よい子わるい子ふつうの子

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013/12/12(木) 22:44:30

12月17日に迫ったDTIブログの閉鎖に伴い、ブログを移転しました。


新しいURLは以下です。

http://oyoyoiko.blog.jp/

今後ともかわらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げますm(_ _)m。

FC2さんと迷ったのですが、Livedoorに決定。しばらく運転してみて、使いにくければまた変更するかもしれませんが、そのへんのお知らせは改めてLivedoorブログのほうで行います。

実は、当初はLivedoorブログへの移転は問題が多数あったのですが、先月ごろからそのほとんどが解消されはじめまして……。そういった対応の細やかさなども、移転の決め手となりました。難点を言えば、FC2のほうが各記事にWEB拍手をつけられて、これ凄く羨ましいなぁと思ってるんですが……。まあその辺りは、何とか対応を考えたいと思っております。

お世話になったDTIをこのような形で去るのはいささか残念ではございますが、これも世の流れでしょうか。相互リンク等でお世話になった皆さまには、少し落ち着いたら改めてご挨拶にうかがう予定でおります。

今後、こちらを更新することはございませんので、この記事が閉鎖されるまではトップを飾ることになります。

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2013/12/11(水) 21:14:48

17日でdtiblogがサービス終了するため、そろそろやっておかないとなーということで、明日ブログ移転作業を行います。

移転先はもう8割型決めているのですが、ちょっとどうしても調整したい点などがあって、そこを明日やってみてから結論をくだしますので、しばしお待ちください。

詳細は、明日の23時以降、こちらのブログにて掲示いたします。

よろしくおねがいします。

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2013/12/10(火) 21:43:38

今日、お昼ごろ南北線に乗っていたら、駒込あたりで電車の中を走り回っている小学生がおり、それにお年寄りが半ギレになって注意する、という場面を見かけました。

親の教育がどうとかいう話をするつもりはないんですが、まあこの場合、子どもの方がかわいそうだよなぁと思う。本来そういう場面で「叱る」のって、親が良いんじゃないかなぁ。もしくは、兄弟とか。これは、社会的に親の責任がどうとかではなく、子どもにとって、という意味です。

私が子どもだったころを振り返ると、特に母親にめっちゃ叱られたんですが、母親に叱られるというのは最大の恐怖であると同時に、「いつか必ず許してもらえる」という妙な安心感も、どこかであったような気がします。もちろんそれは、うちの親が何度も私を叱り、何度も許す中で作り上げたものだったわけですが、「赤の他人」や「ちょっとした知り合い」だとそうはいかない。叱られたら叱られっぱなしで、許されたかどうか、はっきりと分からない場合がほとんどです。

そして、その「許し」が与えられないということは、子どもだった私には、かなり負担でした。それは私の性格的な問題なのかもしれません。統計的なデータがあるわけではありませんから。でも、私のようなちょっと内向的な人にとっては、叱られたけど許されなかったというのは、いつまでも引きずる悩みになってもおかしくないと思うのです。

だからこそ、子どもを叱るというのは親しい人、それもいつも身近にいて必ず「許し」を味わわざるをえないような人が率先してやるのが良いんじゃないかな。そんなことを常々考えています。

もちろん、最近はDVだなんだで「許し」を与えるどころかエスカレートして虐待までいっちゃったりするパターンもあるので、一概に身内万歳とは言いませんけれども、向き不向きというのはあるだろうと。

こういうのって大人になってからも同じで、誰かに注意されるのとかって、なんだかんだで立場とかのしがらみがあるわけじゃないですか。そういうのを抜きに、言いたいことを言って、でもお互いの関係が切れないという信頼が成り立っている間にある人が「叱る」のが向いているし、逆にいえばそういう間柄の人(親友でも家族でも、あるいは恋人でも)がいるというのはとても幸せなこと。

今回の子どもたちの場合、親がいなかったから仕方ないといえば仕方ないんですが、彼らの心に澱が残らないことを祈るばかりです。また、叱る方も、彼らに「許し」を与えることができないというのを念頭に、叱り方を考えても良いのかもしれません。

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2013/12/09(月) 16:22:00

ガマンできなくなって、買ってしまいました。

モバマスコイン

我ながら馬鹿だなーと思いますが、後悔はありません。

買わずにウジウジ悩み続けるくらいなら、買って後悔や!!

