よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2012/03/01(木) 16:39:04

青少年の保護、という問題を巡って、東京都でおおきな騒動があったことは記憶に新しいかと思います。東京都青少年の健全な育成に関する条例の改正を巡る一連の事件、通称「非実在青少年問題」。話題がもちあがってからおよそ2年が過ぎましたが、果たして問題は解決したのでしょうか? 地震、原発という大きな事件が相次いだこともあり、今や話題性も無くなったかのようですが、果たしてそれで良いのか、と思っている方も少なくないでしょう。今回は、そんな話。

非常に退屈なリサーチ系の記事で、しかも長い。興味が無い方には全くどうでもいい話かもしれません。けれど、できれば日頃、エロゲ―をやっている人――この手の問題の、まさに当事者の私たちこそが、きちんと考え、人に伝える必要があるのではないでしょうか。

構成としては、「非実在青少年」成立を巡る事実関係の整理、肯定派・否定派それぞれの言い分の整理、実際に行われた議論の検討、最後にこの手の話題でよくとりあげられる『表現の自由を脅すもの』という本の紹介、となっています。

「非実在青少年」という語は、東京都青少年治安対策本部が作成した都条例改正案に記載されたもの。定義は「年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から18歳未満として表現されていると認識されるもの」(第3章2項)。

この条項のポイントは、2つ。1つは、実在する人物(たとえば写真)ではない架空の人物を審査の対象としていること。もう1つは、架空の人物の設定がたとえ18歳以上であっても、18歳未満と思われる特徴(外見、音声)を備えている(年齢を想起させる)場合には取り締まること。雑駁に言ってしまえば「非実在青少年」とは、〈18歳未満と思われるキャラクター〉のことを指しています。

しかし、「非実在青少年」ということばのひろがりに反して、以上に述べたようなあたりまえの定義ですら、共通理解のうえに置かれているとは言い難いのが現状。たとえば、エロゲーメーカー・ソフトハウスキャラは、都条例を、「非実在青少年」なるアニメやゲームのキャラクターに人格や人権を認め、キャラクターの保護を謳ったものである、と解釈しています(『忍流』など)。実態は「非実在青少年」を任意に解釈するのだからキャラクターの権利は著しく無視されているし、保護されるのは現実の少年少女。ですからソフトハウスキャラの解釈は明らかに誤りなのですが、規制に最も近い当事者であろう人々の間ですら、理解が浸透していないのは確かだと言えましょう。「非実在青少年」ということばは、ひとりあるきしてしまい、多くの人々は置き去りになっているのではないか。そのように考える場面に遭遇することが少なくありません。

そうした現状を踏まえ、この問題を改めて詳しく検討するとともに、一時の熱狂的な騒ぎが収まり、条例が施行されたいま、現状がどうなったかを確認したいと思います。以前別のところで「表向き」に書いた内容を、当事者として書き直したものですので、少々文章が硬く、読みづらいかもしれませんがご容赦ください。

▼ 動機について 
「非実在青少年」。エロゲ―界隈で特に緊張感をもって受け入れられたこの問題について、しっかりとした知識を、私は恥ずかしながら持っていませんでした。

表現規制が来たらまずい。そういう危機感と、感情的反発だけが先走り、肯定派の意見も否定派の意見も、しっかり検討することを怠ってきた。そもそも事実としてどのような決定がくだり、議論が行われ、だれがどんな主張をしたのかすらまともに知らなかった。

そういう状況で、ある時全くこの問題に興味が無い友人を前に、私は自分がこの問題を「人に伝わる形で」説明することができないことに気付いたのです。喧々諤々、規制は駄目だと訴えてきたけれど、これでは都条例が何たるかを知らずに賛成している人と同じではないか。そんな風に思いました。

さすがにこれではまずかろうということで、自分なりに「非実在青少年」問題とは何だったのか、肯定派・否定派の意見を、色々調べてみたのですが、その結果が今回の記事です。私自身の立場上、完全に公平な見方ができたとは言いませんが、少なくとも都の条例を巡って起きていた、いろいろな誤解やかみあわない議論を整理する手助けにはなるかと思います。

表現規制――非実在青少年問題を巡るかまびすしい意見には、非常にしっかりした考察が多い。とりわけ、反対意見には多くの著名人や、現場の表現者からの声があり、説得力も相当なものがあります。にもかかわらず、放たれた矢が届かないのはなぜか。相手が聞く耳を持たないから、だけではない。見ているもの、見ようとしているものが、両者の間で決定的に異なっている部分があるのではないか。それが、調べた限りの私の感想です。

皆さんが何を思われるかは、私が関わりうることではありませんが、ともあれ素人がこの問題について何かしら踏み込んだ議論をするうえでは、必要最低限と思われる情報を網羅したつもりです。異論反論、ご批判などあるかと存じますが、それは甘んじて受ける覚悟で、記事を掲載しました。よろしければ、ご一読ください。

▼ 事実関係の整理 
まず、「非実在問題」について大まかな推移を確認。といっても、詳しい情報や事実関係は、それ専用のサイトなどが充実しているのでそちらを確認してもらったほうが早いでしょう。ここでは、本記事で扱う内容を理解するのに必要と思われる最低限の事実を整理します。

はじまりは、2010年2月24日。ちょうど2年前ですね。東京都都議会で「東京都青少年の健全な育成に関する条例の一部を改正する条例」が提出されたことに端を発します。当時はまったく注目されていなかった本条例は、しかし、明治大学国際日本学科准教授の藤本由香里がmixiの日記で本件を取り上げた(※1)ことで、一躍脚光を浴びることとなりました。藤本はmixiの日記を公開した旨をTwitterで発言(※2)し、その情報は急速に拡散していきます。
余談になりますが、初動がインターネットだったことは、この事件の今後の展開に大きな意味を持ちました。とりわけ、Twitterを経て拡散したことによって、議論の方向性が決定づけられたと言って良いでしょう。Twitterはもともと、同じような興味・関心を持つ人たちがコミュニティを形成しやすいグループネットワーク。だから、ある事件に対する解釈も似たようなものになりがちだし、その解釈にバイアスもかかりやすい。

