よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/03/15(金) 07:08:21

ブログを書き始めた頃、「ブログはこう書くのが良い」というようなハウツーというか、もっと強制力が強い《べき論》みたいなのを色々チェックしました。

だいたいどこも言っていることは同じで、「短く」「簡潔に」そして、「わかりやすく」。読者が自分にとってのメリットを理解しやすいとか、具体的に書くとか、起承転結を使えとか、まあいろんな言われ方をしていますが、粗々その三つにまとまると思います。

そのスタイルを安易に否定するつもりはありません。ただ、簡単にそれに乗ることはできないと当時は思ったし、やっぱり最近になっても変わりませんでした。

理由の1つは、私がもともと長文書くタイプだからでしょう。それは、言いたいことがまとまらずとっ散らかるせいでもありますし、また普段触れている文章が、たとえば20000字程度の論文だったりするためだと思います。1つのことをキチンと説明するには、最低でも15000字くらいは欲しい。それでも短いくらいで、やむなく文章を圧縮して圧縮して……という作業を見ていると、2000字とか4000字はいかにも短い。丁寧語で書こうものならあっという間です。

そういう思考の癖や書き方の癖みたいなものは、確かに存在します。けれど、私が《べき論》に乗らない理由は、それがメインではない。

主な理由は、「読者への信頼」です。ブログのハウツーサイトみたいなところを見ると、「短く」「簡潔に」「わかりやすく」書く理由は、書き手がそう書きたいからではなく、「読者への配慮」であると書かれている場合がほとんどです。しかし、一部の例外はあるにしても、普通「簡単さ」と「正確さ」は両立しません。短くなれば情報量は落ちるし、使うことばから厳密性が失われれば、内容は曖昧なものになります。そんなの当たり前です。でも、その当たり前の前提に目をつぶらないと、「短く」「簡潔に」「わかりやすく」は成立しない。

ならば、「配慮」と言えば聞こえはいいけれど、それはつまり、嘘でも構わないということです。正確さや内容の密度を犠牲にしても良い。要は「難しいこと書いても読者はどうせよまないよ」という、ナメナメな態度の裏返し。

その辺を割と忌憚なく述べておられるサイトさんもあります(当然、読者配慮の一環という文脈ですが)。

一目瞭然。読まれるブログ記事の書き方
 「Web上のテキストは熟読されません。身も蓋もありませんが、それが事実です。

ブログ記事を読んでもらうための10の書き方
 「中学2年生レベルの文章

無論、偉ぶるために無駄に難解で迂遠な表現を使う必要は無いでしょう。しかし、「そもそも読まれないから」、「どうせわからないから」という前提で文章を書くというのは、「読んでいただくために」と頭を下げつつ内心でベロを出している感が、どうしても拭えない。

よく言われる広告三原則に、「見ない(Not Read)」「信じない(Not Believe)」「動かない(Not Act)」というのがあります。身も蓋もない言い方をすれば、客はバカで、そのくせ疑り深いのは一人前で、しかもズボラである、という徹底的な顧客不信のうえに立って行動しろ、ということです。大衆に向けて「短く」「簡潔に」「わかりやすく」情報を伝えるマスメディアの人たちが(十把一絡げにはできませんが)、いかに視聴者をバカにする態度をとっているかを考えてみても良いかもしれません。

そりゃまあ、もともと「その程度のこと」しか言うつもりがないのならば構わないんでしょう。しかし、言葉を尽くしても言い尽くせないようなこと、あるいは大雑把に捉えてしまうと一気に陳腐な内容になってしまうような繊細な話題を扱うときに、「どうせ読まれないから」と、細部の精密さをそぎ落として良いでしょうか。

いわゆる「ブログのハウツーサイト」さんを否定したいわけではないので弁明として言っておくと、《べき論》は役に立つし、求められる局面というのも少なからず存在することは、私も認めています。

たとえばビジネス的な文章の書き方としては、「相手にわかりやすい」というのは必須の事項です。そして相手との意思疎通で誤解が生じると致命的な事態に発展する可能性があるので、相手の想定を可能な限り低く見ておく(かつ、正確な用語を用いる)というスキルが求められるのは事実です。

あるいは、セールストーク。文章自体に意味や価値があるのではなくて、他の行動を誘発する手段として文章がある場合です。アフィリエイト系のサイトなんかはこの典型だと思います。