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2013/12/08(日) 11:07:14

ネットではよく、人が「怒り」を表明している姿を見かけます。

リアルでも、特に職場などでは少なからずありますが、ネットは顔が見えないぶんリミッターが外れやすいのでしょうか、やたら口汚く罵倒し、しかもその様子が支持を集め、さらなる罵倒を呼ぶ……というシーンが多い。

しかし、こういう形で罵倒をしている人を見ると、私はどうも「うっ」となる。

昨日もとりあげましたが、『ヒンシュクの達人』という本の中で、ビートたけしがこんなコメントをしていて印象的でした。

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 最近、「自分が勝った」と思った瞬間に、相手をトコトン叩きのめしてやろうという感覚の人間が増えたような気がする。自分のほうが有利だとわかった瞬間に居丈高になるんだよな。
 スキャンダルを起こした有名人をネットで批判するヤツラもそうだ。絶対安全圏から、どん底に落とすまで叩きまくる。(中略)
 人間、自分が圧倒的に優位な立場にいるときに、相手にどう振る舞うかで品性みたいなものがわかる。「溺れた犬は叩け」じゃないけど、弱ってる相手、弱い立場の相手をかさにかかっていじめるのは、とにかく下品なんだよ。
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「下品」というのは、言い得て妙というか、そうだなぁと思います。もちろんそれは一つの価値観ですから絶対に正しいとは思わないけれど、私のように気弱な人間からすれば、「あの人にはちょっと近寄らないでおこう……」と思わせるに十分な力がある。

まして、自分には無関係なことで、よく知りもしないのに相手を「断罪」し、周囲と一緒になって罵詈雑言を並べ立てている人というのは、「私が似たような状況になったら、同じようにこちらの事情も考えずに責め立てて来るんだろうな」と思わせるに十分であり、その段階で親密なお付き合いを遠慮したい気持ちになります。

勘違いしないでほしいのは、別に批判することそれ自体を悪いと言っているわけではないということです。攻撃的なことも、口が悪いことも、私としてはそこまで気にしない。私の友人や、ツイッターのタイムライン上の人で口の悪い人なんてたくさんおられるけれど、その大半は「勝負」をしている人です。反論されるかもしれないし、自分も同じように攻撃にさらされるかもしれない危険と覚悟を背負って発言している。「下品」というのはだから、本質的には言葉遣いとかの問題ではありません。

たけしのことばを借りて言えば、「絶対安全圏から」見下すような態度、自分への反論を完全にシャットアウトするような「断絶」の態度をとること。これが、私の考える「下品」さです。なぜ「下品」に感じるかというと、そのような態度はコミュニケーションの放棄であり、他人の存在を無視することに対する開き直りだから。そしてそういう態度の人は、攻撃される心配が無いので、えてして攻撃的で、乱暴なことばを用いやすいだけだろうと思います。

人は誰も、自分の枠の中でしか他人を推し量ることはできません。コミュニケーションには、おのずと限界がある、ということはわかります。しかし、だからこそというべきでしょう、自分の枠には収まらない部分があるということを常に意識し、外側へと回路を開いておくことが大切だと、私はそのように思っています。だから、その回路を自覚的であれ無自覚であれ、閉じている人は敬遠したくなる。その印象を表現すれば、「下品」というのが近い。

具体例になるでしょうか、ちょうど、こんな記事がありました。

 ▼「表面だけの正義の味方になるな」(おやじまんのだめだこりゃ日記)

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2013年11月19日
表面だけの正義の味方になるな

友人が知人から仕入れてきた話。以下、友人からのまた聞き話だ。

詳しくは言えないけれど、俺の知人はいまクレーム対応でてんてこ舞いらしい。その知人が言うには「本人からのクレームならまだいいが、被害を被っていない人からの苦情が多くて、そっちの対応がたいへん」らしい。被害を被った人はその対応も実に紳士的なのだが、そうでない人は世の中の正義を振りかざしてくる。その姿はまるでネットイナゴそのもののようだとさ。

