よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/04/25(木) 21:31:29

「長すぎる文章」(文章量が多すぎる文章)ということばがある。このとき、長すぎるというのは、何に(あるいは誰に)とって長すぎるのか。原理的には、二通りの解釈ができる。まず、読者にとって長すぎる。そしてもう一つは、文章にとって長すぎる。

ここでいう「文章」というのは、書き手のことではない、というのは一応ことわっておきたい。書き手にとって長すぎる文章というのは、原則存在しない。なぜなら、文章が存在しているということは、書き手は既にその文章を書き上げているのであり、つまりは書ききることができる程度の長さではあったのである。書き手が「長すぎた」と真に言えるのは、あまりの長さに書くことを断念した場合くらいだろう。

とまれ、ここでは表現された文章と、実際のその文章の書き手とを分けていることが伝われば良い。


さて、文章と読者という二者関係について考える場合、まず読者の立場から文章に出すことのできる感想は多い。たとえば、難しすぎるであるとか、句読点が不適切で読みづらいであるとか、文章に勢いがあって良いだとか。長すぎる、というのもそのような、読者にとっての主観の問題であることがほとんどである。

この時見落とされるのは、その文章にとって(文章というもの一般ではなく)、長さがどのような意味を持つのか、ということである。はたして、文章の内容と長さというのは、まったく切り離して考えることができるものなのだろうか。少し具体的に考えてみよう。

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そんな重大な局面に、はたして心理学が関与しうるだろうか。当初はそう思うこともあった。しかしこの「供述の世界」に入り込むにつれ、それがどれほど難しいかはともかく、広義の心理学のなかで取り組まねばならない問題領域がそこに広がっている、それだけは間違いないと思うようになった。
(浜田寿美男『〈うそ〉を見抜く心理学』)

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たとえば上の文章は、余計な修辞を取り払って表面的な意味だけを要約すれば、「心理学は「供述の世界」と深く関わる学問である」のように言ってしまうこともできる。短く書くなら、それのほうが良い。だが、疑念→実践→確信というプロセスを書いてみせることで、この筆者がさまざまな可能性をふまえて熟考した末に結論を導いたことや、その結論が机上の空論ではなく現場の中で紡がれた思考であることなどが、描かれているとも言える。

また、「広義の心理学」のような言い方からは、この著者が狭義の心理学を意識しているということ――つまり、巷で話題になるような、「心理学」という語をめぐる定義問題を自覚しているということ(および、たとえばカントの「心理学」の議論などを踏まえたうえでの論述であること)と、自覚していながら敢えてその説明をはしょったのであろうこととが読み取れるかもしれない。


曲がりくねった文章は、確かに読みづらい。しかし、その読みづらさゆえに、かえって思考の道筋の困難を、文章は示し得ているのかもしれない。あるいは、議論のプロセスを見せる中で矛盾があれば、何をどう間違えたのか、その原因は何だったのかを、明らかにしているといえるかもしれない。単純に読みづらいだけの文章のほうが、実際には多いのだろうが。

短い文章は、解りやすく、頭に入りやすい。そのことを強いて疑うことはしないけれど(短ければ必ず解りやすいわけではないとしても)、しかし、語ろうとしている内容それ自体が非常にわかりづらいことである場合だってある。ただおのれの思考の軌跡を見せることでしか伝えることのできないような、そういう類の情報というのも、間違いなく存在するのである。

このとき、文章それ自身にとっては、長さも難解さも、内容と分かちがたく結びついた必要な要素であると言えるだろう。


もちろん、そのような文章内容と長さの関わりとは無関係に、ただ読者側の好みの問題として、長い文章は読みたくない、という可能性はある。そもそも時間がかかるから忙しい人には向いていないし、長文を読む気力がないことのほうが多い人もいるだろう。

そういう人の「長すぎる」という意見は、言ってみれば「読みたいから短くしてくれ」という、読みへの欲求の表現であるという考え方もできるから、文章としては無下に退けることもできないし、文章の書き手が意見を気にしてしまっても、仕方がないと思う。

けれど、読者の側が文章の内容と関係なく、形式的特質をもって文章を選別する自由を主張するのであれば、文章の側にもまた、形式にもとづいて読者を選別する自由があることを、そうした読者は認めねばなるまい。文章はなるほど、強く自己主張はしないけれど、しかし必ずしも完全に受け身な存在というわけでも無い。

たとえば、哲学の術語を用いていればそういった基礎教養がある読者を文章が選んでいるといえるし、ヴァイオリンの部品について何の解説もなしに書かれていれば、楽器についての知識が求められているということになるだろう。いわゆる「想定読者」というものであるが、文章を形式で拒絶するなら、同時に文章から拒絶されているという自戒は、どこかに浮かべておいても良い。少なくとも、文章だけが、一方的に読者に歩み寄ることを強制されるいわれは無いと、私は思う。


