書くものと、ただ表現したいだけのものや無理矢理書かされるものというのは性質がまるで違います。私は「感想」(または「感想文」)というのは前者で、「読書感想文」というのは後者であると、この記事の中では分けて考えています。

ただ単に表現したいというだけなら、勝手に一人でやればいい。それを公開する必要は全くありません。無理に書かされるなら、怒られない程度に体裁を整え、あとはとりあえず字数を埋めれば問題ないでしょう。しかし、誰かに何かを伝えたいという思いから、公開を前提に書く文章というのがそれではまずい。なぜなら、「なんでもアリ」を選択した時点で、自分の書いたものもまたその「なんでもアリ」の中に巻き込まれ、意味を失ってしまうから。

バルトが言うようにあらゆるテクストが「文学のすべてのテキストと等価」なのだとすれば、自分の書いたものも他人の書いたものも、赤ちゃんの書いた落書きも、同じ価値しかもたず、そこに本質的な区別なんて見出せないことになります。たとえば天気予報記事を読んだ「感想」が、ドストエフスキーの作品の感想であっても文句が言えない。自分が何かを伝えたかったはずなのに、原理的には決して何も伝わらないというどうしようもない矛盾を抱えることになってしまうでしょう。

そんなわけで、「なんでもアリ」なのは強制で書かされる「読書感想文」の特権だと言えるのです。ついでに言えば、仕事で書かされる文章とかもこの類に入るかもしれませんね。



▼私たちが読み、書いていくために
話が長くなってきたのでそろそろ畳みます。

これまでの話を踏まえると、私たちがある作品に関する解釈を他人に向けて書くとき、無理矢理にでも何か価値なり基準なりを置き、作品を意味づけることを目指さしたほうが良いというのはお判り頂けるかと思います。

踏み込んで言えば、私たちは自分が一体どんな基準で作品を読み、どんな基準について書こうとしているかを自覚しておく必要があるということです。読みの基準は必ずしも一つとは限らないし、書く場合はそれらを全て書ききることができるとも限りません。たとえば『天空の城ラピュタ』を冒険ものとして見るか恋愛ものとして見るかSFとして見るかは人それぞれだし、またSFとして見たからといって恋愛ものとしての視点を書いてはいけないということにもならないはずです。

加えて以上のように考えることは、他の人が書いている文章について、自分とは違う視点がそこにあるのではないかと思って読む手助けになるでしょう。

そしてそういう文章の「パッケージ」の先に、内容が意味を持ってくるのではないかと思うのですが、その辺の話はまた、機会があれば展開してみようかと思います。

我ながら雑なことを書いてしまいましたが、今はこれが精一杯……というわけで本日はこれにて。また明日、お会いしましょう。

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コメント

victoryさん江

コメントありがとうございます。

ただ、どうお返しして良いのか……。「記事の中では」と仰っているのは、私が引用したサイト「本読みHP」さんのことでしょうか。だとすればその通りで、私も「本読みHP」さんは明確に区別をして書いておられると思います。

私は、冒頭に宣言したとおり、「前フリ」として引用しましたので。

それとも、私が「この記事の中では分けて考えています」と書いたことに対する揶揄なのでしょうか。だとすれば、どの点からそう思われたか、お聞かせ頂けると幸いです。

以上、とりいそぎ。

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