知人は「マスコミのスタンスってのも報道各社によってかなり違うみたい」と言っていた。物事をいろいろな角度から見て、できるだけ全体像を見せようとするところと、新聞社のくせにゴシップ的な書き方しかしないところ、その中間に位置するところと、はっきりと別れるらしい。ついでに言うと、ゴシップ的な書き方しかしないところはニュースバリューが落ちると見向きもしない。真実なんてそっちのけで、世間が騒げばそれでよしにしか見えない。そんなところがニュースを流しているし、そんな偏った報道しか見ていないんだから世の中もおかしくなるよなー、とかなんとか・・・

この話を聞きながら、俺もマスコミに踊らされて表面だけの正義の味方にならないよう気をつけないとなー、と思った次第。
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被害を受けたわけでもないのに、義憤にかられてクレームをつけてくる「表面だけの正義の味方」。これが「下品」の典型です。

彼らによって本当に対応が必要な人へのケアが遅れるとか、そういう実務上の問題もありますが、それよりなにより絶対安全圏から遠距離射程で一方的に攻撃を仕掛け、相手が倒れるのを待つという姿勢がここにある。

もちろん、本当の戦闘ならそのような戦い方にケチをつけるような野暮はしません。しかし、言論の場というのはお互いに噛み合ってナンボというか、意見を戦わせることで生産的な考えを生み出すことが目的でしょう(繰り返しますが、これは1つの信念として)。そういう場で、一方的に攻撃するバリアを張る、あるいはバリアがある状態で好き放題暴れまくるというのは、やってはいけないことではないけれど、そういう人と好んでお近づきになりたくはないですね。

とはいえ、そういう意味で品性を保ち続けるというのは実に難しいことで、私もそれができているとは到底思えない。無自覚に、あるいは自覚しながらやっていまっていることというのは多々あって、後から振り返って「あ〜あ……」と恥ずかしくなること数知れずです。後悔先に立たず、後も絶たず。

だからこそ、せめてもの抵抗というか戒めというか、「まずは形から」的な意味で、なるたけ言説の場では激昂せず、落ち着いた言い方で喋りたいと思っているのですが、先日「慇懃無礼だ」とか「遠回しに回りくどいことばかり言ってバカにしているように聞こえる」みたいに言われてしまい、軽くへこんでいます。

対話って難しい。

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2013/12/07(土) 23:27:42

  「無関心は権力者、統治者への静かな支持である。」 ――ウラジーミル・レーニン

特定秘密保護法案の採決をめぐり、このところごたごたが続いておりました。

私自身は反対ではありますが、それは法案の中身というより成立過程の問題だったのでその話はいったん措くことにしまして、気になったのは「マスメディア」の影響力の無さ。新聞、TVを中心に結構「煽って」いた感じがあったんですが、あんまり乗ってる人いなかったなぁと。それとも、私が見ていた範囲が特殊だったのでしょうか。

「煽って」いた部分については、メディアですから仕方ないというか、「知る権利」を掲げて本法案に反対するのは当然でしょう。しかし、正直効果があったのかはよくわかりません。御茶ノ水で署名を集めていた人たちは、「マスコミと協力して〜」などと呼びかけていましたが、残念ながら立ち止まっている人をほとんどみかけませんでした。

今回の法案が通ったことで分かりやすく不利益が直撃するのはマスメディアのはずです(そういう視点はどうなの? と言われるかもしれませんけれど)。なんせ、「情報」を商売にしているのですから。つまり、メディアが呼びかける危機感に対する国民の冷たい反応というのは、そのままメディアへの反応の温度でもある――より直截的に言えば、「私たちメディアが提供しているこういう情報も、今後見られなくなるかもしれませんよ!」という呼びかけに、「別にTVや新聞から入ってくる情報が制限されても良いし」という冷たい反応を返されたということでもあるはず。

マス(大衆)を標榜する以上これはまずいというか、どちらかといえばこういう重要な法案を前にして力を発揮してこそナンボではないのかと思うのですが、多くの国民に届く声を発することのできたマスメディアが、果たしてどれだけあったのか。

