よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/06/16(日) 23:23:11

軽々しい気持ちで取り上げる問題ではないと思うのですが、やはり衝撃的だったので、少しだけ。

北海道の、この事件

------引用------
 【帯広】「加害者以上に交通事故が憎い」―。釧路地裁帯広支部で12日、死亡事故を起こしたとして自動車運転過失致死などの罪に問われた男(51)の論告求刑公判が行われ、この事故で父親を失った十勝管内清水町の男性会社員(37)が被害者参加制度を利用して意見陳述を行った。男性はこれまで、別の2度の交通事故で妻子と妹を亡くし、今回が4人目の身内の不幸。法廷で男性は涙をこらえ輪禍の根絶を訴えた。

 男性は2001年、知人の運転する車に同乗していた妹=当時(21)=を単独事故で失い、12年には自らが運転する車が一時停止を無視した別の車に衝突されて同乗の妻=同(35)=と次男=同(3)=を亡くした。

 今年3月には、交通整理をしていた父=当時(61)=が、清水町で乗用車にはねられ死亡。起訴状によると、運転していた男は酒気を帯びていた。

 男性は意見陳述で「3度にわたり4人の家族を交通事故で奪われた者は、この世で私以外にいるのでしょうか」「心が張り裂ける思い」などと悲痛な思いを吐露。「(被告の男が)危険運転致死罪に問われず無念。本件が厳しく判断されることで、父の死が交通事故の抑止になってくれることを強く望む」と、時折言葉を詰まらせながら話した。<北海道新聞6月13日朝刊掲載>
------終了------

最近、近くはない親戚が事故で亡くなったこともあって、ちょっと事故の話に敏感になっていたところに……これは壮絶な話です。自動車事故で、自分だけが生き残ってしまった話なんかも聞きますが、そういうのとは別種の悲惨さがある。

「加害者以上に交通事故が憎い」という、遺族の方のことばが、胸に来ます。人ではなく、罪を憎む。よく言われることではあるけれど、たぶん、とても難しい。それを言い得てしまうところに、限りない、やりきれなさを感じます。はたして、どんな想いで口にしたのだろう。もちろんそんなこと、わかろうはずもないのだけれど。

私たちは、人の罪を「懲役何年」とか、「罰金いくら」のように数量化して――つまり計算可能なものとして扱うという文化に慣れています。でも、これは良くないなぁと思う時もある。

思い出すのは、『金田一少年の事件簿』の「悲恋湖殺人事件」。ある海難事故で、ボートに近づいてきた女性が突き飛ばされて命を喪い、彼女を「殺された」と恨んだ兄によって、突き飛ばした男が命を狙われるという筋書きです。

「緊急避難」がテーマであったと言われるこの事件は、果たして突き飛ばした男は罪に問い得たのか――つまり、「誰がどのように悪かったのか」をめぐる問題として扱われることが多いのですが、私は少し、そういうのとは違った感想を持ちます。

私が印象的だったのは、むしろその突き飛ばした男が罪の意識に苛まれ続けたというエピソード。彼は、「緊急避難」が適用され、裁かれなかったことによって、かえって苦しんでいたのだとも言えるでしょう。

そしてまた、彼を憎んだ被害者の兄も、彼に妥当な裁きがくだらなかったことで、その憎しみをふくらませた。そう考えればこの事件は、「起こってしまったこと」に対して、適切な事後処理が行われなかったがゆえに起きた事件だったわけです。

たぶん、現代の法に必要なのは、その意味の「適切さ」を提供する力ではないか。私は、そんなふうに思うのです。

世の中というのは不条理で、時には信じられないことが起きてしまう。帯広の交通事故の話は、それこそ天文学的な確率なわけで、そういう、人間には及びもつかないような「何か」の力を否応なく感じる事件です。

でも、ここまでの事件でなくても、およそ多くの「事件」というのは究極的に、被害者にとっては(あるいは加害者にとっても)なぜ起きたか分からないものなのではないでしょうか。

大昔はそれを「因縁」のように言って宗教的に納得する回路がありました。でも、いまは「動機」のような因果関係と、「量刑」による数値換算ですべてを説明するために、その「わからない」部分が――つまり、「やりきれない」部分が、どこにも行き場を失って、処理されないまま残ってしまう。

法や制度が、単なる機械的な判断基準を超えて、社会に益するものであるには、その見えない部分をなんとかすくいとる必要があるのではないかなぁ。「大岡裁き」の見事さというのは、公明正大だというだけではなく、その裁きによって、不利益を被った側も適切に位置づけられたというところにあるのでしょう。

被害者だけでなく加害者にとっても、ただしく罰されるということが救いになるということは、ありえるはずです。そしてそのただしさは、どこかに数値化して書いてあるものではなく、その社会に生きる人々の合意のうえに成立つものであるはずです。

交通事故というのは、どう裁かれるべきなのか。その適正さというのは、法学者ではなくてむしろ、私達「国民」が考えるべき問題なのかもしれません。

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