よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/10/30(水) 20:00:40

2009年度「日展」の書道・篆刻の審査で「談合」が行われていたという話。朝日がすっぱ抜きました。これを「不正」と呼ぶか否か、論点はいろいろあると思いますけれど、一応事前公表されていない審査基準を用いて評価を下しているわけですから、問題ではあろうと思われます。

 ▼「日展書道「篆刻」、入選を事前配分 有力会派で独占」 (朝日新聞DIGITAL)

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日展書道「篆刻」、入選を事前配分 有力会派で独占
2013年10月30日05時41分

【沢伸也、田内康介】 日本美術界で権威のある日展の「書」で、有力会派に入選数を事前に割り振る不正が行われたことが朝日新聞の調べで分かった。毎年1万人以上が応募する国内最大の公募美術展への信頼が揺らぐのは必至だ。

 日展には日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の5科がある。1万円を払えば誰でも応募でき、入選すれば展示される。今年度は11月1日から国立新美術館(東京・六本木)で開催される。1万3919点の応募があり、7割が書だ。

 書には漢字、かな、調和体、篆刻(てんこく)の4部門がある。朝日新聞は、石材などに文字を彫る「篆刻」の2009年度の審査を巡り、当時の篆刻担当の審査員が有力会派幹部に送った会派別入選数の配分表と、手紙を入手した。配分表には有力8会派ごとの応募数と入選数が直筆で記され、過去5年分の会派別の応募数と入選数の一覧も添えられていた。

 手紙は審査員が入選者公表前の10月15日に書いたもので、「今年は昨年度の会派別入選数厳守の指示が日展顧問(本文は実名)より審査主任に伝達され、これに従った決定となりました」とし、配分表通りに入選数を決めたと説明している。日展顧問(89)は書道界の重鎮で日本芸術院会員。審査主任は書の4部門全体の審査責任者で、当時は日展常務理事だった。

(※続きは会員登録者のみ)
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残念なことにと言うべきでしょうか、「やっぱりなぁ」という思いと、「フザケンナ」という怒りと、「参加者が気の毒だ」という同情と、「がっかりした」という落胆とがないまぜになった、実に微妙な心持ちがします。

私は書道関係について全く疎いため、こうした「談合」が正当なものか、必要悪なのか、それともあってはならないことなのか……といった判断はつきかねます。ただ、最初にも述べた通り公募の形式をとり、応募に「1万円」というお金をとっているにもかかわらず、その中で公にされていない絶対的な審査基準が存在しているわけですから、これは朝日新聞が書いている通り日展への「信頼が揺らぐのは必至」の問題であると言えます。問題がないと思ってるなら、最初から募集要項に書いておけって話ですよね。

「日展」は11月1日から12月8日まで開催の予定。期日も迫っているし問題が発覚したのは篆刻のみだし、今年のは開催自体は問題なくなされるのでしょうか。まあ「過去のこと」ということでさらっとお詫びでもして流すつもりなのかもしれません。あと、河合克敏の書道漫画、『とめはねっ!』はどうなるんだろうとか、どうでもいいことばっかり気になってきた……。

 ▼平成25年度「日展」公式HP

 ▼河合克敏『とめはねっ!』(小学館)

しかしこういうの、「たまたま今回限り」の話ではないですよね。たとえば丁度2009年に、こんな質問が「知恵袋」に掲載されていました。

 ▼「毎日書道展、読売書道展、日展で入選するにはいくら払えばいいのですか?

回答はまったく根拠のない「風評」にしか見えませんが、書道をやっている関係者の中で、こういう話が出回っているということ自体がやはり問題でしょう。「師匠に手本を書いてもらう手数料に100万〜200万円 、審査員を買収するために300万円 」。審査員買収(笑)とか言って笑って流せる雰囲気では無くなってしまったわけで。

話を広げますと、書にかぎらずいわゆる「芸術」の評価というのはどうしても曖昧さがつきまといます。フィギュアスケートの「表現点」なんかもそうですし、あるいは小説の賞にも似たようなところがある。

それゆえでしょうか、審査基準としては気に入る/気に入らないという主観的な話ではなく、誰にでもはっきりと分かる技術的なことや知識・背景といった部分が重視される傾向が強い。いわゆる客観的(これは、説明可能くらいの意味で使っています)審査というやつです。

ただ、これによって表現の持つ《感情に訴える》ような力については軽視されがちになったという批判もなされています。それ(客観審査)に偏りすぎると、芸術のもつ本来的な、感情を揺り動かすような力をくみとることができない、というわけですね。まあごもっともという感じもします。客観的な技巧のみで測られた表現というのはいかにも味気ないし、それは競争のために設けられた基準であって、鑑賞の基準ではないだろうと思う。

そして、技術だけでは語れないような力を、いわば表現のロマン主義を、支えてきたのはその道の「プロ」と呼ばれる人びとであったはずです。単なる主観ではなく、積み重ねられた歴史が根拠となっていた。

にもかかわらず、表現の力を重視するはずの芸術分野において今回のような「審査」が行われていたということは、俗に「権威」と呼ばれる人びとが語る評価基準や表現に関する理解というのがまったくアテにならないということを暗に物語ってしまうということにもなりかねず、ますます表現から感情的な力というのが公共性(他の人と芸術から受けた印象を共有する可能性)を失っていくことになるでしょう。

もちろん、篆刻の審査員が「談合」をやったからといって表現が本来的に持つ力が喪われるわけではないにしても、周りの人びとの信頼が揺らぐことで、それが見出されにくい空間が出来上がるということはありえるわけです。人びとの信頼を損なうというのは、そういうことです。

これは、芸術作品が賞として成り立つか否かという以上に、表現の鑑賞と共有がいかにして成り立つか(あるいは成り立たないか)を巡る問題であり、それをしょうもない政治性によって台無しにしたということの罪は重いと私は思います。

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