今回の場合でいえば、都条例の改正案はまずインターネット上で大きな勢力をもつアニメや漫画のような文化に対する挑戦・弾圧として受け取られ(当初は「二次元規制」などという語が頻繁に用いられた)、反対勢力が形成されていきます。

規制肯定派からすれば、児童の性的な保護を求める動きに対して、一部の反社会的なオタクたち、中でも特殊な性癖を持つ人々が、自分たちの性的はけ口を確保するためにアジテーションをしているように見えたでしょう。逆に規制反対派は、不当に自分たちを差別し、理解を示そうともしないわからず屋の集団が、公権力を振りかざしていると受け取った節がある。つまり、互いに相手を別のものと認識しており、かつ、相手があらかじめ既に間違っているという感情的な思いこみから出発したわけです。

こうした対立の延長におかれたその後の「非実在問題」は、論点における認識の齟齬と、多分に感情的な対立要素を振りまきながら迷走していくことになるのは、皆さんご承知の通り。そしてその混乱は、今なお続いているのです。
さて、話を戻します。多少偏った経路を通してとはいえネットで頻繁にとりあげられたこともあり、「非実在問題」への世間的な関心は高まっていった。特に漫画業界は条例に危機感を募らせ、同年3月15日、永井豪、ちばてつや、里中満智子、竹宮恵子といった大物漫画家たちが改正案に反対する記者会見をひらきました(※3)

この会見は「出版界などは「表現の自由が侵される」と批判」しているなどとマスコミに大きく取り上げられます。その一方で都小学校PTA協議会からは改正案成立の要望書が各会派に提出され、「目をふさぎたくなるような漫画などが書店に置かれている」現状を是正するにふさわしい措置であるとして都条例への支持が表明されました。以降、この問題は出版業界を中心とする表現規制への反対論と、日本ユニセフやPTA協会を中心とする児童保護の必要論の戦い、という様相を呈していきます。

パブリックコメントなどでは概ね都条例への賛成意見は少なく(※4)、またその後のマスコミ各社によるメディアやインターネットでの大々的なアンチ・表現規制キャンペーンが継続。そもそもの問題として急な改正案への不審や議論の不十分さを説く声が多く、3月の都議会では継続審議(先送り)の方針が決定されました。

6月、都議会定例会が始まったことを受け、自民党・公明党の両党は「非実在青少年」を「描写された青少年」にするなどした修正案を提出する方針を提出。しかし反都条例側による精力的な運動の影響もあってか、「東京都青少年健全育成条例改正案」は民主党、日本共産党、都議会生活者ネットみらいの野党三党の反対によって、一旦否決され、改正案は廃案となります。ところがこれに対して東京都青少年治安対策本部は、9月の定例都議会への再提出を目指し更なる改正を重ねていく方針を明らかにしました(※5)

2010年11月12日に提出された修正案では、物議を醸した「非実在青少年」に類する表現はとりのぞかれ、かわりに「刑罰法規に触れる性行為や近親婚、強姦などを不当に賛美・誇張」する描写を販売規制するものとされました。この修正された表現は、以前よりも更に規制範囲を広げ、また恣意的な解釈を許すものであるとして反対の声も上がります。とりわけ出版業界の反発は凄まじく、「東京国際アニメフェア2011年ボイコット問題」にまで発展。

しかし、肯定側による児童ポルノ根絶への訴えや、「恣意的な運用は不可能」(表現の規制にはあたらない)という東京都の意見などを参考に議論が進み、12月13日、委員会で改正「都条例」は採決。続く15日、「作品に表現した芸術性、社会性などの趣旨をくみ取り、慎重に運用すること」という付帯決議が為されたうえで、可決成立となりました(賛成は自民党・公明党・民主党。条例改正は2011年1月1日、携帯電話規制に関する条項が施行され、4月1日より自主規制に関する条項が、7月1日より不健全図書指定に関する条項が施行)。

以上が、いわゆる「非実在青少年」問題に関する事実関係のおおまかな推移です。
※1…【重要】都条例「非実在青少年」の規制について(画像形式で当時の内容が残されている)
※2…アカウント「@honeyhoney13」。2010年3月8日、午前1時7分の発言。
※3…火付け役となった藤本由香里、日本漫画学会長の呉智英、社会学者の宮台真司、明治大学准教授の森川嘉一郎、「松文館事件」で弁護人を務めた弁護士の山口貴士、日本書籍出版協会の矢部敬一らも出席。同時に、改正案に反対する漫画家としておよそ60人のリストも配られたほか、講談社や集英社、小学館など出版10社も反対を表明している。
※4…中野区・西沢圭太議員(パブリックコメントの開示請求をおこなった)のウェブサイトを参照。2010年5月5日、近況報告の記事。答申素案に対するコメントは全国から1581件(うち都民からは535件)よせられ、うち全面賛成は16件。ほとんどが反対意見であった。
※5…「性描写規制案、再提案見送り……石原都知事」、読売新聞、2010年9月13日を参照


▼ 論点は何だったか? 
この件に関しては大小無数の見解が飛び交っており、それら総てを網羅するというのは到底不可能ですし、またおそらくそれほど生産的な意味も無いでしょう。ただ、混乱した状況をいくらか打開することを目指し、恣意的になってしまうことは覚悟の上で、主要な(インターネットや関連書籍、議論でよく見かける)論点を整理してみます。

《規制反対派》
1.根拠の不当性
規制根拠の不当性を巡っては、主に3つのことが言われています。まず、アニメや漫画が児童に悪影響を与えるという客観的に有力な証拠が存在しないということ。次に、既に業界で行われている自主規制では不十分だという証拠がないこと。最後に、規制が漫画やアニメに限定される理由がないこと。

児童への影響の有無について見てみましょう。共産党の古館和憲都議は「漫画、アニメなどでの青少年の性的描写が青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害する、とする学問的知見」は何かと質問。青少年・治安対策本部は「学問的知見は見いだせていない」と答弁ました(「表現の自由の萎縮招く」:しんぶん赤旗)。また、河合幹雄(桐蔭横浜大学法学部教授)はインタビューで、 「凶悪犯罪で殺された子供は70年代の5分の1」であることを指摘し、規制肯定派の「児童を対象とした犯罪が増加しているから規制を強化すべき」という主張に疑問を投げかけています。

