よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/11/18(月) 22:32:31

私は仕事柄どうしてもある程度論理性を持った会話、議論というのを求められることがあります。その時によく使われる方法の一つに、「突き詰めて考える」というのがある。

他の現場ではどういう言い方をしているかは分かりませんが、たとえばこんな感じです。

+++++
生徒「人間は自由であるべきなんだから、校則とかなくして欲しい」
教師「人間一般の自由を盾に取るなら、教師側にも自由を認めるけど良いか?」
で、教師が体罰をガンガンやりはじめる。
+++++

うーん。上手な例かどうか分かんないですね……。言いたかったのは、生徒は自分たちの自由が欲しくて、その根拠として「人間の自由」みたいな話を持ちだしたけれど、「人間の」自由だというのなら、その自由は教師側にも認められねばなりません。結果、「万人の万人に対する闘争」みたいな状態が引き起こされるかもしれない……。

「そんなつもりで言ったんじゃなかった!」と言っても、意図せずその人の主張の中に織り込まれてしまう内容というのがある、ということです。

何かロジックを組むんだけど、そのロジックが自分に都合のいいようにしか解釈されておらず、必然的に導かれるはずの他の観点を見落としているときに、こういう事態が発生します。「突き詰めて考える」というのは、要するに、あるロジックについて考えうるさまざまな論理的な帰結をきちんと検討する、ということです。「枚挙」みたいなイメージといえば分かりやすいのかな。

分かりやすい具体例になるか不明ですが、エロゲーについて私がこのパターンでよく問題にするのは、「リアリティ」がどうこうという話の場合です。

「リアリティがあって良かった」、「リアリティが無いからいまいちだ」という言い方が良くないというのは、過去に何度か記事にしたことがありました(「これ」とか「これ」とか「これ」なんですが、まあ参照する意味はあんまりないです)。

細かい話はざっくり省いて議論を進めると、「リアリティがある恋愛描写が良い」みたいな評価を迂闊にしてしまうと、よりリアルな表現のほうが良い(たとえば、実写のほうがエロゲーより良い)という話にもなりかねないし、また極論、エロゲーで恋愛やるより現実で恋愛やってるほうが良い(エロゲーをさっさとやめるべき)ということにもなりかねない。

もちろん、ことはそんなに単純ではないのですが、「リアリティ」なり「リアル」なりということばの便利さに頼りすぎると、自分では想定していなかったような結論を導いてしまったり、死角から思わぬ反撃を被弾する可能性はある、ということは意識しておいても良いのではないかと思います。

書き手の側の予防策としては、なるべく誤解がないように自分の使う語の意味を適切に絞るような表現を用いる。これに尽きるでしょう。自分は「リアリティ」という語でこういうことが言いたいのだ、という内容がはっきり伝われば問題ありません。逆に言えば、書き手がいい加減にことばを使うから問題がややこしくなっているのだとも言える。

私も感想とか書いている身として、(とても難しいことではあるのですが)できる限り気をつけたいと、常々思っています。

しかしこの話、書き手の問題ばかりとも言えない部分があるのではないか、そんなことを最近考えておりまして、というのも、読み手なり聞き手なりのほうが、あきらかに「文脈」を無視している場面に何度も直面したからです。

まあ詳細な話は都合もあって挙げづらいのですが、要は単なる揚げ足取りをしているだけなのに、「突き詰めた」思考をしていないからといって相手をけなしたり、ダブルスタンダードだと断じて取り合わなかったりというようなことがあった。いや、私も似たようなことやってるとか言われそうですが。

自分を棚に上げて言えば、確かに論理性を突き詰めるとおかしなことになるものの、文脈を追えば言いたいことは理解できるだろうにという場合もあり、少々教条主義的というか、「不親切」な批判をしているなぁと。たいていの場合、それは表現の問題であって思考そのものの問題ではないので、両者を切り分けて整理し適切な表現を探すほうが、どちらかといえば生産的な気がします。

このあたりの解決は、もう文字通り書き手と読み手、語り手と聞き手の相互作用によるものだとしか言えず、読み手がどれほど気をつけていても、書き手が気にしていなければ内容をきちんと読み取ることは難しいですし、逆に書き手がどんなに気を配っていても、読み手の側が意識していなかったり前提を共有していなければ、伝わることは希です。

そもそも、伝えたい内容が100%伝わるということなどありえない、という話もありますが、たとえそうであったとしても、なるべく誤解を招かないよう、あるいは自分の意志がはっきりと伝わるような表現というのは目指されて損はありません。

「突き詰める」思考というのは、そういう意味でコミュニケーションを正確かつ円滑に行うための手段であり、一種の配慮であるはずです。

ですから、「突き詰める」思考を要求して、かえってコミュニケーションが取りづらくなるというのは本末転倒の気がしないでもないのですが、正確な表現を目指さない相手とはそもそも会話を成り立たせる必要がない、という考えの人もいますから、まぁなかなか難しいところ。

とりあえず私は、他人に無理やり押し付けるタイプのものではないし、実践できていない人を問答無用で切り捨てるような類のものではないと思っています。そもそも、自分が満足にできないから、そうされると困りますしね……。

このエントリーをはてなブックマークに追加   

「突き詰める思考と、表現と」を読んだ人はこんな記事も読んでいます
対話の品性 (2013/12/08)
表現規制は藪の中――非実在青少年を巡るあれこれ (2012/03/01)
「ビールと間違えるほどのうまさ」は、褒め言葉なのか? (2012/03/09)
コメント
コメントの投稿
( 関連性のないコメントやトラックバックは、削除されますのでご了承下さい )
管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバックURLはこちら