よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/07/17(水) 07:04:52

文学でも映画でもエロゲーでもいいんですが、ある作品を鑑賞する立場として、「作品内在」ということが時々言われます。まあ「内在」ということばそのものは、やや水ぶくれ気味になっていて明確な定義が難しいことばなのですが、要は、物語の登場人物たちの立場を踏まえた上で鑑賞しよう、というくらいの意味で良いかと思います。歴史的には、作家論の流行や、それに対する「内在批評」の展開といった背景があり、どちらかと言えば既存の鑑賞形式を「外在」として纏めあげて、それらに対抗するために言われ始めた語という感があり、それだけに、敵に応じて「内在」の意味も揺れ動く、そういうタイプの語ですかね。

で、私自身は比較的この「内在」という態度が好き……というか極端な「外在」的態度があまり好きではないせいで、頻繁に「内在」ということを言います。

私の言う「外在」とは、たとえば、女の子を賭けて決闘する物語を読んで「女性をモノのように扱うとはけしからん」と言い出したり、愛していた恋人が死んだことを嘆いて自ら命を断つ登場人物に対して「自殺は不道徳だからけしからん」と言ってみたり……。まあそういう、作品に描かれている内容そっちのけで、自分の立場からしかものごとを見ないような、そういう態度です。

で、「外在」はあんまり面白くないから「内在」を心がけたいよね、みたいな話をしていたら、ある友人が「その割にOYOYOくんは分析とか何とか言って、素直に読まないよね」みたいなことを言われまして。もう一人その場にいた友人にもうなずかれてしまいました。

それを聞いて、「ああ、やっぱりなぁ」と思いました。どうも「内在」というのは、自然で素朴な読み、のように思われているフシがある。たとえば、自分がそのキャラになりきって、心情を代弁するような。でも、そうではありません。

確かに、私は頭でっかちなことを言うし、物語に対してもそうすることがままあるのですが、そのことは基本、「内在」的であることとバッティングしません。

たとえばシェイクスピアの劇を観て、劇に「内在」するためには、16世紀ごろのヨーロッパの文化や常識を、ある程度知らねばならないでしょう。ハリウッド映画でも、中国の古典でも同じことです。ある世界の中に入っていくためには、その世界についての知識や何やらが、当然必要になる。

いや、そんなことはない。そういう物語には、人間の普遍的な感情が描かれていて、だからいま現在の自分が感じた自然で素直な感情のままに読めば良いのだ、という人がいるかもしれません。しかし、私はそういう態度こそが、「外在」的な態度の極致ではないかと思う。なぜなら、ある物語に「普遍的な」感情が描かれていると簡単に言ってしまうということは(その前提で読むということは)、その物語の世界はただの仕掛け(手段)にすぎなくて、他の物語でも代替可能だと――つまりその物語世界は「不要」だと――言っているのに等しいからです。物語の内にはいるなら、そんなことを言えようはずがない。

「外在」的な読みを支えるのはおそらく、知識ではなく共感です。私にとっての常識が、同時代の他の人たちにも、そして当然、場所も時代も異なる物語世界の内部にも、通じるはずだという意識。そういう共感への無批判な信頼に根ざしている。

あるいは全く逆で、そもそも意思疎通など不可能だという諦めに基づいている場合もあります。読み取るなんて不可能だから、それなら勝手に押し付けても良いだろうという開き直り。

このどちらかによって、外在的な読みは成立するのでしょう。行き着く先は、「私はそう思うから」という根拠で、「私はそう読みたいから」という読みを、作品に押し付ける態度です。まあ私はやっぱりあんまり好きじゃないし、面白いとも思いません。

これが、作品でなく人間だったらどうでしょう? たとえばあなたが、目に砂が入って泣いていたとします。それを見た誰かが、「あいつは涙を流している。私は悲しい時に涙を流すから、あいつも悲しいことがあったにちがいない」とか言い出したら、「何じゃそりゃ」と思うでしょう。求められるのは、人間が涙をながすシチュエーションに対する知識と、周囲の状況(風が吹いている、砂が舞っている等)への分析です。

心理にしても同じことで、態度のひとつひとつ、言葉遣いのひとつひとつから、丁寧に拾い上げていくしかない。「内在」というのはだから、誰でもが理解できるような客観性を示し、つきつめていくのと似ている。目の前の対象を、あくまで自分と違うものだと考えて、それにアプローチを仕掛けていくわけです。あの人はこういう態度をとって、こういう発言をして、日頃はこういうことを言っているそうだから……っていう感じで。

その結果、対象本人が気づかなかったような心理が出てくることもあるかもしれません。ほら、あるじゃないですか。他人から言われて自分のクセに気づくとか、自分の気持ちに気づくとか。それは、読み手の解釈を押し付けているのではなくて、対象の側から見えなかったものを引っぱり出しているわけです。

もちろん、「内在」というのは完璧に行うことは不可能です。なぜなら、対象はあくまで対象でしかなく、「自分」になることは無いのですから。しかしだからこそ、そこで安易に自分と対象を重ねたり、「どうせ分からない」と開き直ったりせず、踏みとどまって考えるということは、その相手を本当に大事にしている(認めている)のだとも言える。

自分と違うものがある、ということを認めた上で、そこに何とか近づこうとする試み。それこそが「内在」するということの本質的な意味(あるいは目指すべきところ)であり、そのために必要なのは、決して単純な共感のようなものではないと、私は思っています。

……ま、自分にできるかどうかはこの際おいておきまして、ですけれども。

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コメント

面白いお話ですね。

アホで国語力の足りない私には中々スッと入って来ませんが、興味深いです。

兵士という役柄のキャラクターが、生死についてドライな態度を取った時に「冷たいやつだ」と自分の感覚で考えるのではなくて「きっと戦場を経験してたりするから、死生観が違うんだろう」と考えるのが内在的な考えって事で合ってるでしょうか?

物語の登場人物はそれぞれが皆、独自の考えを持って存在しているはずが、どのキャラもやたら同じ思想を持っているなんて作品もありますよね。
すべてのキャラが作者の思想の代弁者になってるような、もしくは作者の主張の正しさを際立たせる為に、あえて支離滅裂の反対意見を唱える悪役とか。

そう感じ取ってしまうと、一気に没入感0になって楽しめなくなったりします。

これも「外在的態度」なんでしょうかね?

ebiosさん江

ありがとうございます! 面白いと言っていただけると、なんだかんだで嬉しい小物のOYOYOです。スッと入ってこないのは、私の書き方のせいじゃないかと思ったり思わなかったり……。

「内在」の理解は、ebiosさんがおっしゃっているような感じで、だいたいそのとおりです。

もっとも本文にも書いたように、「内在」ということば自体、あちこちでよく言われる割に定義が曖昧なので、私の考えが絶対正しいというようなことはとても言えませんし、根拠も別にありませんが。

「すべてのキャラが作者の思想の代弁者」ということは、私もあると思います。「内在」しようにも中身が無いパターンですね。悲しいことに。

ですが、その結論に一足飛びに行かず、まず作品の中で説明できることかどうかをしっかり見たい、というのが私の考えです。たとえばよく、「主人公が屑」のような話がありますが、本当に屑なら作中、ヒロインにどうして好かれるのでしょう?

駄目人間を好きになる人というのもいるからそういう話なのか、それとも別に魅力がちゃんとあるのか……。それが作品にどう描かれているかを、まず見極めてから、自分の判断を下すという読み方があっても良いのかなと、私は考えています。

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