自主規制の有効性を主張するのは、主に出版各社や関係団体。たとえば《コミック10社会》は「これまでの出版界と都当局の話し合いの歴史を踏みにじるもの」と改正案に反発。日本ペンクラブも、「なぜいま表現規制を強化しなければならないのか、納得のいく説明もないままの今回の条例改定について強く反対する」と、更なる規制を設ける理由の説明を求めました。

特定コンテンツに規制が限定されているということは広く指摘されてきました。「ITmedia News」は条例改正案の発表直後から、「オタク文化への無理解というよりも、キャラクター表現へのはっきりとした蔑視」と都条例を批判。条例案の対象が、一部のメディアと性描写に限られていることに不審を表明する論者も多数(※6)。中でも論点とされることが多いのは、改正案第7条2号、「非実在青少年の姿態を視覚により認識することができる方法で」という描写方法の指定部分。つまり条例は、「姿態を視覚により認識」させるものではない小説を規制から外しているが、小説は許されて漫画やアニメだけが規制されるのは不当である、というのである。
※6…漫画家・牧村しのぶは自身のブログで漫画の性描写だけが規制される理由が無いと述べている。また、藤本由香里はTwitterで、「違法行為を不当に賛美・誇張する漫画は子供が読むことを禁止して当然」ってもっともらしく聞こえるけど、それなら『ONE PIECE』も『ルパン3世』も18禁じゃなければおかしい。」と発言。法や条例の原理・原則的適用を求めた。

2.過程の不当性
規制反対派には、都条例改正案の提出・成立へ至る過程を問題視する声もあります。とりわけ、都の諮問機関(東京都青少年問題協議会)の公正さが問題視される。原因は、都条例改正問題の議論で、多くの暴言や差別発言が飛び交っていたことが一次資料(公開議事録)から明らかになったためでしょう。
酷い漫画の愛好者達はある障害を持っているという認識を主流化していく事は出来ないものか。何とか法規制しようとしている人達に対し、漫画家達が凄い数の抗議メールを送ってきたのは、どう考えても暴力だ。法規制の根拠を示す必要も無いぐらいの暴力だ。性同一性障害と同じく持って生まれた嗜好だという事で、子供に対する性暴力漫画を好む人達を放免とするのであれば、彼らは認知障害を起こしているという見方を主流化する必要があるのではないか。彼らに認知障害があり、暴力的だという事が分かっていれば、証拠が無いのに法規制出来るのかという主張を論破出来る。(大葉ナナコ[バースセンス研究所所長])
上は議事録からの抜粋ですが、議事録には複数の委員による似たような言説が並んでいます。正直、こんな認識の人によって都条例が議論されていたかと思うと、怒りよりも悲しみに駆られるし、閾値を超えて眩暈がする気分がします。もっともそういった感情的な反発を除いて、反対派が問題とするのは、協議会が児童ポルノ法で漫画等の規制を強硬に主張してきた人を中心に構成されている、というところになります。つまり、偏った発言が黙認・受容されているような環境で提出された改正案の妥当性に疑問を投げかけているわけですね。

ニュースサイト「Gigazine」はこうした状況を踏まえ、仏の啓蒙思想家ヴォルテールの「私は君の意見に賛成しない。しかし、君がそれを言う権利は、命にかけても守ろう」ということばを挙げ、「「自分が好まないから」というだけの理由でそれを社会全体共通のルールにしてはならない」と反対意見を結んでいます。感情論が横行した当時の風潮の中で、最大限の皮肉をこめながらも落ち着いた批判をした、出色の記事であったと思います。

また、手続きの公正さ、という意味では、審議期間が極端に短く、拙速に成立に向かったことも批判されました。

それとは毛色の違う議論に、「陰謀論」があります。「自主規制団体が増えれば警察官僚の天下り先が増える」という藤本由香里のように、都条例の背後で特定の利益団体の意見が強く作用していることを警告は多く、たとえば次を見てみましょう。
実は、青少協の事務局となっているのは、東京都の青少年・治安対策本部の青少年課であり、条例改正案を策定したのも青少年・治安対策本部だ。本部長や青少年課長は警察庁キャリアであり、警視庁を経由して、都庁に籍を置くかたちになっているという。取締機関が行政機関に浸食してきたかっこうだ。そのような部署に、今回の条例改正案のままに、権限を与えるのは危険きわまりない。
 事実関係は不確かだが、関係者によると、児童ポルノ法の改正で国会が動かないから、東京都で先回りしようと警察官僚が動き、また、インターネット規制絡みでは、業界を所管する総務省と、権限拡大を狙う警察庁の暗闘があるのではないかという。であるならば、まさに東京都の条例改正は不純な企みだ。(保坂展人「どこどこ日記」―「東京都条例で「非実在青少年・創作物規制」の動きが加速」)
本人が「事実関係は不確か」と言っているので信憑性には欠けますが、こういった話は証拠が無いだけに都合良く解釈されやすく、おそろしい勢いで広がりました。要するに条例の動機が不純で公平性に欠けることを言いたかったのでしょうが、どれもおおむね伝聞や推測で、強い説得力を持つものは無い、というのが実態。

3.結論の不当性
条例は原則的に「表現の自由」を侵害しており、認めるわけにはいかない、というもっともラディカルな立場がこれ。規制が行われる・行おうとする思想的な背景を問題とする場合が多い。

たとえば日本ペンクラブは2010年11月25日、「用語の変更等による部分的な修正は見られるものの、あいかわらず根本において、公権力が人間の内面や言論・表現の自由の領域に関与・介入することに対する謙抑的な配慮が感じられない」と新しい改正案に反対する声明を発表。日本劇作家協会ら演劇関係の六団体も、「改正案の条文は言論統制・言論弾圧を招く」(「東京都青少年の健全な育成に関する条例改定案に反対するアピール」)と厳しく非難しました。藤本由香里の次の発言は、表現を分類・差別することに対する反対意見の端的な要約になっていますので、ご一読あれ。
「18禁にする」っていうのは、単純に「売り場を分ける」んじゃなくて、「特殊な人しか読まない特殊な本」というレッテルを貼って「普通の本」の売り場から排除することを意味します。(中略)たとえば、すべての小説が年齢区分をされて、何は書いていいけど何はダメ、と細かくマニュアルが決められているとしよう。そういう自主規制を「小説」に求めることが、「進んでいる」ことなのか? 文芸家協会はそういう自主規制団体を作るべきなのか? それがどんなに貧しい社会かは誰にでもわかる。なのにどうして、同じことを漫画に求めるのは「進んでいる」ことになるんだろう?(藤本由香里Twitter [2010/11/27])

