よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/01/01(火) 22:17:43

冬コミ3日目に、udkさん(@udk91)が来ておられるというブースへお邪魔して、同人誌『滅亡SF』をゲットしました。その節はお世話になりました。無理矢理呼び戻す形になってしまい、本当にスミマセンでした……。

本当は感想など簡単にツイッターでポストしようとしていたのですが、思いのほか長くなったのと、ある程度前後関係を説明しないと私自身の言説が伝わりにくいものになってしまうことを恐れ、簡単にではありますが「書評」のようにスタイリッシュなものではなくて、ダラダラ書いた「感想」のかたちでブログの記事とさせていただきました。

雑誌全体の内容は、2012年という第二の(第一はノストラダムス)滅亡ブームを敏感にキャッチし、それにちなんだSF作品の紹介をしようというもの。1ページ目から「(今年も)地球は狙われている」などウィットに富んだフレーズが飛び出し(これはあれでしょうか、レイズナー?)、ニヤリとさせてくれます。自覚しながら大真面目にバカをやるという感じの、私の大好きなノリが素敵。

ざっと冊子の内容を説明すると、以下。

・「滅亡SF作品紹介」
滅亡作品を、(1)「滅亡が起きる(た)」、(2)「滅亡が回避される(た)」、(3)「滅亡とその回避とが同時に描かれる」という3類型に分け、ループものなども第三の類型として滅亡作品に含めますよ、ということを宣言した全体のイントロダクション。特に(3)の作品(「<滅亡>と<滅亡回避>の二重性を持つ作品群」)について詳しく紹介したものとなっています。「ドラゴンボール」などもこの類型に入れると言うのはなるほど、と面白く読みました。SF界隈ではスタンダードなのでしょうか。

ただ一点不満もありまして。まさに「二重性」として滅亡と回避とが同時に描かれるというのは、端的には滅亡は描かれていない(最終的に無化された)という解釈も成り立つと思います。それなら、滅びの事実性と虚構性とを分けるものは何なのか、もっと端的にはそもそも「滅亡」とは何の謂いなのかという疑問をかきたてる面白いイントロなのに、そういう話にはならなくて、個人的には残念でした。

・滅亡レビュー16作品(前編/後編)
実際に「滅亡」を扱った作品群の紹介。個別に「規模」「勢い」「減少率」「滅亡度」などの評価項目が設けられて、だいたい1Pから半ページで作品を紹介しています。個人的には『火星年代記』、『日本以外全部沈没』、『岸和田博士の科学的愛情』あたりが入っていたのは好印象。エロゲー枠は『穢翼のユースティア』で、書いておられるうえもり氏の愛情が伝わってくる(歌詞の抜けを指摘されたエピソードなど含め)良い記事なのですが、このラインアップだとニトロの『Hello,world』の紹介を読んでみたかったなという気がします(SFっぽいし)。

・終ノ空・素晴らしき日々 論
udkさんの記事。楽しく読ませていただきました。詳細は後述します。

・大特集 アルマゲドンシリーズ
19ページから35ページまで。本当に「大特集」でした。これめっちゃ面白い。

私は全く知らなかったのですが、どうも『アルマゲドン2007』とか『アルマゲドン2008』のような映画があるのだそうです。で、シリーズものかと思いきや実は全然違っていて、「アルマゲドンっぽいB・C級映画に日本の配給会社がアルマゲドン云々をつけただけ」の「パクリ映画」なのだとか。どうやら、宇宙から何かが降ってきたらとりあえずアルマゲドン、というのが日本の配給会社のお約束のようで……。それを阪大SF研究会(OUSF)のみなさんが部室で延々鑑賞するという 苦行 楽しい企画。

合計9つの作品をあらすじ紹介・感想と細かくレビューしておられて興味をそそります。ページの下には一言コメントがついていて、そちらがまた笑える。ちなみにネタバレがあるんですが、まあ絶対みないだろうという前提のもとに読んでみたところ、むしろ観たくなってしまて困った。特に『エイリアン・アルマゲドン』。だいたいタイトルからしてぶらさがり商法ってレベルじゃねーぞって感じですが、熟女同士の百合シーンがあるとかベクトルがしあさっての方向に向かってるのが素敵すぎて、もう話を読んでいるだけでワクワクが止まりません。誰かDVD借りて一緒に観て下さい。

・滅亡人物伝 村井秀夫 出家への路
旧オウム真理教のナンバー2であり、マスコミ取材の中刺殺された村井秀夫についてのレポート。彼の足跡をたどりながら村井とはどのような人間だったかというところに、スポットライトをあてています。オウム事件は私の中でも大きな事件として心に残っていますし(若い人にはピンとこないかもしれませんが、本当にすごい事件でした)、麻原の「一番弟子」であり、教団を実質的に指揮していた彼の死によって多くのことが闇に消えたというのも事実でしょう。そのあたりの事情もあいまって、興味深く拝読しました。

