よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2012/12/16(日) 02:59:21

先日、このようなツイートがタイムラインにリツイートされてきました。






私もこれをリツイートしたのですが、諸手をあげて賛成というわけではなかった。逆に、私はこの考えには乗れないところもあるな、と。今回はちょっと鳥山氏のこの発言をたたき台にして、再び「リアリティ」について考えてみたいと思います。

さて、まず鳥山氏のツイートは番号が振ってあることからも明らかなように、一部抜粋です。もう少し大きな話の中でくだんの発言がなされた。というわけでこれらがどういう流れで出てきたかを確認しておかねばなりません。拝見したところ、合計6つのツイートで構成されていました。全文はこうです。

−−−−−
(1)『ガールズ&パンツァー』に否定的なフォロワーさんが散見されるので軽く説明を。まず、戦車と少女というフェチの組み合わせに嫌悪感を抱いている場合は、ストーリーがどんなに面白かろうが、否定的な感情しか湧かないので視聴を止める以外の解消方法はありません。これは異常な事ではなく……
元ツイート

(2)……創作物を見る際に誰にでも起こりうることです。たとえば、私はバンド+少女というフェチの組み合わせがどうしても理解できなかったために、『けいおん!』は十数分で視聴を止めています。そうしないと、今度は自己正当化を始めることが分かっていたからです。完璧な作品がない以上……
元ツイート

(3)……どんな作品でも批判は可能です。前述した『けいおん!』の場合は、バンドを組んだ女の子が全員美人なのは「リアリティがない」とか「画面に女性しか登場しないのはリアリティがない」とか、いくらでもケチのつけようがあるわけですが、そこが嫌悪感の本質ではありません。
元ツイート)

(4)……『ガールズ&パンツァー』の場合も、同様に戦車を初心者の少女が自在に操っているのは「リアリティがない」とか、砲弾が命中しているのに死傷者が出ないのは「リアリティがない」とか、いくらでもケチはつけられますが、そこが嫌悪感の本質かどうかをもう一度再考することをお奨めします。
元ツイート

(5)創作物を批判する際に「必要性がない」とか「リアリティがない」はマジックワードで、自己の嫌悪感を正当化する際に頻繁に使われますが、その一方で批判した作品以上に「リアリティがない」作品を称揚するケースが多く、ほぼ例外なくこの手の批判者はダブルスタンダードに陥ります。
元ツイート

(6)また、その点を指摘されると、自己弁護のために詭弁を繰り返す悪循環が発生します。そうなる前に、自分の「好き・嫌い」の感情を信じましょう。嫌いな創作物を無理に見る必要は全くありませんし、嫌いである理由をひねり出す必要もありません。「嫌いだから見ない」で十分です。
元ツイート

−−−−−

どうやら、『ガールズ&パンツァー』の作中描写を巡っての話だったようです。

この後、氏は他の方とのやりとりの中で「フェチ」と「リアリティ」を結びつけ、「「リアリティがない」という批判は「自分の強迫観念と一致しない」と同義だと思います」と述べておられるので、氏の言わんとすることはおそらく、次のようにまとめることができます。

作品を批判する際によく持ち出される「リアリティ」や「必要性」(今回の場合は、『ガールズ&パンツァー』という具体的作品への批判)というのは、あくまで主観的な嫌悪感を自己正当化するための客観的装いであって、本質的には意味のない「マジックワード」(※1)にすぎない。作品というのはそもそもやろうと思えばどんな批判も可能であるから、批判自体は成り立つだろう。しかし、それは「嫌悪感の本質」では無い場合がほとんどである。そして、そうした「自己正当化」は矛盾をうむ。なぜなら、もし「リアリティ」の無さが「嫌悪感の本質」だとしたら、この世に完璧な作品は存在しえない以上、その人は全ての作品を嫌悪するか、ダブルスタンダードにならざるを得ないからだ。よって、嫌悪感を中途半端に理論武装するより、素直に「嫌いだから見ない」で良い。