4.条例内容の曖昧さ
反対派の中でも規制そのものの意義を認めるような、比較的穏健な議論の中で最終的に主張されることが多いのが、現状の条例では運用に不安が残る、というもの。特に、条例自体の恣意性が問題視されます。

社会学者の宮台真司は、「東京都青少年健全育成条例改正についての意見書」の中で、「実在青少年に比して、非実在青少年に関わる視覚表現は年齢判断の恣意性が極度に高まる」ため、「非実在青少年を登場させる表現についての表現規制は極めて危険なものだと言わねばならない」と述べ、条例がいくらでも恣意的に解釈でき、幅広い作品が対象になり得ることを懸念しています。

更に、改正「改正案」第18条(※7)の6の4の第1項(案)にある「何人も、児童ポルノをみだりに所持しない責務を有する。」という〈曖昧な〉条文を巡っては、児童ポルノの単純所持を規制するものではないか(児童ポルノ法を逸脱した条例制定権の越権)との指摘もありました。

都側はこれらに対し、非実在青少年の判断について「ランドセルや制服、教室などが明らかに描写されている場合は、18歳未満と判断される。少女のように見えても、そうした点が表現されていなければ、18歳未満とはされない」(MSN産経ニュース、2010/3/18 )と回答。また、同人誌即売会などについて「都が立ち入るなど、規制が強化されることはな」く、この条例で単純所持規制の対象となる児童ポルノを「児童ポルノ法の定義通り」とするなど、恣意的な運用はないことを強調しました。しかしすべて法的な拘束力のない口約束で、条例内に文書化されていないことが問題を大きくしています。「Gigazine」から、コンパクトにまとまった評を引用しておきましょう。
一番の問題は、信用に足るかどうかわからないどこかの誰かが自分の好きなように「これはOK、これはアウト」というのを勝手に決められるという点です。つまり「拡大解釈による恣意的な運用が可能」であるというのが最大の問題点です。中世の魔女狩りや戦前の治安維持法の再来と言っても過言ではありません。いくら行政が「そんな運用はしない」と言っても、条例にその旨を明確に記載していなければただの口約束に過ぎません。(「「非実在青少年」問題とは何なのか、そしてどこがどのように問題なのか?まとめ」Gigazine、2010/3/19)
都はまた、2010年4月26日付で「東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集」をホームページに掲載。反対論の誤解や曲解を指摘し、規制の正当性を主張するはずでした。しかし、これらの回答はいずれも条文に記載されておらず、遵守すべき法的義務がありません。反対派はむしろ、運用側による恣意的な解釈が実際に行われる可能性を示唆するものであるとみなし、双方の対立は余計に深まったのでした。
※7…6の2から6の5の追加に関しては、児童ポルノの根絶及び青少年性的視覚描写物の蔓延防止を目的とした項。

5.間接的規制論(自粛論/事実上の規制論)
販売規制が事実上の表現規制になる、という議論がこれにあたります。
・東京都は国から予算援助を受けていない独立性があり、他県への影響は絶大。
・また昔から、東京は「国に先駆けて新しい法を通す」という傾向が強いらしい。
・実は同様の条例を出したがっている道府県は多い。千葉が筆頭。
・東京が可決すれば、一気に全国に波及するのは間違いない。
・一定規模まで可決道府県が増えれば、国もそれに歩調を合わせて同様の行為を取るであろう。
(「緊急集会!どうなる都条例!?」に行ってみた)
販売規制によって、書店などで販売されない、流通に乗せられないケースが増え、出版社やクリエイターが「自粛」せざるを得ないような間接的表現規制が行われる。とりわけ、製作、出版、販売に関与する企業および本社が集中し、消費の中心でもある東京都で規制が行われることの影響の大きさが問題となります。また、各道府県の条例は東京を基準に導入されることが多く、全国の流通に影響を及ぼす可能性が高い。このため、都に限定される条例ではなく事実上法律で規制するのとほとんど変わらない、と反対派は主張するわけですね。

付随して、表現自体や産業が萎縮する可能性が高く、日本のコンテンツ産業に大きなマイナス効果を与えることもいわれました(※8)
※8…明治大学准教授・森川嘉一郎は、「コデラノブログ四 : 非実在青少年規制反対集会速報」で次のように述べている。「悪質な連中を排除すれば、輸出にいいのではないかと言われる。しかしそれでは、本質となる競争力をそぐ結果となる。競争力とは、基盤となっている競技人口の多さである。ピラミッドは裾野が広いほど頂点が高い。豊かさを支えているのである。」

6.今後規制が拡張される可能性
現行の条例が曖昧であるというだけでなく、今後拡大されていく可能性が高いというもの。

たとえば日本漫画家協会、21世紀のコミック作家の会、マンガジャパンの漫画家三団体は2010年11月29日、新改正案に反対する声明を発表し、記者会見を敢行。声明では「刑罰法規には淫行条例なども含まれるため、非実在青少年に対して抱かれた懸念は一向に解消されていない」と指摘。さらに「非実在青少年」という言葉が削除され18歳以上の男女も対象となりましたが、年齢の上限が存在しないことで、規制の範囲を拡大する内容になっていることに危機感を示しました(※9)

また、今回の規制に類似した規制が他国や過去の日本において、いかに危険な言論統制につながったり、悲惨な文化崩壊を招いたかということを述べ、過去との比較で危険性を主張する論も多くあります。日本ペンクラブは「戦前の日本の為政者たちが青少年の健全育成をタテに、まず漫画を始めとする子ども文化を規制し、たちまち一般の言論・表現の自由を踏みにじっていった歴史」があるとして、警鐘を鳴らしました。

反対論者が主張する「類似した歴史」については、以下のサイトなどに詳しいので、URLを紹介しておきます。「Gigazine表現規制のまとめ」、「日本でのマンガ表現規制略史」、「日本の有害コミック運動」。
※9…他にも、日本弁護士連合会は「『東京都青少年の健全な育成に関する条例』の一部改正に関する会長声明」(2010/5/21)を発表。改正案は家庭教育への行政の介入や表現の自由の侵害といった事態を招きかねないと危惧を表明した。また日本脚本家連盟も、改正案を「行政による思想・感情への介入の契機」ととらえ、反対する声明を発表している。