新たな分析というよりはこれまでのデータを整理して読みやすくしてくださったという感じで、大変参考になります。これ目当てで手に入れても良いかなと言う気がする。

▼udkさんの「終ノ空・素晴らしき日々 論」の感想など(C83・大阪大学SF研究会『滅亡SF』所収)
さて、udkさんが常々扱っておられる『終ノ空』、『すば日々』関連の論考について。せっかくお会いしたし、本も買わせていただいたので、一番のお礼はきちんと読んで感想を申し上げることだろうというわけで(私らの業界的には)、即日拝読いたしました。といっても、書評とか論考への反論といった大きなものではなくて、ほんとうにただの感想になるのですが、何点か疑問などもあったので少しずつそのことにも触れてみようかなと。

私の個人的な関心もあってか、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(以下、『論考』)と『終ノ空』の接続の部分が興味深いところでした。

udkさんは『終ノ空』でたびたびとりあげられる『論考』本文を実際に引用しながら、『終ノ空』は「語り得るもの」と「語り得ぬもの」とを明確に分かとうとする作品であった、と結論づけておられます。udkさんの論旨を雑駁にではありますがまとめると、およそ以下のようになるでしょう。

(1)作中で視点が相対化され、個々の人間による「認識の違い」が明示される。
(2)語り得るものというのは「自分の世界」だけ。もっと厳密には「この瞬間」のみである。(<いま・ここ>のみが「語り得る」もの。絶対性)
(3)人間の世界は思考=言語の限界に縛られている。(人が語り得るのは所詮主観にすぎない)

私は1999年当時にこの作品をプレイして、実際難し過ぎてよくわからないなーという印象を持ったまま今にいたるわけですが、udkさんの解釈は『終ノ空』を相当程度きちんと整理されているものと思います。私自身も、似たような、つまり主観の交流の断絶みたいな問題を強くうけとった記憶がある。しかし、だとすればウィトゲンシュタインとは決定的にかみ合わない気がするのです。

(『論理哲学論考』の内容について)
そもそも、ウィトゲンシュタインはめちゃくちゃ厳密に論理を展開しているのでいろんな前提を共有しないといけなくて、それが哲学屋でも論理学プロパーでもない私には無理ゲー状態なのですが、一応できるところまで頑張ってみますと、まずウィトゲンシュタインの言う「語り得るもの」というのは「命題の総和」として表現されるような言語です。これには、たとえば「可能的な事態」も含まれています。たとえば、<明日世界が滅ぶ>とか、のような命題文も含まれる。命題が本当か嘘かということは、「語り得る/得ない」には関係ありません。

では、「語り得ぬ」ものとは何か。直接的にはそれは、「矛盾」や「トートロジー」(恒真命題)のように、論理に反していたり語られても意味をなさないもののことです。

たしかにウィトゲンシュタインは「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」(5・6)と述べています。これは一見するとudkさんがおっしゃっているように主観の絶対性こそが言語によって表現されるということを示しているようでありながら、考えてみると実は全く逆の意味で言われているということになります。すなわち、もしも「私の言語」によって個々の人間の世界が表現されているのだとしても、そのことは論理的には、ひとりひとりの人間の「表現」が異なっているということにすぎず、実際に見えているものが違っているかどうかは証明のしようがない。「私の言語」の「私」性は、まさに「語り得ぬ」分類になるわけです。

udkさんの議論では、(1)と(2)がつながっている。というよりは(2)が(1)の前提となっていて、人は自分の世界のことしか語ることができない「から」、「語る」ことばは共約不可能な、絶対的なものにならざるを得ない、というわけです。しかし管見では、その方向性はウィトゲンシュタインの論理から離れてしまっている。ウィトゲンシュタインはむしろ、すべての人が等しく「私の言語」で語るからこそ、だれも「私」の唯一性や絶対性を「語る」ことはできないのだ、と言うのです。

「草稿」のことばを引くならば(udkさんも引いておられましたが)、「私の生は比類ないものであるという意識」=「「生」そのもの」。それについて語ることは、言語という論理の力を超えている。絶対的なものを語ることはできない。ここにこそ、言語という論理の「限界」がある、と。「内側から思考不可能なものを限界づける」(4・114)作業は、かくして達成されたことになるわけです。

つまり「語り得る」ものとは人間の主観ではなく、主観を離れた形式論理であり、ウィトゲンシュタインが示そうとしたのは思考や言語の領域に、「私」のような絶対性が存在しえない(存在したとしても意味がない)ということであったはずです。ウィトゲンシュタインはしかし、そのような「語り得ないもの」が存在しないとは言いません。それは「神秘」の領域にある、と言うのです。「世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、そのことが神秘なのである」(6・44)。

(「語り得ぬ」存在の神秘)
世界という絶対的な存在の、その存在理由については人は語ることができない――。言語や思考、「語り得るもの」とは理論的な仮構物、世界の「模型」にすぎないのであって、それはあくまでも相対的なものである、というのがウィトゲンシュタインの言わんとしたことであるように思われます。私はあの精緻な議論にとてもじゃないけどついていけませんので、決定的に重要なポイントを切り落としてしまうことを恐れるのですが、それでも敢えて一言で括るなら、ウィトゲンシュタインは徹頭徹尾認識の論理を語ろうとしていたのであって、そこに存在の論理は入り込む余地が無い、ということを「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない」ということばで語っているのだと思います。