いやいや、沢山の人が動いていたし、デモもあった、と言われるかもしれません。しかし、彼らは別にマスメディアが煽らなくても動いた人たちでしょう。

だからといって別に、デモをしろとか呼びかけろと言っているわけではありませんよ。ただ、国民がこの法案についてしっかり判断できるような「真実」を遺漏なく伝えれば良い。そのうえで、自分たちの立場を述べる。報道の中立性とメッセージ性は同居可能です。

アジテーションやらセンセーショナルな見出し、深刻そうな表情など必要ありません。その程度の基本中の基本ができていないのにデコレーションばかり派手にするから、誰も動かないんだろうと思います。見限られているというべきか。

彼らが深刻な顔で、TVカメラの前で発言することばを、彼ら自身が本当に信じているならば、なぜマスメディアは自分たちのメディア生命を賭けてでも法案成立をとめるべく動かないのでしょう。あるいは、ニュースの枠を拡大し、バラエティを取りやめてでも特集を組んで「立ち向かう」ことをしないのはなぜなのでしょう。

ビートたけしが、こんなことを言っています。

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 まァ、わざわざ「ナチス」なんて言葉を持ち出してくる麻生さんも不用意だけど、もっと解せないのは朝日新聞やらがこのニュースを海外に向けて大々的に発信して責めるという図式だよ。
 政策の問題点やら、公共事業のムダ遣いやら、キチンとした政権批判はジャンジャンやればいい。だけどこれについては、ただ単にニッポンの恥を拡散して喜んでる感じがして珍妙なんだよな。新聞はそれで嬉しいのかねェ。
(ビートたけし『ヒンシュクの達人』)
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内容について諸手を上げて賛成というわけにはいきませんが、最後の「新聞はそれで嬉しいのかねェ」というのは、割りと本質をついたひとことのように、私には思われる。新聞にかぎらずいまのメディアというのは、「誰のために」存在しているのか、その基板がどうもあやふやに見える。

もっといえば、いまのマスメディアは「マス」のために報道をしているのかどうか。今回の件も、「国民にとって問題だ」と言っておきながら、自分たちはまるで「対岸の火事」を見るかのように動いているように思えてなりません。

最初の方に、「不利益が直撃する」という話をしましたが、まさに彼らは「不利益」程度にしか考えていないのかもしれない。彼らは国民でも国家でもない「マスメディア」という第三勢力であり、法案のことはせいぜい飯の種くらいにしか考えていない、というのが正直なところではないでしょうか(すべての番組をチェックしているわけではないので、事実誤認や例外があったらごめんなさい)。国民にとって真に何が問題なのかを掘り下げ、説得的に伝えることができていないし、やる気もないのかもしれない。

実際、今日は早速ワールドカップがトップニュースになっていましたし。もうそっちに移っちゃうのね、という。

そしてそのような腰の定まらなさゆえに、多くの人の信頼を失い、同時に「力」も失ってしまった。

『大唐新語』のエピソードを何となく思い出します。

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唐臨為大理卿,初蒞職,斷一死囚。先時坐死者十餘人,皆他官所斷。會太宗幸寺,親錄囚徒。他官所斷死囚,稱冤不已。臨所斷者,嘿而無言。太宗怪之,問其故,囚對曰:「唐卿斷臣,必無枉濫,所以絕意。」太宗歎息久之,曰:「為獄固當若是。」

(大意)
唐臨が大理(司法)長官となって初めて裁判に臨み、一人に死刑判決を出した。それまでには過去の長官が裁いた死刑囚が十数人いた。たまたま太宗(この時の皇帝)が立ち寄って、刑罰に誤りが無いか点検していると、その十数人はみな冤罪を訴えたが、唐臨に裁かれた一人だけは黙ったままだった。訝しんだ太宗が理由を訊ねると、その者はこう答えた。「唐長官が私を裁いたのですから、私欲を交えず法に沿った判決のはずです。ですから、抗弁をあきらめました」太宗はため息をついて、言った。「裁判というのはかくあるべきだ」
-----