《規制肯定派》
一方、規制する理由は何か。規制反対派と違い、肯定派の主張には、基本的に大きな差異はありません。まとめるの楽だ!! まずは、そもそも規制がどのような目的のもとに行われたのか、そのことを確認しておきましょう。都条例改正案のはじめにはこう書かれています。
児童ポルノに係る問題により適切に対処するため、児童ポルノの定義を明確化するとともに、みだりに児童ポルノを有償でかつ反復して取得すること等を処罰する規定を設けることとし、あわせて心身に有害な影響を受けた児童の保護に関する施策を推進する必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。
児童の保護と、児童の心身に有害な影響を与えるもの(児童ポルノ)の取り締まりが目的と明記されていますね。児童は守られるべき、という前提に基づく規制賛成派の主張は、大きく次の二つに分類されます。

1.規制絶対論
不健全な表現は存在すら許さない、という主張は規制賛成論者に根強い。この立場は、主に児童ポルノ追放への切実な要求から来ているわけです。漫画やアニメにおける表現も、それを見た児童の心を傷つけるという意味で現実の児童に対する性的犯罪と同等の児童虐待行為であるという考えと、漫画やアニメにおける児童ポルノ的表現が、現実の児童ポルノを助長している、という二つの主張があります。それぞれの主張を具体例で確認しておきましょう。
現在、都議会で審議中の青少年育成条例改正案には、児童ポルノの根絶や、青少年を性的対象として扱う漫画・アニメ等の規制が盛り込まれています。報道によれば、昨年の児童ポルノ事件は全国で前年比約4割増しの935件と過去最多であり、小学生以下の被害者も約7割の65人となるなどの状況にあり、保護者の不安はこれまでになく高まっています。また、漫画やアニメであっても、幼い子どもが自分から性交を求め、快楽を得ているかのようなもの、親子や姉弟・兄妹間の激しい性交が愛情表現の一環であるかのように片付けられているものなど、大人ですら良識のあるものなら目をふさぎたくなるようなものが、何ら規制されることなく書店の店頭に置かれています。このように、現状では、児童が性的対象になることが野放しの状態で蔓延しています。しかし、私たちは、子どもたちが児童ポルノの犠牲者となり、その姿が大人の性的視線にさらされ、インターネット上で永久に広まっていくことを許すことができません。また、こうした漫画等の蔓延によって、青少年の判断能力や常識、価値観が幼いときから歪められてしまう危機感を強く感じています。子どもを守るため、子どもが健やかに育つために、児童ポルノを根絶すること、子どもを性的対象にする図書が青少年の目に触れないようにすること。たったこれだけの願いであるにもかかわらず、一部には、えん罪や表現の自由の規制を理由に、この条例改正案に反対している人がいると聞きます。これは、子どもを守るよりも自分を守ることが大事だ、と言っていることに他なりません。(社団法人 東京都小学校PTA協議会「青少年健全育成条例改正案の成立に関する緊急要望」[2010/3/15])
ロリコン漫画や萌えアニメに刺激された異常な大人達が小学生を襲っています。乱れきった日本人の性倫理を矯正するという意味においてもこれらを法規制するべきです。(森山真弓コメント[元自民党衆院議員])

2.非表現規制論(販売・閲覧規制論)
一方、表現自体は許容しつつも、表現が目に触れる方法を問題視する立場があります。

この立場では、児童にとっては不適切な表現でも、それを成人が見ることは許容されるべきで、したがって都条例問題は表現方法ではなく販売や展示の方法に絞られることになります。浅野克彦都議などは、流通・販売の規制で表現がとりしまられてしまうのは法制度の問題ではなく業界内部の問題であるということを鋭く指摘していました。
規制されたときは萎縮は出る。悪いことだが、萎縮あるから可決していけないという話なのか?児童ポルノ法の際にバカボンドが紀伊國屋から撤去された例があるが、行政はそのようなことがないよう説明する必要がある。萎縮をさせる大本は条例だが、直接は出版社。漫画家・作家は飲まざるをえない。日本の出版界が構造的に作家にしわ寄せしていることに目をつぶっては駄目だ。萎縮するから規制をかけるなではなく、出版、編集に取り組みを求めるべき。(中略)業界として取り組みが不足している。たとえばコンビニではコンビニのフランチャイズ協会が置く置かないの力を持っている。取次も口を出すべきだ。一方で、指定された書籍を書店が置いていると罰金を受ける。それを出版社が全て守るのは難しい。小売りの抗弁手段が必要では。(「浅野都議の質疑応答」すちゃもく雑記、2011/8/11)
浅野は同インタビューで、規制がアニメやマンガを名指ししたことについて「条文上いらない文章」であると認めた上で、都の委員会はメンツがあるので修正案に賛成しないし、共産党は修正案したところで賛成しないからその点で争うのは無意味だ、としています。

また、「非実在青少年」の定義が曖昧だという指摘に対し、都は次のような見解を示しました。
作品の設定として、年齢や学年、制服(服装)、ランドセル(所持品)、通学先の描写(背景)などについて、その明示的かつ客観的な(1)表示又は(2)音声による描写(台詞、ナレーション)という裏づけにより、明らかに18歳未満と認められるものに限定するための規定であり、表現の自由に配慮して、最大限に限定的に定めたもの。
したがって「単に『幼く見える』『声が幼い』といった主観的な理由で対象とすることはできず、恣意的な運用は不可能」。視覚的には幼児に見える描写であっても「18歳以上である」などの設定となっているものは該当しない、というのが都の見解ということになるでしょう。

「性交又は性交類似行為」の規定があいまいで解釈が恣意的になる可能性についても、法令用語として行為は明確に規定されており、「性交を示唆するに止まる表現や、単なる子どもの裸や入浴・シャワーシーンが該当する余地はない」と回答しています。

