よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/11/11(月) 23:43:14

先日ツイッターで回ってきた、三秋縋氏のこのツイート。








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 「ヒロインが主人公に惚れる理由がわからない」「その展開に至る伏線がない」といった不満がよく聞かれることからわかるのは、人々が潔癖なまでに「公正な物語」を望んでいるってことかもな。「よくわかんないけど、そうなった」なんて、現実じゃよくある話なのに、物語においては最悪とされてしまう。
 たとえば、最後の最後まで目も合わせてくれなかった女の子から渡された遺書に、「あなたのことは、ずっと好きでした」と書いてあったとします。こういうとき、僕は筆者に一から十まで説明をしてほしくはないんです。精々四くらいの説明でいい。残りの六を自分で埋める楽しみを、奪わないでほしい。
 ちなみに、僕は決して「潔癖なまでの公正さ」を否定して「理屈の排除されたご都合主義」を肯定しているわけではなくて、そういった批判の陰に見え隠れする「ロジカル=価値」といった態度に疑問を感じているだけです。そいつを裏返したところには、曖昧さに対する耐性の低さがあるんじゃないか、と。
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賛成か反対か、と言われると難しい(部分的に賛成できるところもあり、反対したくなるところもあるため)のですが、考えるところがあったので、少し書いておこうかと思います。

◆三秋氏の発言そのものについて
素朴に読めるようでいて、実は三秋氏の発言そのものが比較的わかりにくい部分があるので、まずそちらをしっかりと考えてみることにしましょう。

最初のツイートを読むと、三秋氏はまるで、物語の中で描かれる感情に理由はいらない、というようなラディカルな発言をしているかのようにとれます。実際、多くの方はそう受け取って、それに対するようなコメントをしている。

しかしそうなると、二番目のツイートは素直にとれない。というのも、ここで三秋氏は「精々四くらいの説明でいい」という言い方をしているからです。二番目のツイートを読む限り、三秋氏は物語を読んで《想像》をしたい。そして、その《想像》のための手がかりが全く無くて良いとは言っていません。むしろ、「(十のうち)四くらい」は説明なり手がかりなりが、あったほうが良いわけです。

そして、三秋氏が最終的に批判しているのは、「「ロジカル=価値」といった態度」です。最初のツイートとあわせて考えると、「ヒロインが主人公に惚れる理由がわからない」「その展開に至る伏線がない」のような言説を、三秋氏は《物語の論理性》を重視するものだと考え、物語は論理的であるべし、というドクサを批判しているものと思われます。

これらから推測されるのは、三秋氏の想定している「敵」(ご本人は否定するわけではないとおっしゃっていますが、一応議論のうえの仮想敵なので)というのは、物語において過剰なまでに行動や心情に理由を求める人びとでしょう。あるいは言い方をかえれば、四割くらいのある程度漠然とした説明から想像力を広げて物語を読むことをせず、一から十まで説明されなければ満足しない人びとです。

これは、最終ツイートの「曖昧さに対する耐性の低さ」という発言とも一致するので、それほどハズレてはいないのではないでしょうか。

◆三秋氏の発言の妥当性への疑問
ところで、三秋氏が言うような「潔癖」な人びとというのは――つまり、物語の心理描写を一から十まで説明してもらわなければ満足しないような人は――本当にそれほど沢山いるのでしょうか?

三秋氏は、「「ヒロインが主人公に惚れる理由がわからない」「その展開に至る伏線がない」といった不満がよく聞かれる」ことから演繹したとおっしゃっておられますが、ここには1つ、大きな詐術が潜んでいるようにも思われます。

というのは、「ヒロインが主人公に惚れる理由がわからない」「その展開に至る伏線がない」という発言は、本当に三秋氏が言うような「潔癖」さの表明であると断言できる保障が無いからです。

「理由がわからない」や「伏線がない」という感想を「潔癖」さだと解釈をされたということは、、三秋氏はそういう発言を擦る人が「一から十」の「十」のほうのある/ないを問題にしている、というふうに考えておられるわけです。しかし、私の感覚ではほとんどの場合、「一」を(あるいは必要な「四」程度を)問題にしているように思われます。

たとえば、komaichiさんの『いたずら極悪』の感想を見てみましょう。

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単に性癖としてハマりましたとはではなく、もう少し突っ込んでヒロインの持つ
コンプレックスや劣等感、閉塞感などを取り去ってくれる相手として、
主人公自身を受け入れるといったプロセスが描かれる。

痴漢終了後のシナリオ進行にあたる会話部分では、主にこうしたヒロインの
心情の変化が描かれています。

割とぶっとんだ思考するのでヒロインに共感できたりするわけでもないし、
キャラによっては首をかしげることもあるのですが、
相手を好きになるという精神面での手続きを踏まえてくれていると
やはりこちらの納得の度合いとかヒロインへの愛着などが大きいようで
みなとても魅力的に映ります。
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ここで「プロセスが描かれている」というのは、その後で「割とぶっとんだ思考するのでヒロインに共感できたりするわけでもないし」という留保がついていることからも分かる通り、ヒロインの心情なり行動なりの「十」がわかるという意味ではありません。

たしかに、三秋氏がおっしゃるように、「ヒロインが主人公に惚れる理由がわからない」「その展開に至る伏線がない」といった批判はよく目にするのですが、そこから「潔癖なまでの公正さ」へと繋ぐのは、いささか無理があると思われます。

