よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2012/03/15(木) 00:40:17

最近使っている「また明日」というこのブログの結語ですが、読んでくれている友人から「OYOYOくんは「また明日」好きだよね」と言われました。割と昔からお別れの時に使っているのですが、実はちょっと元ネタがあったりします。

テレビ朝日で1997年から2005年まで放送されていた、「あしたまにゃ〜な」。「「あした」のための情報をお届けする、あしたまにゃ〜な」というキャッチフレーズが印象的な情報番組で、ナレーションは濱田マリさん。人物は一切登場せず、翌日公開される映画や演劇、CDなどの情報を流してくれていました。

OPクレジットのあと、「明日間に合うのは……」というナレーションが流れるとおり、もとの意味は明日にまにあう、ということなのですが、もう一つ。「Hasta mañana」(アスタマニャーナ)というスペイン語(スペ語では文頭Hの音を読みません)。これが、「また明日」(=さようなら)という意味なのです。

私がこの番組(あしたま)を好きだったことと、「また明日」というフレーズが別れの言葉としては結構好きなので、好んで使うようになってしまいました。まあ、本当に毎日更新できるか解らないのでいつまで「また明日」と言えるかが問題なので最初は使っていなかったのですが、自分を追い詰める意味でも使ってみました。更新が途絶えたら、その時は適当に違う言葉にしましょう(笑)。

ブログに、別れの言葉を入れるというのはちょっとおかしいのかもしれません。ただ、以前阿久悠さんの「ぼくのさよなら史」という文章を読んで、なるほどな、と思ったことがあったのです。阿久さんは、現代人が「さようなら」を言わなくなったことを嘆いて、こう言っていました。
なぜ、さよならを言わなくなったのであろうか。なぜ、別れたことに気がつかないような不思議なことになったのであろうか。
私達は、別れてもメールやツイッターで、いつでも繋がっている。いや、繋がっているような錯覚の中にいる。そのことが、「別れ」という人生の本質的な出来事に対する感性を奪っているのだ――。私なりに阿久さんの言葉を解釈すると、そんな感じになりました。そうして、それは何となく解る気がする。いざというとききちんと別れるためにも、日頃から別れというのは、やはり私達にとって何ごとか自覚的な事態であるべきかもしれません。

ところで、「さようなら」と「また明日」は、本当は少し意味が違う。よく言われるように、「さようなら」とは本来「そうであるならば」という接続詞であり、それを別れの言葉として用いる日本は、世界的に見ても割と特殊なのだそうです(たとえば欧米なら、グッバイなど)。「また明日」は、「See you again」や「再見」に近い語ですから、ニュアンスとしては微妙に違うのでしょう(この辺考え出すと面倒なので思考放棄)。ただ、私はその意味では「さようなら」という語があまり好きではない。どうしてかというと、「そうであるならば」と、一旦そこで何かを切ってしまう感じがあるからです。それよりは、また明日、というほうが好みかな、と。

繋がっていると錯覚しているわけではなく、けれど別れてしまったということを押し出すのでもなく、昨日今日と同じように明日もまた繋がりたいという願いを込めて、「また明日」というのは、何となく気持ちが良かったりするのです。完全に個人の趣味ですが。

今日は自分語りになってしまいましたが、これからも皆さんにお付き合いいただけると幸せです。それでは、改めまして、また明日。

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