「私」という存在は、いかなる語を尽くしても決して語ることはできない。「沈黙」は諦めであると同時に、神秘の領域への迂闊な侵入を避けよという警告でもあったはずです。

だからもしも、『論考』を引きながら一足飛びに存在の論理(たとえば、この「私」の「幸福」や「善」とは何かといったような)について語っているのだとしたら、それは単に誤謬か、あるいは牽強付会であると言われても仕方ないのかな、と私は考えていました。もちろん、私の解釈が当たっていればですけれども。しかし今回udkさんのお話を読んで色々考えているうちに、もう少し掘り下げどころがあるようにも思えてきました。

(再びudkさんの議論へ)
udkさんの論を拝読して思ったのは、まず『終ノ空』自体がudkさんのおっしゃるような、認識の絶対性・主観性こそが「語り得る」唯一のものだと言っているのかどうかということ。これは、なにぶん細かい描写や表現を忘れてしまい、あんまりまともなことが言えそうにありません。またやり直さないと私自身検証できないので宿題にしようかなと思っています。

次に、udkさんは一体「語り得ない」ものとして何を想定されているのかということ。論の中では「間宮卓司はその語り得ないものを探ろうと空に還ることによって世界の限界を得ようとしたのである」(p.15)と書かれており、その後『すば日々』での「幸福」の考察に移るわけですが、私の読解力が追いつかずいまいちきちんとつかめていないままです。「言語化不可能な「神」や「生」」(p.17)とおっしゃっているので、その後の話も含めれば「信仰」のようなこと、あるいは「意味」や「価値」といったものでしょうか。だとすれば、「語り得ぬ」ものの内実というのはウィトゲンシュタインの言わんとしたことと重なるように思います。ただ、ウィトゲンシュタインは自らの絶対性を担保することができない言語によってそれらを説明することは原則不可能だと言っている(言語でない形でならできるのかという問題は別の話になるので措いておいて)ので、やはりどこかでズレが生じる気もします。

その路線でもう少し考察を進めるならば、自分の絶対性に基盤をおくことができるのに、「意味」や「価値」が「語り得ない」。だとすればその場合の「意味」や「価値」というのは、社会における公共的価値、対他的な関係によって生じる価値のような意味になるかもしれません。すると、「信仰」とは「神と私」という一対一の関係ではなくて、同じ神を信じる者たち、といったニュアンスを帯びるのかな……などと考えておりました。でも、論の最後のudkさんの結論からこの路線はないかな。

「30人30説」のほうの議論を拝読した限りでは、やはり個的な「生」ということ、それも「幸福に生きる」ことというのがキーになっているのだという印象。ただそうなると、『論考』の直接の内容からそういう個的な絶対性へ行くというのは私にはかなり壮絶な迂回路が必要なように思われるんですね。あと、「幸福」とは何か、ということに対しての答えがでないような気がします。ただ生きているだけで「幸福」と重なるのだとすれば、動物と何が違うのか。思考による「私の世界」は「幸福」にとって無用なものか、もっといえば単なる邪魔になってしまうのではないか……等々の疑問も出てきます。

最後に、これは私の上記議論が妥当ならという前提にたちますが、ウィトゲンシュタインと『終ノ空』がズレているのだとしたら、それは否定されるべきことではなく、むしろそのズレの部分が面白いのではないかな、ということ。

認識の理法を存在の理法ととりちがえたというのは、たとえば専門の哲学屋さんからすれば許すまじきことなのかもしれません。しかし素人の読み手としてはむしろ、認識の話が存在の話に矛盾無く繋がっていくということのほうが自然だ、ということもありえるわけです。たとえば日本近代文学で有名な「自然主義」も、本来は「自然科学」の意味の自然(つまり認識の話)だったのが、「人間の本性・天然」のような意味の自然へと変化して日本では受容されました。その辺からもうかがえるように、日本的な思想の流れというのはどちらかというと、認識と存在を地続きのものと捉える傾向が強いように思います。

確証はありませんが、これはたぶん、仏教の影響なのかなと思います(※仏教は「無明」のように認識が誤っていることによって存在そのものが影響される、という立場をとるからです)。ウィトゲンシュタインを引いているからウィトゲンシュタインと同じことを言わないといけない、あるいは言っているハズというのではなくて、作品とウィトゲンシュタインがズレているなら、そのズレから見えてくるものがあるという読み方はできるのではないかな、と。むしろ「幸福」とか「善」のかたちは、そのズレによって浮き彫りになる気配も(私には)します。

まあ『終ノ空』はほぼ忘却の彼方、『すば日々』もそこまで気合い入れてやらなかったしウィトゲンシュタインは難解すぎてちんぷんかんぷん(※ぶっちゃけudkさんが参考文献に引いておられた本が、ほぼそのまま私の参考文献でもあります)という私の意見なので全然的外れ、そもそもudkさんの論をきちんと読めていない可能性は大いにあると思うのですが、以上で感想とさせていただきます。

正月早々読み応えのある論で楽しく過ごすことができました。ありがとうございました。

さて、アルマゲドン観るか……。

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