これは想像ですが、たとえば三秋氏が物語を読んだとき、あまりにも情報が少なすぎたり、あるいは曖昧すぎたりしたせいで「残りの六を自分で埋める」ことができないような内容だったら、「理由がわからない」とか「伏線が十分ではない」というような言い方をなさるのではないでしょうか。

そして、多くの人もまた実際その程度の意味で、つまり《必要最低限》の説明が無いというくらいの意味で、「理由がわからない」とか「伏線がない」とか言っているのではないか、というのが私の考えです。

もちろん、そのハードルが下がりすぎという可能性はあります。たとえばの話、「彼女は頷いた」と書くだけで含みを読み取れるのに、「彼女は頬を染めて頷いた」とか、あるいはもっと直接的に、「彼女は頬を染め、嬉しそうに頷いた」のように書かなくては通じないのはおかしい、というように。

しかし、そのレベルの話になると、どこからが曖昧でどこからが言い過ぎなのかという個人の判断基準の話になります。そしてそういう議論がしたいのならば、具体的な対象を挙げる必要がある。許容出来る曖昧さの基準をどこにおくかという別の議題とすべきですし、少なくとも、「不満がよく聞かれること」からは、そのことはわかりません。

したがって三秋氏の一連のツイートには、最初と最後が完全には繋がっておらず、実は二つの別な内容が含まれていたことになります。

一つは、「理由がわからない」「伏線がない」といった不満が多く聞かれるということ。(現状分析)

もう一つは、物語で「一から十まで」、「ロジカル」な説明がないと満足しないという態度には否定的であるということ。(主張)

三秋氏はこの両者の間を、三秋氏が考える「精々四くらい」のレベルの説明では満足しない人が増えてきた、という実感なり経験なりで繋ごうとしておられるのだと思いますが、その部分が抜け落ちているために適切な例とはいえないように思われます。

※一応自己弁護しておくと、その両者が簡単にはつながらない反証としてkomaichi氏のレビューを提出しました。もちろん三秋氏が普段目にされている感想なり意見なりが、圧倒的に「潔癖」なものである可能性はありますが、それを端的に提示するのに相応しい例ではないと思うし、そういう表現で言わんとしている内容を蔑ろにしているという意味で、少々不適切な例ですらあると思っています。

◆私の立場
問いそのものに困難があるので立場の表明が難しいのですが、三秋氏の結論のほうについては、私自身はかなり近い立場だと自分では思っています。

つまり、物語には語られない余白があるものだし、そこを想像するのが楽しい、という立場ですね。私自身このブログでも、何度か《想像》という話をしておりまして、そのあたりはかなり重なる。

ただ、「ヒロインが主人公に惚れる理由がわからない」「その展開に至る伏線がない」という発言が、想像力を排除して一から十まで説明してもらいたいという希望の表明だとは全く思いませんし、そういうことを求める人がやたら多いとも思いません。

もちろん全くいないわけではありませんし、とりわけそういうタイプの人が多く見られるジャンルや作品があるということも否定はしませんが。

ついでに、私がちょっとどうかなと思うのは一つ目のツイートの、「「よくわかんないけど、そうなった」なんて、現実じゃよくある話なのに、物語においては最悪とされてしまう」という部分。たしかにそれはその通りなのですが、じゃあ現実と同じことを物語に書けば良いのかというと、そればかりではないですよね。

これも何度か繰り返して書いてきたことなので「またか」と思われる方がおられるかもしれませんが、物語のような表現というのは、現実と同じであることが価値だとは限りません。

絵画なんかをイメージすればわかりやすいでしょうか。現実をそのまま写したのではなくて、そこから何か拾いたいものをピックアップして描くから面白い、という作品もあります。

現実の恋愛で「なぜか好きになった」とか、現実の行動で「よくわからないけどやっちゃった」というのは確かにある。あるけれど、それをそのまま描くことが自明に価値あることだとは限りません。むしろ物語だからこそ、ある種の理想の表現として、あるいは不条理な現実を吹き飛ばし自分の心のモヤモヤをすっきりさせてくれるものとして、「なぜかを説明できる」話を読みたい、ということもあるでしょう。

三秋氏はこの部分を、「一から十まで説明をしてほし」いと言う人を念頭において語られているのでしょうから、上のようなことを言うと話がズレてしまうかもしれませんが、だとすれば、「現実だとよくあることなのに物語だと扱いが悪いのはおかしい」というような主旨の発言はあんまりかみあっていないように思われるし、やはり別途、別の議論として立てたほうがすっきりしたのではないでしょうか。


というわけで、ロジカルのまねごとをして問題を切り分けてみました。私はこうやっていちいち分けてみないと整理がおいつかなくて、きちんとしたことが言えないのですが、分けてみた感触としては、非常にさまざまな問題が(「理由がわからない」のような発言はどういう意図なのか?/「現実じゃよくある話」を物語で軽く見るのは悪いのか?/ロジカルな物語の価値は?/「一から十まで説明」する物語の価値は? etc)ごちゃまぜになっているので、どれに答えようとするかで反応の質が変わってくるかなと。

なので、三秋氏のツイートに対する反応が泥沼の水掛け論を呼ばないよう、ちょっと気をつけたほうが良いのかもしれないと思いました。

結局、この手の議論の時には毎回思うんですが、私のように理解の遅い人間にとっては、自分の意見がどうだっていうのを表明する以前に、相手が言ってることがなんであるかをそれなりにきちんと読み取るのが大変なんですよね……。

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