ある判断に人びとが心から納得するのは、誰もが納得できる「法」にきちんと従っているからだ、という感じのお話です。もちろんこの話は唐臨の優秀さを物語るものではあるのですが、同時に、「民」というのは自分たちにはたらきかけてくる相手が、私利私欲に基いているかそうでないかを見分ける力をもっている、ということも語っていると思う。

マスメディアが力を失ったのは、愚かな大衆のせいなどではなく、その大衆に見透かされているメディア側の問題というのが大きいのではないかなぁ。

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2013/12/06(金) 18:39:02

巷では、「ノートが綺麗な生徒は成績も良い」みたいなことを言って売り出しているノートなんぞもございますが、多くの人はこれを見て、「ホントかよ?」と思うのではないでしょうか。あるいはもっとはっきりと、「嘘だッ!!」と。

実際、私の学生時代の経験から言っても、またその後関わった教育産業時代の経験から言っても、ノートの見栄えと成績に相関関係は無いような気がします。古代文字だかミミズがのたうち回ってるんだかわからないような文字で、メモ程度のものしかとらないのに成績が良い学生はかなりいますし、それ以上に、やたら綺麗なノートをとるけれどいまいち成績がパッとしない生徒がいる。

確かに、ノートにするということは自らの思考を整理し、わかりやすい形に整えるということです。だから、ノートをきちんととれる人というのは成績が良い、と言いたくなるのは理解できる。ある意味正しいことであるとも思います。しかし、ここで問題なのは「ノートをきちんととる」ことが、「ノートを綺麗にとる」ことと、必ずしも一致しないということです。

「きちんと」というのはおそらく、ノートをとる本人にとって意味のある、わかりやすい形で、ということです。一方「綺麗に」というのは、第三者から見てわかりやすいように、ということ。非常に乱暴に区別すれば、前者は理解力の問題であり、後者は説明能力の問題です。

ノートは自分にとっての思考の整理だから、「自分にだけ」わかれば良い。そんな風に考える人の作ったノートは、おそらく他人から見れば見づらいし、「よくわからない」ことが書いてある。一方、ノートを他人に見せたり、あるいは自分がしばらくたってから見返す必要があるから、忘れても大丈夫なように形を整えておく……という、そういう人の作るノートというのは「リアルタイムの思考」を離れ他人の目を意識した、ぱっと見理解しやすいものになるのではないでしょうか。

前者が掘り下げ型の思考、後者が俯瞰型の思考であると、そんな風に言ってしまうと言い過ぎかもしれませんが、得意な思考の形態が異なっているのではないかと、私は思っています。

ただ、根本的な問題として、ノートをとるのが下手な生徒というのはいます。

ものすごく綺麗にノートをとっていても、そのことに必死になってしまったり(特に女の子に多いのですが、カラフルなデコレーションや細かいレイアウトどりに躍起になって、内容をさっぱり覚えずにノートだけとっている)、あるいは自分でその時はわかっているつもりで箇条書き風のメモを書いているけれど、あとになって見直すと何を書いているか理解できずに往生したり(ズボラな男子学生に多いでしょうか)。

また、そもそもの問題として中学や高校では(最近では残念なことに「大学でも」と言ったほうが良さそうです)、居眠りが多発します。ノートをとるという作業をしていると、かなり居眠りの率が落ちますから、それを防ぐ意味でも「ノートをとれ」というふうに言うのは、一定の効果が見込めることでしょう。

また、言うまでもなく「情報の取捨選択」をするのにもノートは有効です。授業を聴きながら、本を読みながら、「ここは大事だな」「ここはメモしておこう」と思ったところを記録する。極めて有意義なトレーニングです。

そういった場合に、いわば学習スキルの一つとしてノートのとりかたハウツーを言い立てる意味はある。意味はあるどころか、かなり効果的だと思う。それなのに、「ノートが綺麗な生徒は成績が良い」のような不正確でいい加減な言い方をしてしまうと、多くの人にその「良さ」は伝わらず、勿体無いんじゃないかなぁ。

なんか手帳の書き方みたいなのでも似たような雰囲気を感じるんですけど。

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2013/12/05(木) 21:08:11

まとめサイト経由で回ってきた面白い? 記事。丁度一年前くらいのやつです。

▼「ベッドの女性の演技「口元の一連の動きで分かる」と性専門家」(NEWS ポストセブン)