※1)…ここでの「マジックワード」は、「バズワード」のような意味で用いられており、Wikipediaで紹介されている「人を動かす魔法のことば」というニュアンスとは少し違うと思われます。

氏の論旨は明快で、私としては同意できるところが非常に多い。まず、「リアリティ」という語が便利に使われすぎている(マジックワード・バズワードである)というのは同意です。この辺りは私自身も、大昔の記事でもちょっと触れたところ。そして拙記事をお読み頂ければ、大略同じような認識をしているにもかかわらず、その時の私の結論が鳥山氏のそれと全く逆になっていることがお解りいただけるかと思います。

物語が創作である以上――というより、ことばで書かれたものである以上、生の現実とは確実に違うモノです。だから、その違いを「リアリティ」ということばで表現するなら、どんな物語に対しても「リアリティが無い」と言えてしまう。すると、何か明確な定義がなければ「リアリティ」という語は何を表現しているか解らない語になる。これはまあ、よくわかります。

現実との整合性だといえばそうですが、その整合性を判断する客観的な基準はないだろ、というのがここでの問題でしょう。それは結局、個人の恣意に委ねられるしかない。たとえば『キャプテン翼』は明らかに物理法則を無視したシーンがあり、それは「リアリティが無い」と言えます。しかし、勝負の興奮や少年時代の心理描写はとても「リアリティがある」と言う人はいるかもしれません。そして、「リアリティが無いからだめ」というとき、その人は無自覚に、「物理法則のリアリティのほうが優先」という選択をしている。この辺に恣意性が垣間見えますね。

そして鳥山氏が述べておられるもうひとつのこと。それは、「自己正当化」でした。自分がその作品を嫌いであるというそのことが、おそらくは先ほど書いた「リアリティ」の恣意性の部分と結びつきやすいのでしょう。自分が気に入らない・嫌いだという直観はその時、「リアリティ」という語の解釈の中に隠蔽され、都合の良い批判ができあがるというわけです。

この分析はまことにごもっともで、ほぼ全面的に同意したいところです。しかし今回問題にしたいのは、その後の部分。すなわち氏が、「嫌いである理由をひねり出す必要もありません。「嫌いだから見ない」で十分です」と述べておられる部分です。

氏の言わんとすることを雑駁……を通りこして超訳風に要約すれば、「嫌いなら黙ってろ」(文字通り黙るという意味ではなく、その感情を無理に別の「嘘」に置きかえるなという意味)でしょう。しかし、本当にそれで良いのか? と私は思うのです。

「リアリティ」という語が「マジックワード」であるというのと同様、「嫌悪」もまた、きわめて多様なニュアンスを含んでいます。たとえば気色悪い虫に感じる嫌悪感と、犯罪者に感じる嫌悪感と、嫌いな食べ物に感じるそれとは、全て同じでしょうか。私の場合、どれも微妙に異なります。

物語が現実の反映ではないというのを伏線にしたつもりなのですが、ことばというのはそもそも現実の切り取りであって、現実そのものではないのですから、私たちの感情そのものを表現することはできません。ならばそれは、「リアリティ」と名指そうが「嫌悪」と名指そうが、大した違いは無いといえば無いわけです。むしろ肝心なのは、そう名指すことによって人が、いったいどんな感情を表現しようとしていたかという内実のほうではないのでしょうか。

鳥山氏はおそらく、「なんのために」そう名指すのかということに注目されたので、「黙れ」という結論になるのだと思います。しかし、私に言わせればそれは思考停止、あるいはもっと酷い思考放棄を招いてしまうのではなかろうかと。ことばを紡ぐ者として肝心なのは、自分の嫌悪がどんなものなのかを突き詰めて考え・伝えようとすることであり、それを読む者は相手が何を伝えようとしているのか、真摯に耳を傾けることではないのでしょうか。

ことばというのは、伝えようという意識によって紡がれ、受け容れられるものです。一人で自己完結して構わないなら、ことばなど要らないのですから。ことばに関わろうとする者はだから、交流の可能性に絶望してはいけない。私はそう信じています。