最終的に改正案では、都の責務として、「都は、青少年性的視覚描写物をまん延させることにより青少年をみだりに性的対象として扱う風潮を助長すべきではないことについて事業者及び都民の理解を深めるための気運の醸成に努めるとともに、事業者及び都民と連携し、青少年性的視覚描写物を青少年が容易に閲覧又は観覧することがないように、そのまん延を抑止するための環境の整備に努める責務を有する」とし、「まん延を抑止する」という条文についても「青少年が閲覧又は観覧することを抑止する、という意味である。成人への規制を意味するものではない」との見解を公表しました(ただし、よく指摘されているとおり、これらは条文に実際に明記されていることではないから後々どのようにでも解釈されうる、という反対派の主張に対して明確な反応はありません)。

以上をまとめれば、都条例賛成派には2つの主流があり、一方はアニメ・漫画やゲームにおける児童ポルノ的な表現そのものを否定しようという急進派。もう一方は、表現は許容しつつも販売・閲覧の規制を行おうという穏健派だ、ということになるでしょうか。いずれにしても両者に共通するのは、児童を有害な表現から保護する、という基本コンセプトです。

▼ 猪瀬直樹の対談 
さて、ここまで私たちは、都条例をめぐる主要な論点を個別に確認してきました。ただ、肯定派も否定派も、虚空に向かって大砲を撃っていたわけではありません。中には、公の場で議論をするなどして、考えをすり合わせようとした、あるいは少なくとも、問題の輪郭をはっきりさせようという動きもありました。

では、実際に両者はどのような議論を行ったのか。おそらく最も注目され、論点もはっきりしていた議論の1つとして『思想地図β』誌での対談(※10)をとりあげ、具体的に内容を追い掛けてみたいと思います。

まず、対談がどのようなものであったか、簡単にですが確認しておきましょう。対談の参加者は猪瀬直樹(小説家・東京都副知事)、東浩紀(批評家・小説家)、村上隆(芸術家)の3名。全員が表現者であり、東や村上は非実在青少年問題と関わりの深いテーマで表現を行ってきた人物です。対談は、彼らが「表現」を巡る条例をどう捉えるか、立場の違いが明確になり刺激的でしたがそれ以上に、『思想地図β』側の仕掛けで、猪瀬との対談を収録したページに、幼い年齢の少女たちを題材としたきわどい(東曰く「挑戦的な」)イラストが掲載されたことでも話題を呼びました。そのイラストは、(少なくとも猪瀬にとっては自分の対談と共に掲載することを許可したのですから)この程度なら「都条例」の範囲内であるという一つの線引きとなる一方で、イラストを行き過ぎたエロティックな表現と捉える人にとっては、条例の客観的な基準を引くことがいかにして可能であるかを問いかけるものであったともいえるでしょう。

では、肝心の対談内容はどのようなものだったのか。基本的には猪瀬が都条例の〈真意〉を語り、それに東と村上が意見を述べる形で対談は進行します。猪瀬の発言をいくつか抜粋して、論点を確認してみましょう。
性的な嗜好はまったく問題ない。だから、描くなといっているのではなくて、区分陳列しろといったんです。小学生がいるような場所に置かずに、ちょっと背伸びして取れというだけなんです。
メディアの一部で、言論の自由を否定するのかと滅茶苦茶なことをいってくるんです。どうして問題の本質に迫らないで、耳に聞こえがよい方向に単純化されるのか、浅すぎる。言論の自由を否定するわけがない、僕は言論人なんだから。表現の自由を否定するなんてどこにも書いてない。
それ(小学生のキャラクターが強姦されている表現。※引用者註)は全然否定していません。ゾーニングですから。小学生でなければ、あるいは中一ぐらいからなら、小口止めをしてあれば明らかに買いにくいでしょうね、店員の前で。それで十分に目的は達成されるのではないかな。
規制反対派からは蛇蝎のごとく忌み嫌われる猪瀬ですが、ここで言っていることは比較的まともというか、穏当にも思われます。

猪瀬は、都条例が目指すのは販売の制限であって、表現の問題とはいっさい関わりがない、ということを何度も強調する。都条例は「ゾーニング」の問題で、したがって表現とは関わらない、という一貫した立場を貫いています。表現を摘発する条例ではなく、販売方法を制限する条例であり、目的は児童の保護、ということになるわけです。

これに対して東は、4つの疑問を提示していました。
(1) これまで出版社は自主規制をしてきており、それでは不十分だという根拠は何か。現状がすでにやりすぎだ、というその判断自体が、アニメやマンガ文化の外側にいる人の恣意的なものではないか。(「とはいえ棚問題だとしたら、成年マンガのゾーニングはいまもうあります(※11)よね。」)
(2) 「棚規制」(ゾーニング)は、実質的に制作者の「自粛」を招き、表現に影響するのではないか。(「いまや一般流通の映像作品はかなり自主規制を強いられている。そこからさらに規制を被せる必要があるでしょうか。」、「少なくとも制作者が自粛はしますよね。」)
(3) 都条例の判断は、恣意的基準に基づかざるをえなくなるのではないか。(「ただ、現実に性交を描いていないときに、子どもが性行為もしくは性的な欲望を感じるかのような表現を取り出し、それを規制の対象にするというのはやはり難しいですよ。」、「現実に存在しないキャラクターを対照にして、これは子どもに見えるとか、子ども同士のセックスを連想させるという話になってくると、恣意的にならざるをえない。」)
(4)「やりすぎ」の作品は、アニメやマンガの中でも例外で、個別対応すべき。(「規制強化の方針には疑問が残る。そもそも『チャンピオンRED』はかなり例外的な存在であり、個別に対応すればいい。」)
東は問題の本質を、ポルノ漫画やアニメを、既に自主規制されているにもかかわらず無秩序だと感じてしまうような「文脈を共有できない他者」に出会ったときに、説明責任をどう果たすのかということだ、としたわけです。

東の反論をうけた、猪瀬の再反駁は次のようなものでした。

まず(1)の点について。「ロリはゾーニングされていなかった」こと、また、客観的な諮問がない自主規制だけでは結局「抜け駆け競争」になることを指摘した。

(4)に関しては、「一役所が個々の出版社を指導したらそれこそ言論弾圧」であり、条例をガイドライン化するのが妥当である、と言っていました。

(3)については、「東京都青少年健全育成審査議会」(※12)による審議が行われ、審議の過程も文書で公表されること、不健全図書の規準は、強姦・強制わいせつなど「刑罰法規に触れる性交または性交類似行為」や「近親相姦」などの「著しく社会規範に反する性行為を、著しく不当に讃美しまたは誇張するように描写した漫画等」という明確な規準が設けられていることなどを挙げて反論していました。これはつまり、恣意的な判断が行われる心配はない、と強調していたのだと思います。

