よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/10/28(月) 23:32:17

お昼休み、定食屋でご飯を食べていると、隣のテーブルについた、大学生らしき(会話の内容から)集団がこんなことを言っていました。

 A君「あの先生の授業マジ分かんねぇわ〜」
 B君「話が飛ぶし、知らないことを知ってる前提でいうからたまんないわな」
 C嬢「そうそう、もうちょっと分かりやすく説明してほしいよネ」

忠実な再現ではなくて「だいたい」の内容ですが、まあニュアンスは伝わるかと思います。んで、こういうのってちょっとかっこ悪いよなぁと思いながら聞いていました。

中学生・高校生なら「わからないから教えて欲しい」というのはまあ、アリという気がします。しかし、大学生にもなって――これは単純に年齢の問題というだけではなくて、日本では特に大学というのは自主的に学問をしたいという人が進学する高等教育の場であるということを踏まえて言っています――、「知らないことが出てきているから教えて欲しい」というだけならまだしも、「説明しない先生が悪い」と相手の責任にしてしまうというのは、どうなんだろうと。

こういう、「自分にわからない話が出てきたら、わかるように説明しない相手が悪い」式の論法というのは比較的よく見かけますが、下手をすると「自分は余程の大物です」と言っているか、「自分は力不足だけど直す気ありません」と言っているかのどちらかに聞こえてしまう、ということに気づいていない人が案外多いようにも思います。

たとえば、誰が見ても知識や経験が豊富な人が「君の言っていることは僕のように無知な人間にはよくわからないから説明してほしい」と言う時は、ある程度教養のある自分にも分からない言い方になっているから、普通の人が聞いたらもっと分からない。もう少し考えて喋れと言っているのだととれます。

一方、たとえば私みたいなぺーぺーの人間が「ごめん、意味わかんないんだけど、もう少しわかるように喋ってくれない?」とか言うと、「お前何様だよ」という話になります。相手の言うことがわからないのは、自分の知識が足りないからではなくて相手が悪いのが前提になっているんですね。相手の言っていることをきちんと考えたり調べたりする気はありませんと宣言しているようなもの。私が実績のある大家ででもない限り、偉そうな態度であるのは間違いないでしょう。

そして、「偉そうな態度」が中身の伴っていない見せかけだけなら、そういう姿勢は「私は知識が足りていないけれど積極的に自分で調べるつもりはありません」と言っているようなものですから、「力不足だけど直す気ない」態度ととられても仕方がないんじゃないかと思います。

今回目撃したような、「自分にわからない話が出てきたら、わかるように説明しない相手が悪い」式の論法が臆面もなくはびこる理由には、「伝わるように言いましょう」式の教育であるとか、書き方のハウツーが流行った影響というのが、少なからずあるだろうと私は考えています。

教育現場に携わっている人と話をすると、「最近の子どもは理解力が低いから、教えられる内容のレベルがだいぶ落ちた」みたいなことを言っている。それは実際にそうなのかもしれませんが、じゃあ昔の学生は「難しいこと」を言っても一発で理解していたかというとそんなわけでもないでしょう。

自分自身の経験と照らしてみても、全然わからないことを、わからないなりに考えて考えて、半年とか1年とか経ったころにふと、「ああ、あれはそういう意味だったのか……」と、他のこととの関連で自分なりに飲み込めたりすることが多かった。

結局、「いまの子は飲み込みが悪い」とかいってレベルを落とし、「分かりやすくて丁寧な」話ばかりするようになったということが、いっそう「わかりにくい内容」から生徒たちを遠ざけている。そういう側面は間違いなくあると思います。

文章の書き方なんかでも似たようなもので、「多くの人に伝わるように、分かりやすい内容を心がけましょう」というハウツーが浸透したわけです。昔は、何か勿体ぶった・小難しい書き方をして重みがあるように見せるなんていうのも流行っていましたが、その逆ですね。

まあ何でも難しそうに書けってのは馬鹿げた話ですけど、だからって分かりやすいのが良いってのも、何か妙な話です。たとえば文章って、「正確」なのが良い――そんな考えがあっても良いのではない? そういうツッコミを入れたくなる。

ちょっと前に読んだ、仲正昌樹『なぜ「話」は通じないのか』(晶文社)という本の中に、こんなことが書かれていました。

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少し前の左翼であれば、運動を広げると同時に自分たちの批判能力を磨くべく、より説得力があり、論理的整合性がある言葉で語ることを心がけていたような気がするが、最近は、「大衆に届く言葉がいい」ということで、どんどん話を単純化して、バカになっている――いつから左翼にとって大衆はバカになったのか。無論、右に関しても同じことである。(p.254)

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右翼・左翼といった自分たちの立場を単純化する「物語」を安易に受け容れ、そこに安住してしまうという議論の中で出てきた話ですが、今回の私の記事のテーマからすると、結構クリティカルなところがあるなぁと。

「バカ」というのは少々過激な言い方であるとしても、「相手のことを考えて簡単なことばにしたんですよ〜」というのは、ある種読者を低く見ていることになる。それは、紛れも無い事実だと思います。「大衆に届く言葉がいい」と言って、単純な話と分かりやすい言葉でお茶を濁すのなら、それは「大衆というのはきちんとした話ができないバカだ」と言っているのと同義でしょう。

逆に、難しことばやきちんとした理論を書くというのは、それだけ読み手を信頼しているということでもある。これなら分かってくれるはずだという期待のあらわれというわけです。

もちろん、ことはそう単純ではなくて、実際には「難しい話を噛み砕いて正確に表現する」ことは可能であるはずだし、専門の身内にしか通じないようなジャーゴンばりばりで書いたり語ったりすれば良いかというとそういう話ではありません。けれど、「わかりやすい話」が、「レベルを落とした話」と同義か、近似的に扱われているというのはやはり、問題であろうと思います。

で、その結果、「自分に分からない文章は書き手が悪い」みたいな変な風潮も生まれるようになったのではないか。

結論としては心構えの問題しか言えない(具体的にどうこうしろという話にはできない)のですが、教える・書く・語る側は、わかりやすい話とレベルを落とした話を混同しないようにしつつ、読み手・聞き手の能力を信頼して自分のMAXを込めるようにする。教わる・読む・聞く側は、内容がわからないことを相手のせいにせず、かつ自分がどのようにわからないかを明確化し、そうして出てきた疑問を自分で調べたり、時には相手に投げかける。

そういう、相互の積極的な努力の中で、より良い理解は生まれてくるものだし、ことばをめぐるスキルも成長するのではないかなと思ったりします。「わかりやすい」単純なものよりも、「ちょっとわかりにくい」くらいのものにつっかえつっかえしながら挑んでいくほうが、良い結果をもたらすことも少なくないのではないでしょうか。

……めんどくさいですけどね。

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