たしかに、本当に中味なんて無い、ただ叩きたいだけで「リアリティが無い」とがなり立てているような感想というのはたくさんあります。むしろ氏の本当の仮想敵は、自分の嫌悪をタテマエで隠すような人ですらなく、そっちではないかという気もする。しかし逆に言えば、その人は少なくとも発言したくなるくらい何かをその作品から感じ取っているわけです。いったんそのことを引き受けて、「リアリティ」なり「必要性」なりということばでその人が言おうとしていたことは何なのか。それをすくいあげることもまた大事なことのはずです。

同時に、発言する側も自分が言いたいことは本当に「リアリティ」ということばに載せて良いものなのか、もっと適切なことばはないか、あるいは何故自分がそのことばを選んだのか等々考えるべきことは多いでしょう。「恋愛のリアリティ」と言うとき、自分は登場人物の心情を重視しているのか、それとも行為(電話の頻度や会話の内容、コンドーム買うか云々)を重視しているのかで、同じ「リアリティ」や「必要」ということばも内実は変化するのですから。

肝心なのは「リアリティという語が自己弁護のために使われている」という政治的背景を暴露することではなく、「中味の無いことばになっているから「リアリティ」という語からはその人の真意が見えない」という認識にたって「真意」を見極めようとすることです。「「嫌いだから見ない」で十分」という結論は、その「真意」へ近づく可能性を放棄しようという態度に見えてしまう。

私は、鳥山氏の「嫌いである理由をひねり出す必要もありません」とは逆に、無理にでもひねり出してみるのが良いと思うのです。そうすれば、矛盾があれば誰かがそれを指摘し、その矛盾によって自分の真意のありどころがより明確になるのですから。「キミの言ってること、こことここで違うよね。どっちが本当に大事なの?」と言われてようやく、自分の言いたかったことに気付くというのはとてもよくあることではありませんか?

鳥山氏は「自己正当化」の卑怯さと不毛さを批判なさりたかっただけで、ことばの内実を突き詰めることを否定してはいない、と言われるでしょうか。たぶんそうなんじゃないかなと思います。あるいは、自己を正当化するのではない、本当のことばを紡げと言っているということなら、私が述べてきたことと同じ(ことばを突き詰めろ)とおっしゃっている部分があるのはもちろんわかります。ですから、私がいま述べていることは既に、鳥山氏への直接的な批判という文脈からは外れかかっているのかもしれません。

けれど、氏の発言の結びはやはりことばからの逃げを宣言するものであるように私には見えてしまった。「嫌いだから見ない」では十分ではなくて、そこから「私の「嫌い」って何だろう? 「リアリティ」がないことかな? その線で説明してみよう……」と語り、他の人がそれを聞いて、「ふーん、そんなもんかね。でもさ……」と考えることのほうを、私は目指したい。どれほど大変でもしんどくても、私はことばによって交流することを諦めたくはないし、それなら「リアリティ」という語が空虚だから語るなというのではなく、その語に実際に込めたかった意味は何なのか、考えることから入りたいなと。

もっといえば、鳥山氏の批判や私の批判もまた、広い意味では自分の感じた「嫌悪」を何か形にしようとしているのではないでしょうか。少なくとも私は、氏のツイートに感じた違和感や不満を語りだそうとしている。そして、氏が私に「嫌いだから見ないで十分」/「好きだから見るで十分」と言われるならば、それに対しては頑なに抵抗すると思います。「嫌いだからこそ(好きだからこそ)語りたいのだ」と。

ちっちゃいブログではありますが、ことばを紡ぐ世界の端っこのほうで生活する身分として、そんなことを思ったのでした。

と、今回は鳥山氏の発言に対する話ばかりになってしまって、肝心の「リアリティ」なる語についてはちょっと踏み込めなかったので、その辺はまた後日改めてやるかもしれません。長くなったので本日はこのあたりで。お付き合いありがとうございました。


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