(2)について猪瀬は、直接的な返答をしていません。ただ、「小口止めをして販売すればいい」と繰り返しているので、おそらく販売制限までは面倒を見ない、ということなのでしょう。

東と猪瀬の議論に優劣をつけることは、ここでの主な関心ではありません。しかし、議論の煮詰まった感がある中盤、猪瀬から出た次の発言は、この問題に関する両者の埋めがたいスタンスの違いをはっきりと表しているように思われました。
これは僕の個人的意見ですが、刑法41条で14歳未満を「刑事未成年者」といって、殺人をしても責任に問われないというのが、三島由紀夫の作品『午後の曳航』のテーマでしたね。ラインはそこにあります。18歳というのは児童ポルノ法で出ているラインで、条例は当初整合性のため年齢をそこに合わせたかたちになっていただけです。
結局のところ、「東京都青少年健全育成審査議会」がどのような判断基準を設けようと、「著しく社会規範に反する」や、「著しく不当に讃美」といったラインがどこになるか――たとえば18歳なのか14歳なのか――は常に問題となります。猪瀬は、その判断の妥当性が高ければパブリックなものとして受け容れるべきとしているわけです。ある意味、常識とか良識に対し、素朴に信頼を置いている。これに対し東は、判断はどこまでいっても「個人的意見」でしかありえないと考え、そのような判断によって規制が設けられること自体を問題視している。東は、そういった常識や良識が機能しなくなる可能性を、ずっと重く見ていると言えるでしょう。

私が見る限り、猪瀬直樹が語った内容は、多くの「都条例」反対派に対する的確な反論となっています。しかしまた、東のような原理的懐疑の立場も当然ありえる。そうなった場合、両者の議論は性善説と性悪説の対立のように、平行線をたどらざるを得ません。それでは両者の問題は、結局のところ政治的に強い立場に立った者が勝つというパワーゲームで収束するしかないのでしょうか。

私は、そうではないと主張したい。ここにはまだ、見過ごされている問題点があるように思われます。最後に、この点について確認しておきましょう。
※10…特集「非実在青少年から「ミカドの肖像」へ」(『思想地図β vol.1』、合同会社コンテクチュアズ、2011年)
※11…18歳以上の読者を対象とする性的描写などの多く含まれたマンガに対しては、出版社や販売店によって流通上の自主規制が設けられている。たとえば、「成人向け」を明記するマーク(ゾーニングマーク)の添付など。
※12…「業界に関係を有する者」として出版倫理協議会、映画倫理委員会、日本フランチャイズチェーン協会の代表者から1人ずつ3人、「青少年の保護者」として東京母の会連合会、東京都地域婦人団体連盟、東京都公立中学校PTA協議会から一人ずつで3人、「学識経験を有する者」として都議会議員(民主2人、自民1人、公明1人)、法曹倫理・番組向上統括調査役、読売新聞論説委員、毎日新聞論説委員、社会福祉法人の監事で8人。「関係行政機関の職員」として東京法務局人権擁護部長、東京少年鑑別所長、警視庁生活安全部少年育成課少年非行対策官で3人。「東京都の職員」として青少年・治安対策本部総合対策部長、福祉保健局児童相談センター次長、教育庁地域教育支援部主任社会教育主事の3人、合計20人で構成される委員会。


▼摘みとられるもの
問題を分かりやすくする補助線として、ジャーナリスト・ジョナサン=ローチの『表現の自由を脅すもの』(※13)という著書を参照しましょう。マスメディア関係者であったローチが、政治的に「表現の自由」が圧殺される問題について書かれた本で、いささかフェミニズムに対する怨念めいた感情が見え隠れしますが、名著として頻繁に話題になるし、実際、事実関係の整理が巧みで興味深い本です。難点は、絶版で手に入りにくいこと。

さて、ローチによれば、「自由な社会・政治体制」には3つの種類があるそうです。1つは民主主義(政治的自由)、もう1つは資本主義(経済的自由)、そして最後に、知的自由。これはそれぞれ、「誰が権力を行使するか」、「資源を如何に配分するか」、「誰が正しいか」を決める自由に対応しています。ローチが「表現の自由」を巡る問題で注目するのは、3番目。知的自由です。言い直せば、ローチの根本的な問題意識は≪社会における正しさの決定がいかにして可能か≫というところにある。

知的自由を脅かす代表的な勢力は、「平等主義」と「人道主義」の2つだ。そのようにローチは言います。これはなかなか挑発的。しかし、言わんとすることは分かる気がします。前者は行き過ぎると科学的な知識の正当性を無視し、あらゆる決定を不可能にするアナーキズムを招く。後者は、権威によって科学的な知識の自由を致命的に抑圧する。そのことをローチは、実際におこったできごとに基づいて、分かりやすく説明します。

「平等主義」者はたとえば、《天動説にも地動説と同じ価値を認めて学校教育に組み込むべし》のようなことを言い出す。誤った考えでも、人の「信念」なのだからケチをつけるな、というわけです。〈あらゆる信念には等しく価値がある〉という、一見素晴らしい考えが、時にとんでもない事態を招くきっかけになる。

一方「人道主義」者は、どんな人であれ「言葉や観念をもって他人を傷つける権利はない」という考え方を口にします。分かりやすい例はポルノでしょう(ローチもポルノを例にとっています)。「人道主義」者は、誰かに不快感を与えるようなポルノは禁止されるべきであると言う。言論の自由を訴える人びとはこれに対し、不快かどうかは主観的な判断に過ぎない、と反論するでしょう。けれども「人道主義」者は、「イメージや表現や言葉などが、実際上、加害や暴力の一形態となりうる」と主張するのです。

