よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/12/03(火) 19:55:23

このところ、時間が無くてあまりツイッターで発言とかできなくなってしまっているのですが、それでも何か、1日か2日にひとことふたこと、どんなしょうもないことでもいいからとりあえず書いておこうか……みたいな気持ちになります。

別に誰の反応が無くても良いんですけど、まったく発言をしないと、ツイッターという場から自分の存在が希薄になって、消えてしまうような、そんな強迫観念に駆られる。誰かが「この人最近つぶやいてたっけ?」と、私の発言の履歴を追った時に、数日なり数週間なり発言が無かったら、「いなくなったのかな?」と思われるかもしれません。

それが嫌というよりは、「私はいますよ」というアピールのような感じで、とりあえず何か書く。そんな感じ。

考えてみるとこれは不思議な話で、ネット上の「存在」って、発信をしなければ気づかれないんですよね。身体をもった現実の私たちは、ただそこに「在る」だけで、一応は存在が認識されます。あるいは、ただいるだけでおのずから何かを発信していると言っても良いのかもしれません。少なくとも目の前にいる人が無言だからといって「消えた」とは誰も思わないでしょうし、遠くはなれていても、数年連絡をとっていなかった人と久しぶりに連絡をとりあう、ということはザラにある。

でも、数年放置されていたブログがいきなり開始されたり、数年何もつぶやかなかったツイッターアカウントがいきなりポストをしはじめたら、たぶん「使者が蘇った」くらいの驚きをもって迎えられることもあるのではないでしょうか。

どちらが良いとか悪いとか言う話ではなく、特性としてネット上の存在(人格、と言うべきでしょうか?)というのは身体から切れている。そのことが、私にとっては何か、存在の自明性を決定的なかたちで疑わしいものにしているのだと思います。

デカルトのコギトではありませんが、あるいはこれが、身体から乖離した近代的自我の、ひとつの典型的な形なのでしょうか? だとすれば、近代的自我にリアリティが足りないという批判は――つまり、身体こそがわれわれの現実であって、デカルト的「われ」などというのは空想の産物にすぎないという批判は、既に力を失っているのかもしれません。なぜなら、そんな「われ」が存在し、活動し、形成している社会が現にあるのですから。

そんな「われ」にそもそも実感を感じるのがおかしいという話はまあ、ありえそうですけど、それはもはや立場の決め打ちというか、宗教戦争一歩手前の信仰砲の撃ち合いでしかないでしょうし。

まあそんなこんなで、特に意味もない、誰に向けるでもない発言をぽつぽつするような日々が、しばらくは続くかもしれませんとか、だいたいそんな話でした。

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