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ベッドの女性の演技「口元の一連の動きで分かる」と性専門家
2013.12.03 15:59

 女性は男性に気を遣って、絶頂を装うこともある。「イク〜!」と大きな喘ぎ声を出していても、それが演技という可能性もあるのだ。

 勘違いしないためにも、女性の「演技」と「リアル」を見抜くポイントは、男性として知っておきたいところ。

 まず、感度を測る上で、喘ぎ声の大きさは重要ではない。それよりも言葉の抑揚や息遣いに注目すべきだという。ラブライフアドバイザーのOLIVIA氏が語る。

「セックスに没頭すると、“気持ちいい”とさえスムーズに言えず、言葉が途切れ、声に抑揚が付くもの。息遣いも変わり、“ハァハァ”と胸式呼吸の状態から“ウッ”と息を詰まらせたなら絶頂を迎えた可能性は高い。この時の“イク”は、たとえ小さく呟いただけでも本物でしょう」

 声や呼吸だけでなく、口全体をチェックすべきだとOLIVIA氏は続ける。

「快感が高まると口元は緩み半開きになり、大量に分泌された唾液が垂れやすくなる。そしてオーガズムに達すると、今度は歯を食いしばるなどの力強い動作が加わります。口元の一連の動きを見ていれば、本当に絶頂に達したのかがわかるのです」

※週刊ポスト2013年11月29日号
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まあ、私の経験と照らしあわせてみますと、喘ぎ声の大きさは重要じゃないってのはわかります。ボリューム調整すればすぐ変わりますからね……。

「口元は緩み半開きになり、大量に分泌された唾液が垂れやすくなる」というのもわかります。口元差分のことですね。

あと、「今度は歯を食いしばるなどの力強い動作が加わります」。これは逆で、イクときは口を開けて、それまでに歯を食いしばるようなCGが表示されることが多いかなぁ。髪を口にくわえて歯を食いしばってる描写とか好きなんですけど……最近あんまり見なくなって寂しいです。

え? エロゲーの話じゃない? それは失礼しました……。まあエロゲーの女の子はそもそも演技とかしないしね! 天使だから!

…………それにしても、「ラブライフアドバイザー(性専門家)」って何か凄いですね。ラブライブアドバイザーかと思ったでごぜーますよ。

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2013/12/04(水) 21:59:07

レーシック手術(視力回復手術)について、消費者庁が警鐘を鳴らしているそうで。

眼鏡をつけているけれどメガネフェチではない私からすると、「眼鏡をつけなくて良い」というのは非常に魅力的。じゃあコンタクトでいいじゃんって言われそうですけど、別におしゃれのためとかではなくて、単に眼鏡はつけはずしが面倒だからイヤなのであって、コンタクトなんかもっと手間がかかるから余計イヤです(笑)。

しかし、レーシックは新しい技術だけあってやっぱり問題が多いんでしょうかねぇ。報道では消費者庁の呼びかけについて、次のように言われていました。

 ▼「レーシック手術に注意呼びかけ 消費者庁」(NHK NEWS web)

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レーシック手術に注意呼びかけ 消費者庁
12月4日 17時42分

目の視力を向上させるレーシックの手術で、光がにじむようになるなどの被害が相次いでいるとして、消費者庁が注意を呼びかけています。

視力を向上させるレーシックの手術で目に何らかの被害を受けたという報告が、消費者庁には先月までの4年半ほどの間に、全国から80件寄せられています。

被害の内容で最も多かったのは、視力が矯正されすぎて遠視になったというもので、このほか、目に激しい痛みを感じたケースや、1時間に数回、目薬をさすようになったケースなどもあったということです。

こうしたことを受けて、消費者庁が先月、手術を受けた600人を対象に行ったアンケート調査でも、4割余りの人が、手術後に光がにじんだとか暗いところで物が見えにくくなったなどの不具合を訴えたということです。

こうした背景には、手術後に起きうる後遺症について、医療機関があらかじめ十分な説明を行っていないことがあるとみて、消費者庁は、レーシックの手術を受ける際にはしっかりとした説明を受けるよう呼びかけています。