誰かに対して、「身長が高すぎるから嫌いだ」と言うのは自由である。しかしそう言われたからといって、その相手の人格的・あるいは人間的価値が損なわれることは、たぶんない。同様に、文章にとって「長すぎる」というだけの批判は、その文章の内容的価値とは無関係であろう。

もしも文章の内容との関わりにおいて、「長すぎる」という議論が成立するのだとすれば、それはその長さが、文章の内容の何を損なっており、短くなることでいかなる可能性が開けるかが示される必要が、おそらくは存在する。

文章が長すぎることで、多くの人に読まれないという批判ないしは心配をするのであれば、そもそもその文章が、多くの人に読まれることを第一義的に目指したものであるかどうかを、まずは検討しなければならない。たとえば長くて晦渋な文章が大好きな、一部の、しかも内輪の人間だけを楽しませることが使命の議論であるなら、多くの人に読まれなくてもその文章にとっては全く問題がないわけで、「長すぎる」と責めてみたところで、傷ひとつ負わせられない。


私は、自分の文章が長いことの言い訳をしているのではない。また、「長すぎる」と言って読むのを止める人は考えが浅薄だと嘲っているのでもない。そうではなく、読者が読者の視点から「長すぎる」という話を持ち出すのが自然の成り行きであるとしたら、文章にとっては、内容との関連でその長さの意味を考えるのが自然ではないか、ということが言いたいのだ。多くの人に読まれることを目的とした文章ならば、読者の注文を積極的に聞き入れてゆくべきに相違ない。しかし、正確性を旨とするならまた違った形式が必要になろう。

要は、文章の形式というのは形式それ自体で存在しているのではなく、内容との関連において存在しているものだ、ということである。そのことへの配慮を抜きに、文章の長さについて生産的な話というのは、起こりにくい。

(ちなみにこれは余談になるが、「長すぎる」といって文章を批判する人は、必ずしも長さだけを問題にしているわけではないだろう、とも思っている。長くても読みやすい文章なら文句を言わない、という発言をときどき聞くが、それから推察するに、おそらく「長すぎる」というのは多くの場合、読みづらいというのをひとつの解りやすい特徴で捉えて表現しただけにすぎないのではないだろうか。そしてその読みづらさの原因は、長さだけではなく、論旨の不明瞭さや用語のわかりにくさ、更には問題意識が共有できていないことなど、さまざまに存在するのであって、本当に文字通り長さだけを問題にしている人というのは、実は案外少ないのではないかと、私は考えている。今回の話はそれをあえて、本当に長さだけの話をするならそこからどんな可能性が見えるのか、という関心にもとづいて書かれていると思って頂ければ良いかもしれない)

したがって(すこし飛躍するが)、次のように言うことができるのではないかと思う。

ある文章に触れた読者は、自分の話をしたいのなら、「長すぎる」という意見を表明すれば良い。その文章の話をしたいのなら、その文章にとって長さがどういう意味を持っているかを語れば良い。文章の書き手は、ある文章を通して自分の考えを書きたいのなら、その文章にとって長さがどういう意味を持つのかを考えてやれば良い。そして読まれたい読者があらかじめ決まっているのなら、その読者の声にあわせて表現を変えてやれば良い。

そしてもちろん、この4つは全て極端にしか選べないというわけではなく、3:7や5:5のようにバランスをとることで成り立っていて、そのバランスが文章の立場に反映されてくるのだろう。



と、「である調」で書いてみたらフツーの話もそれらしく見えるかと思ったんですがそうでも無かったですね。これぞこけおどし。

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コメント

縦に長い文章は読む気になるのですが、横に長い文章(改行が少ない文章)は、ディスプレイ関係で、目を大きく動かさなければならないので、読むのが億劫になってしまいます。

紙媒体ならともかく、PCのディスプレイで文字を読んでると目が疲れてしまうのもあって、ブログは長文考察とはあまり相性がよくないのかもしれません。

xiboさん江

なるほど……。確かに、レイアウト的な読みやすさ/読みにくさはあります。

WEBの文章のレイアウトというのは、完全に書き手の責任ばかりでもなくて、たとえば解像度だとかブラウザなりエディタなりをフルスクリーンにしているかだとか、そういう読み手の環境に依存しているところもあるから難しいかなぁと思います。


逆に言えば、読み手がある程度自由にレイアウトをいじって読めるわけで、横に長すぎるものについては、たとえばですが、いったんコピーして折り返し機能のついたメモ帳とかに貼り付けて読むとかしても構わない(それならフォントもいじれますし)でしょう。私は、長い記事なんかは印刷して読むこともあり。

もちろん、空き時間にスマホとかで読むのが前提だとこれはきついですね。

ですが、それはブログなりが長文に不向きかどうかではなく、読み手の需要とブログの関係にも思われます。ブログを読む人に長文を読みたい人が少ない、ということなら、「不向き」といえるかもしれませんが、自分で文字サイズなどのスタイルを調整できると考えると、向いている部分もあるかな、などと考えますが、どんなものでしょうね。

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