また、いわゆる「大衆啓蒙」のような――つまり「このことは皆が知らねばならぬ」という強い問題意識を持って書かれる文章であれば、多少精度が落ちることは覚悟のうえで、伝えたい要点だけを伝える、というのはアリなのでしょう。ただそれは、何というか「偉い人」の書き方ですよね。教えてあげるよ、的な。先生とか、指導者とか、そんな感じ。

で、ブログは少なくともビジネス文書ではないし、また私はブログでセールスをするつもりもありません。そして、誰かを啓蒙するほど偉くもない。少なくとも、ブログを読む人はなんだかんだで「教えて欲しい」んでしょ? と上から目線で、「結論を押し付けられていることを気づかないように、相手が自分で判断したように納得させられるような」ものを書く技能はありません。やりたいとも思わないですし。

そんなわけで、私は結構《べき論》をほったらかしてダラダラ長文書くことが多いんですよね。

確かに一方では、こういった態度が行き過ぎると「選民思想」的な、つまり「俺はキチンと書いたんだから読めないバカはブロック」というどこぞの大批評家先生みたいなことになりますし、また伝達方法を洗練させずにナマの思考を垂れ流しみたいなみっともないことになる可能性もあります。「短く」「簡潔に」「わかりやすく」が、書き手として守るべき読者への配慮・思いやりという側面を持つことも、重々承知している。だから、「私の書き方が悪い」という意識は常に棄てないようにしたいし、そうしているつもりです。実践できているかは別として。

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この辺りについては、下記サイトでfcpさんの仰っていることが、アプローチは違うけれど私の考えと割と近いかなと思います。面白い内容なのでご紹介しておきます。

◆フルーツチョコレートパフェ
想定読者の表示と発言に伴う責任 僕が「○○な人以外閲覧禁止!」と書かない理由

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ただ、結局私は文章を書く時、自分の考えを書いて、同時に読んでくれた人と一緒に考えたい、と思っています。少なくとも何か結論を簡単に押し付けるのではなく、疑問も反論もコミコミで、考え方というか思考の跡を表現したいと思っている。結論を共有して一緒に運動しよう! 革命だ! とか、あんまりそういう感じではない。

今回の記事にしてもそうで、「こういうブログの書き方が良いんです」とか言うつもりはありません。ただ、一般に受け入れられている《べき論》なりハウツーなりに対して、多少の疑問を投げかける――つまり、そこには読者を置き去りにするのとは別の形での読者軽視があると自覚しなくていいのか? というような――ことを目標にしています。それが、自分の書き方の話ともつながっている。

極端な言い方をすれば、読者に伝えたい内容が自分の思考プロセスそのものだと言っているわけで、身勝手で押し付けがましく見えるかもしれない。けれど、それは上で述べてきたことの裏返しで、読む人を信頼しているということでもあります。これでもわかってくれるはずだ、と。

私にとってブログというのは、メシの種でもなければオフィシャルな出版物でもなく、ただ自由に書いて、自由に読んでもらうための場という意識があります。それなら楽しく書きたいじゃないですか。自分を殺して無理やり小さなハコにパッケージングしたり、「これは伝わらないよな」のように読み手を疑って手練手管を弄するのも馬鹿げています。それよりは、自分がその時々で全力尽くして好き勝手(そりゃ多少のパッケージングはしますけれども)文章を書き散らかさせていただくつもりです。きっと読んでわかってくれる人がいるだろう、という希望のもとに。

それで誰にも振り向かれなかったら……そのときはしょうがないですね(笑)。読んでいただける、あるいは「読まれる」記事であることを棄てるのですから、読みたいと思える内容を書けなかった自分の責任というだけの話です。読まれることが一番じゃなくたっていいじゃない。ブログだもの。

……まあ読まれたほうが嬉しいのは事実ですけどね! 手段と目的を入れ替えるつもりは無いというか、読まれなくてもどのみち書き続けるとは思います。

もしかすると三日後くらいには全然逆のことを言い始めるかもしれませんが、ひとまず、私があまりブログの書き方の形式にこだわらないというか、少なくとも《べき論》(ハウツー)に沿った形で書かないのはそんな理由です、というお話でした。

こんな感じのブログですが、今後ともお付き合いいただければ幸いです。m(_ _)m

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