両者はともに、「物理や歴史やジャーナリズムなどの活動にまで及ぶ自由な知的体制」を脅かす存在となる。ローチはそのように言います。なぜなら、人間は「ひとり残らず、何時でも間違いうる」のであり、「なんぴとといえど、最終的発言権は持たない」のだから。「平等主義」や「人道主義」は、絶対に正しいと自分が信じているだけのことを、全ての人に押し付けようとする、危険な思想だということになります。別の言い方をすれば、本質的に可謬性を持つ人間という存在が、ある権威でもって知識を制限することがあってはならないということです。

ローチは、自由な知的体制のことを「自由科学」と呼びます。そして、「平等主義」や「人道主義」は、「人間の知識の平和的生産的発達とは相容れない」のだとバッサリ切り捨てる。ただしこの話は、人間の「信念」に限られます。可謬性という意味で互いに平等な「信念」と違い、「批判の前にさらけだされ、しかもその間違いを暴露しようとする試みに対して耐え」きった命題から生み出される科学的「知識」は真実として意味を持つのだとローチは言います。そうして、これが大事なのですが、「知識」は自由な批判(生産的な対立)の果てにしか存在し得ない。

平等に決定権を持たない「信念」と異なり、「知識」は残酷で不平等ですが決定権を持ちます。「信念や言論の自由をどこまでも主張するが、知識の自由は断固拒否する」。ローチの立場はこの一言で代表されていると言えましょう。社会における正しさの決定に不可欠な「自由科学」は、表現の自由の上にしか成り立たないのです(※14)

以上のようなローチの主張は、「非実在青少年」問題と重なる部分が大きいことに気づくでしょう。

都条例は確かに、猪瀬の言うとおり、直接的には販売規制に過ぎないのかもしれない。そうだとすれば、確かに多くの規制反対派が主張する、「表現の自由の侵害だ」というロジックは、通用しないように見えます。実際、「まともな」知識人たちの議論は主に「ゾーニング」として今回の規制を見るという方向に流れましたし、それゆえ「表現の自由」を訴える人々は、いささか狂信的な原理主義者と扱われるような空気が、議論空間では存在したように思います。

しかし、本当に「ゾーニング」なら構わないのでしょうか。ローチに寄りそうならば、その根底には、2つの問題が横たわっています。1つは、漫画やアニメなどにおける暴力表現や性表現が、直接的な暴力行為・性行為と同一視されているという問題。もう1つは、「有害」なものをどう扱うかを考え、選ぶ自由が奪われるという問題です。

たとえば、対象が児童ポルノではなく、ナイフならどうでしょう。一部の特殊な状況を除いて、ナイフを見せたり触ったりすることは直接的な暴力行為ではないはずです。また、児童を傷つけるかもしれない危険な道具であるナイフを、こどもに触らせてはならない、という条例ができたとしたら、さすがにやりすぎ。ナイフを振り回すことと、ナイフを振り回すと表現することとは、やはり直接的にイコールではないのです。性描写も同様で、描写に対して圧力をかけることで行為そのものを取り締まろうという考えには、やはりどこか、不自然なところがあると言わざるを得ません。

とはいえもちろん、それが妥当だと考える人はいるでしょう。そのような主張が私的に行われている間は構いません。むしろ、行われるべきです。しかし、その決着を、「公」が決める必要は、全く無いはずです。

公的な条例によってどちらかの判断が正しいと決められるということは、その逆を主張する自由を奪われてしまうことを意味します。都条例にあてはめれば、児童ポルノが本当に、どのくらい「有害」なのか。あるいは、「有害」なものは目に触れさせないのが本当に一番良いことなのか。そのように問うことができなくなるわけです。どこまでが「有害」かは、ローチの言うところの、可謬的な判断でしかないのに、です。違う意見がでる可能性に目をつぶり、無理矢理一義的な判断をあてはめることをよしとする態度は、「自由科学」をおびやかすもの以外、何物でもありません。

今回の都条例に従うならば、近親相姦を描いたマンガは「無害」だという主張も、近親相姦を礼賛していれば小説であっても取り締まるべきだという主張も、ともに議論の余地無く却下されるでしょう。肝心なのは、私たちが議論をして自分たちで正しさを考える自由が奪われる、という点にある。ローチならば、そのように言うはずです。

そしてまた、次のように言うことも可能です。汚く、醜いものに触れてはならないと児童に教え、傷つくことから守る。それは一見、優しく正しいことのように思える。けれど、本当にそうなのかを、どうして「東京都」が決めねばならないのでしょう。都が定めた事情を押しつける条例は、押しつけられる私たちや当事者である児童から、自由に感じ、考えることを奪う暴力になる可能性も含んでいる。そのことを、私たちは忘れてはならないのではないでしょうか。

ゾーニングという制度自体に対する原理的な批判としては他にも、身体論の立場から論じた鷲田清一『感覚の幽い風景』などがあります。ただ、ここはあくまでも表現を巡る議論に止めたかったので、ローチの流れから検討してみました。

「非実在青少年」については、さまざまな議論や立場があり、思想信条の面からも簡単に片づかない問題であることは承知しています。ですが、だからこそ私たちは、より慎重に、そしてより深いところでこの問題を扱うべきでしょう。

漫画やアニメやゲームでの性的な表現が規制されること。それは確かに、深刻なことです。けれど、本当に重要なのは、その問題に対して議論する権利が奪われることではないか。それこそが、「都条例」に潜む最大にして最も恐るべき表現規制の可能性なのではないか。ローチの著作は、そのような視点を私たちに与えてくれているように思われるのです。
※13…ジョナサン・ローチ著/飯坂良明訳『表現の自由を脅すもの』、角川書店、平成8年
※14…ローチは「意見の相違を表出しかつ解決するための社会の原則とは如何なるものか」と問いかける。ローチによれば5つの決定原則が存在する。1.ファンダメンタリスト(原理主義)的原則(真理を知る人々が、誰が正しいかを決める)。2.単純平等主義的原則(あらゆる真摯な人々の信念は平等に尊敬されるべき)。3.急進平等主義的原則(あらゆる信念は平等だが、歴史のなかで抑圧されてきた階級や集団に属する人々のそれには特別な配慮をする)。4.人道主義的原則(1〜3のどれでも構わないが、人を傷つけないこと、というのを第一原則とする)。5.自由主義的原則(公然たる批判を通してお互いにチェックしあうことが、誰が正しいかを決定する唯一の原則である)。もちろん、ローチが支持しているのは「自由主義的原則」である。


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