また、この問題について、医療被害を扱う弁護士のグループが今月21日の午前9時15分から午後5時まで、専門の電話相談を行うことにしています。番号は03−6869−8391です。 
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私の知人でレーシック手術をした人がいますが、3人やって3人とも成功。言うほどひどいものでもないのでは……と思っていましたが、4割がトラブルを抱えているとなると、これは笑えません。

特に目というのは、人間の情報取得器官として最も頼りになる部分の一つですから、それがやられるというのはちょっとぞっとしない。エロゲーできなくなりそうですし!

しかし、コンタクトレンズもでた頃はいろいろ問題抱えてましたし、昔の通気性悪いコンタクトつけていたせいで目玉が浮き上がってくるなどのトラブルを抱えた人もいます。こういう技術は、表現が悪いですが「人柱」の上に成り立つものなのかもしれません。実際にやってみて、経験値を積まないとわからないこともありますからねぇ……。

しかしながら、それに巻き込まれた側からすれば冗談ではないわけで、せめてきちんとした説明や保障は求めたいところ。「医療機関があらかじめ十分な説明を行っていない」ということですから、「騙し討ち」はよろしくない。

レーシックの技術自体はこれからも発展していってほしいと思いますが、やり方のほうはいろいろ考えて欲しいなぁと思います。ちょっとやってみようかなぁとか思っていただけに、こういうニュースが来て踏みとどまることができて良かったんだかどうなんだか……。

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2013/12/03(火) 19:55:23

このところ、時間が無くてあまりツイッターで発言とかできなくなってしまっているのですが、それでも何か、1日か2日にひとことふたこと、どんなしょうもないことでもいいからとりあえず書いておこうか……みたいな気持ちになります。

別に誰の反応が無くても良いんですけど、まったく発言をしないと、ツイッターという場から自分の存在が希薄になって、消えてしまうような、そんな強迫観念に駆られる。誰かが「この人最近つぶやいてたっけ?」と、私の発言の履歴を追った時に、数日なり数週間なり発言が無かったら、「いなくなったのかな?」と思われるかもしれません。

それが嫌というよりは、「私はいますよ」というアピールのような感じで、とりあえず何か書く。そんな感じ。

考えてみるとこれは不思議な話で、ネット上の「存在」って、発信をしなければ気づかれないんですよね。身体をもった現実の私たちは、ただそこに「在る」だけで、一応は存在が認識されます。あるいは、ただいるだけでおのずから何かを発信していると言っても良いのかもしれません。少なくとも目の前にいる人が無言だからといって「消えた」とは誰も思わないでしょうし、遠くはなれていても、数年連絡をとっていなかった人と久しぶりに連絡をとりあう、ということはザラにある。

でも、数年放置されていたブログがいきなり開始されたり、数年何もつぶやかなかったツイッターアカウントがいきなりポストをしはじめたら、たぶん「使者が蘇った」くらいの驚きをもって迎えられることもあるのではないでしょうか。

どちらが良いとか悪いとか言う話ではなく、特性としてネット上の存在(人格、と言うべきでしょうか?)というのは身体から切れている。そのことが、私にとっては何か、存在の自明性を決定的なかたちで疑わしいものにしているのだと思います。

デカルトのコギトではありませんが、あるいはこれが、身体から乖離した近代的自我の、ひとつの典型的な形なのでしょうか? だとすれば、近代的自我にリアリティが足りないという批判は――つまり、身体こそがわれわれの現実であって、デカルト的「われ」などというのは空想の産物にすぎないという批判は、既に力を失っているのかもしれません。なぜなら、そんな「われ」が存在し、活動し、形成している社会が現にあるのですから。

そんな「われ」にそもそも実感を感じるのがおかしいという話はまあ、ありえそうですけど、それはもはや立場の決め打ちというか、宗教戦争一歩手前の信仰砲の撃ち合いでしかないでしょうし。

まあそんなこんなで、特に意味もない、誰に向けるでもない発言をぽつぽつするような日々が、しばらくは続くかもしれませんとか、だいたいそんな話でした。

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